消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(435) 韓国併合100年(74) 廃仏毀釈(8)

2012-08-06 12:21:31 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(11) 慶応四年九月三日(旧暦)に改元の詔勅(しょうちょく。注・天皇の意思表示のこと)が出され、慶応という元号が、明治に変えられた。しかし、改元は、九月三日からではなく、過去の慶応四年一月一日に遡(さかのぼ)って、慶応四年一月一日を明治元年一月一日とした。しかし、これは、改元されても依然として旧暦表示であったので、旧暦の明治元年一月一日とは、新暦に直すと明治元年一月二五日になる。天皇が即位したのは、旧暦の明治元年八月二七日(新暦では明治元年一〇月一二日)であるので、厳密に表現すれば、明治は一九六八年一〇月一二日(新暦)から始まる(http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/calendar/meijikaigen.htm)。

 日本におけるグレゴリオ暦(新暦)導入は、天保歴(旧暦)の明治五年一一月九日(新暦に換算すると一八七二年一二月九日)に公布された。従来の太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用することが布告された「明治五年太政官布告第三三七号、改暦ノ布告」では、当時の天保暦における明治五年一二月三日がグレゴリオ暦の一八七三年一月一日に当たっていたので、その日を明治六年一月一日と定められた。

 天保歴は、天保一五年(弘化元年、一八四四年)にそれまでの寛政暦から改暦され,明治五年(一八七二年)末に太陽暦であるグレゴリオ暦が採用されるまでの二九年間用いられた。正式には「天保壬寅元暦」(てんぽうじんいんげんれき)と言う。

 天保暦は、天球上の太陽の軌道を二四等分して二四節気を求める「定気法」を採用した。渋川景佑(しぶかわ・かげすけ)らが、完成させたこの暦は、それまで実施された太陰太陽暦としてはもっとも優れたものであった(http://homepage2.nifty.com/o-tajima/rekidaso/calendar.htm)。

 日本では、一八七三年以前の年代をグレゴリオ歴に換算するか、しないかは、執筆者各自に任されている。確実にグレゴリオ歴で表記されるのは、一八七四年以降である。

 ちなみに、福沢諭吉は新暦の採用で大儲けした。太陽暦への改暦を唱えていた福澤諭吉は、改暦決定の報を聞くと直ちに『改暦弁』を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時に慶應義塾出版局から刊行されたこの書は、「たちまち、一〇万部が売れた」(内務官僚の松田道之に宛てた福澤の書簡(明治一二(一八七九)年)三月四日付)(http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/fukuzawaya/21.html)。

 突然の太陽暦への改訂には、大隈重信による官吏給与カットの陰謀があったという説もある。真偽のほどは不明であるが、紹介しておく。

 改暦された明治五(一八七二)年は、政府の要人のほとんどは、岩倉具視使節団として一年半にわたる海外視察の途上にあった。使節団は、留守を預かる大隈重信に、使節団が帰国するまでは、重要な変革は行わないと約束させたのにもかかわらず、大隈は改暦という大変化を日本社会に起こしてしまった。これには、明治政府の深刻な財政難があった。旧暦のままだと、翌年(明治六年)は、閏年(平年より一か月多い)であり、政府は役人に一三か月分の給料を支払わねばならなくなる。新暦に直せば、一月分の給与が浮く。

 改暦の日も重要である。旧暦のままだと、一二月分供与を祓わなければならないからである。来年から太陽暦を採用すると発表したのは旧暦の明治五年一一月九日であった。そして旧暦は一二月二日までで、旧暦の一二月三日に当たる日が新暦の明治六年一月一日とされた。つまり、旧暦の一二月三日から大晦日まで、支払わなければならない日が消えたのである。事実、給与は支払われなかった(http://www.geocities.jp/guuseki/calender.htm)。

(12) 神祇省は、明治四年八月八日(旧暦。新暦では、一八七一年九月二二日)~明治五年三月一四日(一八七二年四月二一日)に神祇の祭祀と行政を掌る機関として律令制以来の神祇官に代わって設置された。しかし、新しく設置された宣教使による大教宣布を強化するために、わずか半年で教部省に改称され、宮中祭祀は分離されて宮内省式部寮に移されることとなった(http://www.oit.ac.jp/japanese/toshokan/tosho/kiyou/jinshahen/51-1/02inoue.pdf)。

 キリスト教に見紛う明治初期の宣教師は、明治三(一八七〇)年正月に「神祇鎮祭の詔」と、「治教を明らかにし、以って惟神の大道を宣ぶべし」との「大教宣布の詔」に基づく神道教化を推進すべく設置されたものである。各藩に宣教担当が置かれるが、この宣教使制度はその後ほぼ機能することなく、短期間で廃された(http://www.nippon-bunmei.jp/tsurezure-40.htm)。

(13) 教導職とは、明治時代初期の大教宣布のために設置された宗教官吏である。明治五(一八七二)年から明治一七(一八八四)年まで存続した。明治三(一八七〇)年に設置された宣教使制度を前身とする。明治五年の教部省設立と同時に置かれた職。教部省の管轄下にあった。教導職は、無給の官吏で、当初は、神官、神道家、僧侶が任命された。教導職は、各地の社寺で説教を行った。講じられた内容は国家・天皇への恭順や、敬神思想家族倫理、文明開化、国際化、権利と義務、富国強兵であった(http://ci.nii.ac.jp/naid/110007054392)。

(14) 大教院は、明治五(一八七二)年、国民に対して尊皇愛国思想の教化(大教宣布)をするためのに設立された機関である。仏教各宗もこの政策に同調した。中央機関として、明治五年に、東京紀尾井坂の紀州邸を大教院に当てたが、翌明治六年、東京芝増上寺にこれを移し、全国に中、小教院を設け、祭神に造化三神、天照大神を奉斎した。しかし、この種の運動に仏教界を巻き込むこと自体が無理であった。神道と、仏教界との対立のために明治八(一八七五)年、神仏合同布教禁止の令が発せられ、大教院は解散させられた(http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/8206/1/N-07.pdf)。

(15) 三条教則は明治五(一八七二)年、教部省が大教宣布運動の大綱について教導職に通達した日常生活の倫理綱領である。第一条で「敬神愛国」、第二条で「天理人道」、第三条で「天皇の意志に従うこと」とある。条文は、三宅[二〇〇七]に収録されている。

(16) 明治二(一八六九)年に設置された中央官庁の一つ。土木・駅逓・鉱山・通商など民政関係の事務を取り扱った。明治四(一九七一)年に大蔵省に吸収された(http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/21794317834900/)。