消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.95 「売らない」「汚さない」「乱さない」「生かす」

2007-04-17 23:50:39 | 言霊(福井日記)
 福井永平寺町にある私の下宿は、ひろい田畑に囲まれ、それはそれは美しい所で「あった」。

 「こしひかり」(越の光、つまり越前生まれ)はもとより六条麦蕎麦、大豆と、それこそ、季節毎に眼を楽しませてくれて「いた」。部屋から徒歩100歩ほどの小さな農業用水路には、蛍が乱舞し、それはそれは幻想的な景色で「あった」。

 この広い田園の中を、陽の光を満身に浴びながら、走り回るのが私の最高の楽しみであった。そして、こうした美しい景観はなくなった。過去のものになった。

 桜の美しい季節。その美しさが徹底的に破壊された。広大な田畑が深くえぐり取られ、なんと、砂利採取場に瞬時に変容させられたのである。

 ブルドーザーがうなりを立てて、土を掘り返す。なんてことをしてくれるのだ。そもそも、この広大な田圃は、莫大な国費を投入して、氾濫を繰り返して住民を苦しめていた九頭竜川の河川敷を埋め立て造成されたものである。それは、福井が世界に誇るべき鳴鹿大堰と一対のものである。そして、造成された土地は、田畑として、住民に配分された。先人の努力の賜である貴重な田畑が砂利採取場に変えられた。

 田畑を潤すために作られた用水路の設計は見事で「あった」。高低差を克服すべく何本もの用水路が、芸術作品のごとき繊細さで私を魅了して「いた」。

 嗚呼!なんてこと。
用水路は蓋をされて見えなくなり、田畑は深く深くえぐり取られて谷底のようになってしまった。田畑の土は、汗の結晶である。それが無惨にも壁のように、うずたかく積み上げられてしまった。美しい景色が一瞬にして消え去った。なにもかもが終わった。真の財産がなにかを知らないまま、短期的な金銭でのみ土地が破壊される。田畑を造成する誇るべき公共事業が無に帰し、元の川底に戻ってしまった。いや、川ならまだ美しい。すり鉢地獄になってしまった。

 私が福井日記を書き出したのは、この地の、とてつもなく美しい景色に感動したからである。この感動を多くの人に伝えたかったからである。がっくりくる。今年の梅雨時、あの信じられないほど美しかった蛍はもう見えないだろう。蛍の幼虫は、埋められて死滅したであろう。

 農業を維持できなかったのであろう、田畑を砂利採取業者に売った人は。離農者の田畑は、このような使用のされ方でいいものだろうか。地域計画とは、かくも力のないものなのだろうか。

 「売らない」、「汚さない」、「乱さない」、「壊さない」、「生かす」という住民憲章をもつ地がある。八重山諸島の竹富島である。地元では「たきどぅん」とか「たなどぅい」と発音されている島である。

 農民が理不尽な人頭税に苦しめられながらも、この島の歌謡舞踏はじつにおおらかなものである。子守歌ひとつをとっても、本土の子守歌は、子守をさせられる娘の恨み節ばかりなのに、この島の子守歌は、じつに美しい。美しい自然と子守をする娘と、そして幼児がみごとに美しく解け合っている。後で紹介する。

 1972(昭和47)年、本土復帰があった後、土地買い占めが横行した。NHKのドラマで有名になった島、あるいは石垣島、宮古島では、巨大資本が豪華なリゾート施設を作った。そうした動きに竹富島の人々は拒否反応を示した。

 「島外者に土地が買われたら島の自然・文化が変質し崩壊する」と危機感をもった人が立ち上がり、土地の買い占め・売り渡し反対運動を展開した(上勢頭(うえせと、昔の発音は「ういしどぅ」)芳徳(喜宝院蒐集館長)「竹富島のデータ」(『星砂の島』、第10号、平成18年、16ページ)。

 当時の島民が参考にしたのは、「妻籠宿(つまごしゅく)を守る住民憲章」であった。マスコミも取り上げてくれて、島民の運動は成功した。竹富島憲章制定委員会が設立され、1986(昭和61)年3月31日、住民総会の満場一致で竹富島憲章が採択された。これが、上の理念を基本形とするものであった。

 上勢頭芳徳氏の手記から『琉球新報』(1904(明治)37年)による竹富島の紹介を転載させていただく。

 「島民は競ふて能く農事に精励する点に至りては実に県下農民中稀に見る所・・・。人気亦活発にして能く旅客の応接に馴れ少しく諧謔の気味を帯ぶものの如し」。

 島民は、非常に勤勉な人々である。余所者への応対にも優れている。ユーモアを解すると絶賛されていた。

 そして、1906(明治39)年の同じく『琉球新報』。
 「人民一般に勤勉富裕にして犯罪者なく公費の未納者なし。道路清潔家屋の茅葺なるものは網を張て風害および鴉の害を防ぐ。戸毎の石垣には畢発(香料にする)茂生し葉は青く実の熟したるものは赤く村風の美と共に異彩を放てり」。
 まさにいまもこの光景が息づいている。

