消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(414) 韓国併合100年(53) 韓国臣下論(4)

2012-05-03 14:16:29 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 三 「万世一系」と征韓論―皇帝・天皇・王

 「日英同盟」は、三次まで改訂された。「第二次同盟」は、一九〇五年、日露戦争後に「第一次同盟」を改訂したものであるが、四年しか続かなかった。「第三次日英同盟」は、一九一一年七月一三日に締結され、一九二三年八月まで続いた。この「第三次同盟」は過去の二つの同盟とは質を異にしていた。一九〇五年の日露戦争における日本の勝利と一九一〇年の日本による韓国併合という東アジアにおける地政学上の変化が、一九一一年の「日英同盟」を大きく規定した。もはや、完全に日本の国威発揚に日本側が最大限利用したものになっていた。

 このことを明らかにする手掛かりが、一九一〇年の五月一四日から一〇月二九日まで、ロンドン西部のシェパード・ブッシュ(Shepherd Bush)で開催された日英博覧会(The Japanese-British Exhibition of 1910)にある。

 この博覧会は、元駐英全権大使、時の外務大臣・小村寿太郎に負うところが多かった。日本側経費は一八〇万円であった。二〇万坪の敷地に、甲園・乙園、二個所の日本庭園を六〇〇〇坪の広さで造営した。設計には、小沢圭次郎(けいじろう)、本多錦吉郎(きんきちろう)、清水仁三郎(にさぶろう)、井沢半之助(はんのすけ)らが当たったが、甲園は小沢、乙園は本多案を基礎として、現地で井沢が監督をして作庭している。井沢は、一九〇九年一二月から、一九一〇年五月まで造営作業に従事した。植木職人三名が同道した。建築には、農商務省技師榎本惣太郎(えのもと・そうたろう)と大工四名が派遣されていた(http://www.sekkeiron.exblog.jp/2906162/)。造営作業をビクトリア女王が見学して、日本の作業者を感激させたという(The Daily Telegraph, 15 March, 1910)。

 この博覧会は、「日英同盟」を記念して開催されたものである。日本政府は乗組員八〇〇名からなる巡洋艦・生駒(いこま)を、博覧会に近いウラベセンド(Gravesend)港に停泊させた。日本海軍力の誇示である。乗組員全員が英国側の晩餐会に招かれたという(http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34083/.../115_PL21-58.pdf)。

 二〇〇九年四月五日(日)午後九時から、NHKが、NHKスペシャル「シリーズ・JAPANデビュー、第一回、アジアの“一等国”」を放映した。そこで、この日英博覧会が取り上げられた。そして、NHKは、以下のようなコメントを出した。

 「日本は、会場内にパイワン(注、台湾南部に住むインドネシア語系に属する原住民である高砂族の一種族)の人びとの家を造り、その暮らしぶりを見せ物としたのです」。「当時イギリスやフランスは、博覧会などで、植民地の人びとを盛んに見せ物にしていました。人を展示する『人間動物園』と呼ばれました。日本は、それを真似たのです」。

 このコメントについて、NHKは後日、釈明している。
 「イギリスやフランスは、博覧会などで被統治者の日常の起居動作を見せ物にすることを『人間動物園』と呼んでいました。人間を檻の中に入れたり、裸にしたり、鎖でつないだりするということではありません。フランスの研究者ブランシャール(Kendall Blanchard)

氏が指摘するように『野蛮で劣った人間を文明化していることを宣伝する場』が人間動物園です。番組は、日本が、イギリスやフランスのこうした考え方や展示の方法を真似たということを伝えたものです。日本国内では、日英博覧会の七年前、一九〇三年、大阪で開催された第五回内国勧業博覧会において、『台湾生蕃』や『北海道アイヌ』を一定の区画内に生活させ、その日常生活を見せ物としました。この博覧会の趣意書に『欧米の文明国で実施していた設備を日本で初めて設ける』とあります。こうした展示方法は大正期の『拓殖博覧会』や一九一〇年の『日英博覧会』に引き継がれます」。

 「日英博覧会についての日本政府の公式報告書『日英博覧会事務局事務報告』によれば、会場内でパイワンの人びとが暮した場所は『台湾土人村』と名付けられています。『台湾日日新報』には次のように記されています。『台湾村の配置は、台湾生蕃監督事務所を中心に、一二の蕃屋が周りを囲んでいる。家屋ごとに正装したパイワン人が二人いて、午前一一時から午後一〇時二〇分まで、ずっと座っている。観客は六ペンスを払って、村を観覧することができる』。また、『東京朝日新聞』の『日英博たより』(派遣記者・長谷川如是閑(にょぜかん))には『台湾村については、観客が動物園へ行ったように小屋を覗いている様子を見ると、これは人道問題である』」とあります。日英博覧会の公式報告書(Commission of the Japan-British Exhibition)には『台湾が日本の影響下で、人民生活のレベルは原始段階から進んで、一歩一歩近代に近づいてきた』と記されています。イギリス側も、日英博覧会の公式ガイドブックで『我々(イギリス)は、東洋の帝国が“植民地強国”(Colonizing Power)としての尊敬を受ける資格が充分にあることを認める』と記しています」(http://www.nhk.or.jp/japan/asia/index.html)。

 帝国主義の思想的基盤は、自国が文明の担い手であるという思い込みにある。日英博覧会はその具体的な現れであった。こうした姿勢は、幕末・明治初期の征韓論にもあった。日本の天皇の「万世一系」論がそれである。

 江戸時代の主流学問であった朱子学は、中国を「華」と敬い、周辺国を「夷」と卑しむ華夷思想であった。朱子学における華夷思想に「名分論」(めいぶんろん)というものがある。中国皇帝の権威を人倫秩序の淵源に見立てるという考え方がそれである。この思想によれば、日本は中国皇帝にひざまずかなければならない。こうした朱子学による中国皇帝の権威に対抗する日本独自の価値原理を打ち立てるべく、日本の天皇を尊しとする尊王思想が浮上することになる。それが、日本の天皇の「万世一系」論である。

 中国の王朝は、易姓革命により変遷するとの思想があった(5)。易姓とは、ある姓の天子が別の姓の天子にとって代わられることで、革命とは、天命が改まって、王朝が交替すること。天が、命を下して、徳のある者を天子となして人民を治めさせる。天子や王朝の徳が衰えて、人民の信頼がなくなれば、天が、天変地異などを起こして、その天子や王朝を去らせ、新しい有徳者に王朝を開かせて、人民を支配させるというのが、中国の易姓革命論である。王朝は、同じ血統(姓)を続けるが、王朝交代の際には王室の姓が変わることから、易姓革命という。姓(せい)を易(かえ)命(めい)を革(あらたむ)という意である(三省堂『新明解四字熟語辞典』より。出典『史記』の『暦書』)。

 この思想が中国に広く受け入れられたために、新王朝は、前王朝が天命を失ったことを証明すべく、前王朝の歴史編纂が、新王朝の重要な仕事となったと考えられる(http://www.allchinainfo.com/some/yixing.html)。

 このような中国に比して,日本は易姓革命の生じる余地がなく、万世一系の天皇家が永続しているというのが、王政復古論の背後にあり、これが、日本の道義的優越性を示すものと主張された。


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