消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(434) 韓国併合100年(73) 廃仏毀釈(7)

2012-08-05 12:20:54 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(5) 平田派の明治維新期における影響力は短命に終わり、すぐに、津和野派に実権が移った。津和野派の福羽美静(ふくば・びせい)が実質的な権力を握ったものと思われる。
 平田派の祭政一致は神祇事務局設置で実現したが、その一か月後平田派は解任され、事務局の実権は福羽美静に移ったのである。おそらく神学上の対立と地域的に近い長州閥を利用した津和野派による政治的な追い落としがあったと思われる(http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43_1.htm)。

(6) 権現とは仏が衆生(しゅじょう。注・生命あるものすべて)救済のために権(注・仮にという意味)に神となって現れたことを指す。その淵源は平安時代の中期(一〇世紀頃)にあるとされている。権現は、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)と関連している。本地垂迹説とは、仏や菩薩を本地、神を垂迹と言う。本来の姿(本地)の仏が、衆生を救うために姿を変えて迹(あと)を垂(た)れるものだとする考え方である。これは日本独特の神仏観である。権現の例としては、天照大神の本地が大日如来、八幡神の本地がは阿弥陀仏や観音菩薩などがある。春日権現や熊野権現などのように権現名で神を呼ぶこともある。家康は東照大権現と呼ばれた。明治政府の行った神仏分離により、これまで権現号を名乗っていたところが神社を名乗るようになり、多くの場所で権現の名称が削られた(http://www.ohaka-im.com/butsuji/butsuji-gongen.html)。

(7) 釈迦の寺院を祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)というが、その守り神が牛頭天王(ごずてんのう)であるという説もある(http://members.jcom.home.ne.jp/3366537101/sub3.htm)。
 牛頭天王は、日本伝来後、様々な要素が合体した。日本では、牛の神様とされ、京都では公家たちが牛車を使っていたため、八坂の地に牛頭天王を祀る祠が作られたのではないかとも言われている。同じ地に祇園寺と八坂神社もあり、平安時代の御霊会・祇園会などであがめられた。八坂神社は元々は高麗系の八坂氏の氏神で農耕神だったとも言われている。牛頭天王は全国の八坂神社・祇園神社・津島神社で祭られている(http://www.ffortune.net/spirit/tera/hotoke/gozu.htm)。

(8) 鰐口の多くは鋳銅(銅の鋳物)製であるが、まれに鋳鉄製や金銅(銅に鍍金を施したもの)製のものも見られる。通常は神社や仏閣の軒先に懸けられ、礼拝する際にその前に垂らされた「鉦の緒」(かねのお)と呼ばれる布縄で打ち鳴らすもので、今日でも一般によく知られている。その形態は偏平円形である(http://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/stop/zukan/z0305.htm)。

(9) 比叡山麓の日吉大社(滋賀県大津市)より生じた神道の信仰に山王信仰(さんのうしんこう)があった。日吉神社(ひよしじんじゃ)、日枝神社(ひえじんじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は、日吉大社より勧請(かんじょう。注・神仏を迎え奉ること)を受けた神社で、大山咋神(おおやまくいのかみ)と大物主神(おおものぬしのかみ)を祭神とし、日本全国に約三八〇〇社ある。神仏習合期には山王、山王権現、日吉山王などと称されていた。猿が神の使いとされている。比叡山は、もとは日枝山(ひえのやま)と呼ばれていた。初めは日枝山の神である大山咋神のみを祀っていたが、大津京遷都の翌年である天智七(六六八)年、大津京鎮護のため大和国三輪山(みわやま)の大三輪神(おおみわのかみ)、すなわち大物主神を勧請した。
 比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、大山咋神と大物主神は地主神(じぬしのかみ)として延暦寺の守護神とされ、延暦寺は、この両神を「山王」と称した。これが、「山王神道」を発展させた。山王神道では山王神は釈迦の垂迹であるとされた(http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/ooyamakui.htmlhttp://www.niigata-u.com/files/ngt2003/hie1.html)。

(10) 八幡信仰は、大分県の宇佐(うさ)を発祥地として日本全国に普及した。地域や時代によって、信仰対象が変化してきた。戦いの神、鍛冶の神、海の神、焼畑の神、等々である。北九州の地方神であった八幡神は、奈良時代の聖武天皇による東大寺大仏造立事業に貢献したとして、七五二年の大仏完成後、都に迎えられ、一品(いっぽん)という最高位を授けられた。七六九年の僧道鏡を天皇にしようとした事件などでも国家の危機を救ったとされて鎮護国家神になった。天皇の即位や重大な事業については、その報告が宇佐八幡宮に派遣されて祈願を受けた。八幡神は応神天皇であるとも解釈されるようになった。七八一年には、朝廷から大菩薩の神号が贈られた。東大寺をはじめ奈良、京都の大寺の境内に鎮守の神として勧請された。

 京都の石清水(いわしみず)八幡宮は、八六〇年に宇佐から勧請され、僧侶が運営する宮寺(みやでら)であった。さらに八幡神の本地仏は阿弥陀如来であると考えられるようになった。しかし、明治政府の神仏分離政策で仏教色が一掃され、僧侶の関与はなくなった(http://senmon.fateback.com/soukagakkai/shukyou/hachiman_kami.html)。