韓国併合と日本の仏教
はじめに
民衆の心を掴む理念として宗教以上に強力なものはない。政治的理念の寿命は数百年も持続するだけで奇蹟としかいえないのに、宗教は数千年は生き延びる。権力は、宗教のこのとてつもない力を利用してきたし、権力に従いたくない民衆は、自らの宗教の保持に命を懸けてきた。
朝鮮の仏教も例外ではない。朝鮮の仏教は、五世紀の新羅(Silla)時代から一四世紀の高麗(Goryeo)時代までの九〇〇年間、権力者と民衆の双方の心を捕らえてきた。李(I)朝の弾圧や日本の支配を受け続けた。しかも、日本の権力の手先になっているとして、日本の植民地支配に抵抗すべく、民衆を組織できたキリスト教から攻撃され続けた。日本の植民地支配から脱した後、独立運動を組織化できた韓国のキリスト教は、都市部を中心に勢力を拡大した。
朝鮮の仏教が、日本の植民地支配に利用された経緯を、このプログで説明したい。
一 朝鮮の仏教略史
仏教が、中国から朝鮮半島に伝来するようになったのは、中国の南北朝時代からである。仏教は、三七二年に高句麗(Goguryeo)、三八四年に百済(Baekje)、新羅には、それよりかなり遅れて、五二七年に導入された。いずれも、護国仏教の色彩が強いものであった。例えば、新羅では、国土は仏の支配する地(仏国土)であり、王は仏の家族である。そして、弥勒菩薩の化身である「花郎」(Hwarang)が人々を守るという考え方が浸透していた(http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/bukkyo_002.htm)。
花郎というのは、新羅のエリート青年組織で教育的機能を帯びた宗教的機関である。上級貴族の一五、一六歳の子弟を「花郎」とし、その下に多くのの青年が「花郎徒」(Hwarangdo)として組織されていた。花郎は、山中で精神的・肉体的修養に励み、戦時には戦士団として戦いの先頭に立っていた。彼らは、弥勒菩薩の化身とされていた。弥勒菩薩とは、釈迦の入滅から五六億七〇〇〇万年の後に人間界に現れて民衆を救うと信仰されていた仏である(http://momo.gogo.tc/yukari/kodaisi/umayado/faran.html)。
新羅の仏教は華厳宗が有力な宗派であった。華厳宗は、「大方広仏華厳経」という大乗仏教の経典の一つを教義とするものである。それは、大方広仏、つまり時間も空間も超越した絶対的な存在としての仏という存在について説いた経典である。華厳とは別名雑華ともいい、雑華によって仏を荘厳することを意味する。原義は「花で飾られた広大な教え」である(http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/kegon1.html)。新羅時代の九世紀、地方の寺院や豪族の間で禅宗が信仰されるようになっている。
高麗時代に入ると、仏教は王族の支援を受けるようになる。初代高麗王(在位、九一八~四三年)の太祖(Taejo)・王建(Wangon)は、九四三年の死去の直前に、高麗の後代の王たちが必ず守らなければならない教訓として「訓要十条」を書き、その第一条に仏教を崇拝すると宣言したことに見られるように、高麗時代の仏教は手厚く保護されていた(http://mindan-kanagawakenoh.com/korean_history/kh015.html)。高麗時代の仏教寺院は、広大な土地を所有しており、商業や金融(高利貸し)をも支配していた。
高麗時代に、仏教思想と風水思想が融合した。この時代に創建された多くの寺が風水地理でいう明洞(Myeongdong)に建てられている。明洞とは、風水的にもっとも恵まれた地のことである。現在のソウル随一の繁華街の明洞には、この意味がある。また、密教の影響も大きく、石塔などにその影響が見られる。
高麗王朝時代に入って、華厳宗と禅宗を融合しようとする天台宗が中国から伝来した。一〇九七年に高麗に天台宗を導入した義天(一〇五五~一一〇一年、Uichon)は、教(仏の教え)と観(禅宗の参禅)を折衷した僧であるとされている(http://r-m-c.jp/story/story04.html)。
曹渓宗(Jogyejong)も高麗時代に成立した。これは、禅系仏教宗団であり、現在の韓国でも、「大韓仏教曹渓宗」として韓国仏教で最大の勢力を有する。仏日普照国師・知訥(一一五八~一二一〇年、Chinul)を開祖とする。知訥は禅によって天台・華厳などの教学を包摂する教えを説いた。曹渓宗は民衆に、天台宗は上流階級に浸透したと言われている(http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index65.htm)。
しかし、高麗時代に全盛時代を迎えた半島の仏教は、次の李朝になると一転して激しい弾圧にさらされることになった。
高麗朝を倒した李朝は、国家財政の確保が急務であったために、寺院財産を没収する政策を取った。
朝鮮王朝の五〇〇年間、仏教は権力によって弾圧され続けた。僧侶たちは、町から追放され、山岳に追いやられた。それは、日本の圧力によって出された一八九五年の「都城出入禁止解禁」まで継続させられた。
日本による朝鮮支配は、この弾圧されていた朝鮮仏教を救済し、インテリ層の中に親日派を作り出すことによって可能になったものである。それは、朝鮮独立運動を組織する西欧キリスト教に対抗する意味をも持っていた。
しかし、半島の仏教は、日本の教団の支配を受けることになった。そのこともあって、独立後の韓国の仏教は、日本の支配を歓迎していたとして、いまだに多くの人々によって糾弾されている。日本の仏教が到来するまでは、半島の僧侶は妻帯していなかったのに、日本の仏教との接触によって妻帯するという堕落をしたとして非難されたのである。妻帯した僧侶は帯妻僧侶と呼ばれていた。
当時の李承晩(I Seung-man)・韓国大統領は、日本の支配下で実験を握っていた帯妻僧侶を追放すべく、朝鮮戦争の休戦が成立した翌年の一九五四年五月に「仏教浄化に関する論示」を発表した(曹渓宗総務編[一九五七]、一〇から一一ページ)。帯妻僧侶は、新権力からも、米国新政権からも迫害されてきたのである。