六 朝鮮総督府によるキリスト教弾圧
一九一〇年九月三〇日、韓国は朝鮮と改称させられ、日本に併合された(9)。統治を行う機関として朝鮮総督府が設置され、翌日の一〇月一日、筆頭である朝鮮総督に就任したのが寺内正毅であった。彼は、朝鮮における憲兵警察制度の実施に象徴されるように、「武断統治」を行った。しかし、朝鮮でのクリスチャンの政治的な影響力の大きさも十分に認識していた寺内は、武断外交への欧米系宣教師の反発を警戒していた。彼らが韓国人に与える影響力、とくに、キリスト教会が運営するミッション・スクールの影響力を、寺内は、強く意識していたのである(朝鮮総督府[一九一七」、三三八ページ、韓[一九八八]、八七ページ)。しかし、寺内は、キリスト教そのものを韓国で禁止できないことも認識していた。
そこで彼が採用した措置は、総督府に従う日本のキリスト教団に布教させることであった。そのために選ばれたのが、日本組合教会であった。この教会は一八八六年に創設され、設立当初から韓国伝道を標榜していたが、韓国併合二か月後の一九一〇年一〇月、第二六回定期総会で朝鮮伝道の促進を改めて決議している。そこには、「日本国民の大責任を」を果たすとの国粋的文言が埋め込まれていた(松尾[一九六八a]、七ページ)。
同教会の朝鮮伝道には総督府や日本の財界から多額の寄付を得ていたとされる(同教会機関誌『基督教世界』一九一四年一〇月八日)。一九一六年、寺内の後を継いで総督になった長谷川好道・陸軍大将も、寺内の意思を受け継ぎ、日本組合教会への援助を続けていたらしい。長谷川が後任の斎藤実(まこと)への引き継ぎに、キリスト教の伝道を西洋人に任せるのは、甚だ危険なことなので、これまで総督府は、日本人牧師が主宰するキリスト教会、とくに日本組合教会を援助し続けてきたと説明したと言われている(姜徳相[一九六六]、五〇〇ページ)。ただし、斎藤はこの助言を無視して、日本組合教会を突き放してしまい、この教会は瓦解した(富坂キリスト教センター[一九九五]、九一ページ)。
一九一〇年一二月二九日、朝鮮北西部の宣川(Sonchon)などを寺内が視察した時、寺内暗殺未遂事件があったと報道された。総督府系の新聞、『毎日申報』(Maeilsinbo、朝鮮語)、『京城日報』(日本語)、Seoul Press(英語)などの大々的は報道は、クリスチャンたちが寺内暗殺を計画していた、とくに長老教会系の米国人牧師が、その計画に関わっていたという内容であった。朝鮮総督府は、一九一一年九月までに約七〇〇人の朝鮮人を逮捕し、証拠不十分で釈放された人たち以外の一二二人が翌一九一二年に裁判を受けた。米国政府やニューヨークに本部があった長老教会は、事件との関わりを否定し、逆に朝鮮総督府が自白を得るために逮捕者を拷問していると言い立てた。当時の京城地方法院(裁判所)は同年九月二八日、一二二人の中で一七人だけを無罪とする一方、残りの一〇五人に懲役刑を言い渡した(一〇五人事件、宣川事件、尹[一九九〇]、梁[一九九六]、参照)。うち、九八人がクリスチャンであった。また、一九一二年一〇月には、長老派によって経営されていた京城の京信(Kyonsin)男子高校の教師と生徒が破壊活動の嫌疑で逮捕されている(Blair & Hunt[1977], pp. 115-16)。
その後の控訴審では、一九一三年一〇月に、一〇五人の中で九九人が無罪を言い渡された。一方、尹致昊などの六人には懲役刑が確定した。しかし、その六人も一九一五年二月、大正天皇の即位式にちなんだ恩赦によって釈放された。
併合前には、ミッション・スクールに対する統制は強くなかった。それでも、韓国統監府は、一九〇八年に「私立学校令」を出し、韓国の教育は、日本の教育勅語に則るものでなければならないと布告していた。そして、併合直後の一九一一年に、朝鮮総督府は、「第一次朝鮮教育令」、「私立学校規則」等々を公布し、朝鮮における教育統制を強めることになった。それでも、一九一一年時点では、ミッション・スクールはこの指令では除外されていた。ただし、「朝鮮教育令」の作成に携わった東京帝大の穂積八束(ほずみ・やつか)などのように、キリスト教と国体とは相容れないために、ミッション・スクールは強く監視されるべきであると言う教育関係者も結構存在していた(大野[一九三六]、四九ページ)。