 この島には「うつぐみ」という言葉が多用されている
「一致協力」
という意味である。内にあっては協力をし、外からやってきた人にはユーモアで接し、歌や踊りでもてなす習慣がこの島には根付いていた。
 上勢頭芳徳氏は、同じ雑誌の別の手記で、竹富島の人口の変遷について述べている(同「竹富島憲章20周年―その今日的意義」(前掲、20~22ページ)。

 竹富島の人口は、1,000人前後で明治以前には推移していた。1904(明治37)年には1,114人であった。しかし、往来が自由になると、離島者が多くなった。特に昭和30年代の流出がひどかった。家を解体して石垣島に運ぶケースが相次いだ。1972(昭和47)年に316人、1982(平成4)年にはさらに減少して、251人まで落ち込んだ。これが史上最低の人数であった。その後は、ずっと増加し続け2006(平成18)年には、351人になった。これは、島外の資本に土地を売らない「竹富島を生かす会」の「金は一代、土地は末代」のスローガンに島民が強く反応したことによる。

 上記、竹富島憲章(1986年3月31日制定)と並んで「竹富町歴史的環境保存条例」が同年3月24日に町議会で可決された。

 中央官公庁がこれにいち早く反応した。国土交通省は、同年、「手づくり郷土(ふるさと)賞」を創設し、竹富町の家並みもその第1回の賞を受けた。文化庁は、1987(昭和62)年4月28日付『官報』で、竹富島の保存地区を告示した。地方の条例制定後1年で文化庁が呼応したのは、異例のことであった。

 民間団体も鋭く反応した。1988年4月、日本民藝協会の夏季学校が全国から参加者(約90名)を集めて合宿で開催された。同年、6月には、全国町並みゼミの第11会大会が島で開催された。そのときのテーマは、「語ろう町並み、広げよう『うつぐみ』の輪」であった。面白いことに、それまでの旅行会社による竹富島の観光パンフレットは、青い海と青い空であったのに、こうした全国の関心の高まりを反映して、赤瓦のものに変わった。若者がUターンしだした。人口350人ほどの島に、毎年6~8人の赤ちゃんが生まれる。非常に高い出生率である。戦後、日本人は、ついに美しい町並みを作ることができなかったのに、竹富町はそれを成し遂げた。

 竹富島憲章は、妻籠宿、白川村、川越市とともに、「全国町並み保存連盟」のモデルとなった。2002(平成14)年、同連盟は、「全国共通憲章」を制定した。

 上勢頭氏の感動的な文を引用しよう。
 「弱者を守るために、またきちんと伝えていくためにも、現役の世代が水面下の見えない所で必至にもがかなければ良い地域づくりは出来ません。争いを好まない島民性が、一致協力するという『うつぐみの心』を可能にしています。各人がそれぞれに生活圏なるものを主張すると、地域の風土に根ざした文化としての町並み警官を破壊します。土地、建物は個人のものであっても、景観はみんなのものです。個人のわがままが、みんなの生活圏を脅かすことが有ってはなりません。論議を重ねて人知を尽くした後は神仏、祖霊に委ねましょう。いずれその結果は子孫に現れるということは、島のみなさんが良くご存知でしょう」(同、22ページ)。

 至言である。そして、私が追い求めている宗教はまさにこれである。

 文化庁は、「手づくり郷土(ふるさと)賞」が20回目になったことを記念して、過去に受賞した地域の中で、この町づくり面で、もっとも持続・発展した地に大賞を授与した。竹富町がそれに選ばれた。

 『琉球新報』(2005(平成17)年11月29日付)を拾い読みしよう。
 「同賞は知己が一体となって個性や魅力を創り出している社会資本に贈られるもので、本年度で20回目」。

 八重島諸島には、年間71万人の観光客が訪れるが、「竹富島の家並みは・・・特に人気が高い。水牛車での移動など、昔ながらの沖縄の風景に『癒やし』を求めて多くの観光客が訪れる」。

 同島への観光客は1986年には約9万人であったのに、2004年には36万人に急増した。

 「竹富島では住民らが86年度に『うらない』、『こわさない』、『よごさない』、『みださない』、『いかす』という『竹富島憲章』をつくり、島の歴史や文化、自然を守ろうと、道路の清掃や除草、花木の手入れや、伝統的な祭の継承に取り組んでいる」。
 次回からは、島歌と踊りを紹介しよう。

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