四 朝鮮総督府による朝鮮仏教寺院の統制
日露戦争後、日本は韓国を保護国化して、一九〇五年一二月二一日、韓国統監府を設置した。そして、一九〇六年一一月、統監府令第四五号「宗教の宣布に関する規制」を発布した。仏教を韓国で布教しようとする日本人は、総監府の許可を得なければならないということが建前であったが(川瀬[二〇〇九]、五二ページ、注六一)、実際の運用面では、韓国の寺院を管理したいと願う日本の仏教寺院は、統監府に書類申請すれば、韓国寺院を日本寺院の管理下に置くことが認められていた。これによって、真宗大谷派は海印寺や梵魚寺など半島随一の由緒ある名刹(2)を自己の末寺にすることができた(川瀬[二〇〇九]、三二ページ)。ただし、両寺を末寺にしたことの効果については、大谷派自体が懐疑的な反省を行っている。それでも、その行為は一定の効果を持っていたことは否定できないとの自己弁護をしている。
「本願寺の朝鮮開教(3)が朝鮮の寺院及び僧侶に対して何程の刺激を与へたか、この質問に対して編者は遺憾ながら全くナッシングであるとも答え得ないのである。何となれば、嘗(かつ)て開教師が海印寺に出張して鮮僧を教養し、或は梵魚寺に於いて奥村師が鮮僧を誘掖(ゆうえき)(4)した事実があるから全く何等の刺激を与へなかったとは云へないのである」(朝鮮開教監督部編[一九二九]、一九一ページ)。
この文章には、傲慢さが漂っている。朝鮮の仏教とたちは、歯を食いしばって李朝権力の弾圧に抗してきた。李朝がなくなり、大韓帝国ができても、今度は、日本という新たな権力の膝下に韓国の仏教は置かれてしまった。弾圧されてきた朝鮮半島の仏教を守ってきたという自負を持っていたであろう朝鮮の名刹に対して、日本の開教師が海印寺の僧たちを教えた、奥村円心師が梵魚寺の僧たちを導いたと言ってのけたのである。日本の仏教教団は、朝鮮の寺で自分の考え方を述べて朝鮮の僧たちと意見を交換し、過去の弾圧の負の遺産を跳ね返そうとエールを交わせなかったのである。
奥村円心の大きな業績を讃える書の編者たちの感覚だけなら、教団の少数の僧の勇み足であったとして無視することもできる。しかし、時の法主(ほっす)であった彰如(しょうにょ)(5)は、法主就任に当たって次のような訓辞(御垂示(ごすいじ))を出している。現代語風に要約する。
<韓国併合に向かうという天皇のお言葉(大詔)は、太陽と星のような平和と秩序を東洋にもたらすものである。日本は、慈愛をもって韓国民を永遠に安心(綏撫、すいぶ)させえることができる。これで東洋は平和の基礎は強固になる。とくに真宗を信じる人たちは、人々を等しく慈しむ(一視同仁、いっしどうじん)ことができ、仏の慈悲で海外の人たちを包みこむことができる。新しく日本に加わる人たちに恐れを抱かすことなく、彼らを啓発し、彼の地の産業を発展させることが真宗の任務である。天皇の御言葉(聖旨、せいし)を遵守することが、国家と仏祖に報いる仏教徒の義務である>(一九〇八年九月二五日の本山『宗報』第一〇八号。川瀬[二〇〇九]、三四、五二ページより転載)。
そこでは、韓国人を「新附ノ国民」と表現し、彼らを教え導く(扶掖、ふえき)ことが真宗の目標に置かれているのである。
総監府を継承した朝鮮総督府も、李朝によって弾圧されていた韓国・朝鮮仏教を救済するという名目の下で、半島の寺院に対する統制を強化して行った。
一九一一年に施行した「寺刹(じさつ)令」(6)を、朝鮮総督府は次のように自画自賛した。要約する。
<朝鮮の仏教寺院は、新羅・高句麗・百済の三国対立時代に創建され、高麗朝時代に隆盛を迎えたが、李朝時代の中期になると、儒教を奨励し・仏教を抑制する(揚儒抑仏)という風潮が起こり、仏教はほとんど顧みられなくなった。こうした状況を改善すべく寺刹の布教を支えることにする>と寺刹令の趣旨を述べ、その内容を以下の三点で説明している。
<(一)寺刹を保存する施策を講じる。(二)寺刹の管理者である住持の職務を明確にする。(三)寺刹内部の規律を正しくし、僧尼の姿勢を厳正にさせる。(四)寺の財産が散逸しないようにする施策を講じる>(朝鮮総督府[一九一一]、五三ページ)。
この文面だけを見れば、朝鮮総督府は衰退していた朝鮮の仏教を再興させることを目指しているかのようである。
朝鮮総督府は、寺刹令施行の効果について豪語した。
<この法令が施行されて以来、朝鮮の一般民衆の仏教に対する態度は一変した。僧尼たちは、一〇〇年の間、軽蔑されてきたが、一視同仁の政策によって、屈辱的な境遇から脱却し、その政策を喜んでいる。他の宗教のように布教を行う自覚が生まれている>(朝鮮総督府編[一九一三]、五三~五四ページ、川瀬[二〇〇九]、三五ページより転載)。
寺刹令は、朝鮮仏教への朝鮮総督の介入を制度化したものである。一九一七年、親日派の李完用(I Wan-yong)は、朝鮮仏教と日本仏教の対話の会を設立し、朝鮮総督府の宗教政策にも協力した(韓[二〇〇四]、三六ページ)(7)ことに見られるように、日本の仏教の朝鮮への進出は、朝鮮における日本支持派の政治勢力と深く関わるものであった。
朝鮮で施行されたこの寺刹令は、じつは、以前に日本政府が日本で制定を試みながらも、日本の仏教界の猛烈な反発を受けて頓挫した「第一次宗教法案」の内容を踏襲して作成されたものである。
この「第一次宗教法案」は、一八九九年一二月に山県有朋(やまがた・ありとも)内閣によって第一四回帝国議会貴族院に提出されたが、出席議員二二一名のうち、反対一二一名、賛成一〇〇名で否決されたものである(戸村[一九七六]、四四~四五ページ)。
当時の仏教界が、この法案に反対した主たる理由は、「これは神仏とキリスト教とを対等に扱うもの」という反キリスト教思想にあった。これが、明治政府による最初の宗教法案であったが(中濃[一九九七]、一三六ページ)、その後、一九二七年まで宗教法案は日本では提出されなかった。宗教団体を権力の統制下に置こうとする日本政府の試みは朝鮮で実験されたのである。その経験を踏まえて、一九二七年に「第二次宗教法案」が同じく帝国議会に提出された。