消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(417) 韓国併合100年(56) 韓国臣下論(7)

2012-05-08 13:44:18 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(3) 政友会は、一九〇〇年九月一五日、藩閥政治に反発し、政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した政党である。伊藤自身が初代総裁となり、星亨(とおる)、松田正久、尾崎行雄(ゆきお)、伊東巳代治(みよじ)、西園寺公望(さいおんじ・きんもち)、金子堅太郎(かねこ・けんたろう)、片岡健吉らが中心となった。帝国ホテルに事務所を設置した。一九〇〇年一〇月一九日、政友会を中心に第四次伊藤内閣が成立。しかし、北清事変対応のための増税案が貴族院で否決され、一九〇一年六月二日、伊藤内閣は総辞職した。その後、陸軍大将の桂太郎が第一一代内閣総理大臣に任命され、一九〇一年六月二日から一九〇六年一月七日までその内閣は続いた(http://www.geocities.jp/since7903/Meizi-naikaku/10-Itou-vol4.htm)。

 当初、井上馨に大命降下されたが、期待していた渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)の大蔵大臣就任が実現せず、同じく立憲政友会も混乱状態にあったため、井上は組閣辞退を表明した。元勲世代からの総理大臣擁立は困難と考えた元老によって、新たに推されたのが桂であった。桂内閣は、山縣有朋系官僚を中心とした内閣であり、議会における与党は帝国党のみであった。伊藤博文の立憲政友会と大隈重信の憲政本党は野党に回った(http://www.geocities.jp/since7903/Meizi-naikaku/11-Katsura-vol1.htm)。

(4) 「露西亜全国皇帝陛下、及び清国皇帝陛下は、一九〇〇年、中国に於いて発生したる騒擾の為め、破られたる善隣の関係を回復し、且つ強固にするための目的を以て、満州に関する諸問題に対し、協定を遂ぐる為め、互にポール、レッサル並に慶親王、及び王文韶を全権委員に任命せり。右全権は左の諸条を協議決定せり。

 第一条 全ロシア皇帝陛下は、清国皇帝陛下に対し、其の友情の感念及び平和を愛することを、新に表彰せんと欲し、前に満州境界の各地に於て、清国が露西亜臣民に向かいて、先づ攻撃を加えたる事実は不問に付し、依然満州を清国の一部として、同域内に於ける、清国政府の権威を回復することを承諾し、且つ露西亜軍隊占領以前の如く、統治及び行政の権を、清国政府に還付す。

 第二条 清国政府は、満州の統治、及び行政権を回復するに当り、一八九六年八月二十七日、露清銀行と締結せる契約の条項を、該契約の他条項と同様確守するの責を受け、又該契約第五条に準拠し、極力鉄道及び該職員を保護するの義務に任じ、且つ均しく責任を以て、満州在留の露西亜国民、及びその創設せる事業の安全を擁護することを承諾す。清国政府にて既に上記の義務を負担せる以上、露国政府は事変の生起することなく、又或は他国の行動の為に妨害せられざる限りは、左の順序に従い、満州より其軍隊の全部を逓次撤退することを承諾す。

 一、本条約調印後六箇月以内に、盛京省の西南部遼河に至る地方に駐屯せる露西亜軍隊を撤退して、鉄道を清国に還付す。

 二、次の六箇月以内に盛京省の残兵、及び吉林省に駐屯せる、露西亜軍隊を撤退す。
 三、次の六箇月以内に、黒竜江省に駐屯せる、露西亜軍隊の残部を撤退す。

 第三条 露西亜国政府、及び清国政府は、一九〇〇年に露西亜国境上に於て、清国兵の起したる如き、変乱の再発を将来に排除するの必要を鑑がみ、露西亜国兵撤退以前は、露西亜軍務官、及び各将軍に命じ、満州駐屯の清国の兵数、及び駐屯地を協定せしめ、又清国政府は、露国軍務官と各省将軍との間に協定したる、兵数以外の軍隊を組織せざることを約するも、その兵数は匪徒を鎮圧して地方の平和を維持するに足るを要す。

 全然露西亜国軍隊撤退後は、清国は満州駐屯軍隊を増減するの権を有す。尤も其の増減は、随時露西亜国政府に通知を要す。其は清国にては各地方に多数の兵を備うとせば、露西亜国も亦た其の附近に於ける各地に、相当の軍隊を添加せざるべからず。従って両国は空しく軍費増加の不利益を見る事、自ら瞭然たればなり。

 東清鉄道会社に給付したる合(各?)地域を除き、上記地方の警察、及び秩序維持の為め、地方将軍及び露国軍務官は、清国臣民より成る騎歩の憲兵隊を組織すべし。

 第四条 露西亜国政府は、一九〇〇年九月下旬以来、露西亜国軍隊が占領保護したる山海関、営口、新民庁の各鉄道を清国政府に還付することを承諾するが為め、清国政府は左の条項を約す。

 一、上記鉄道線路の安全を確保するの必要ある時は、清国政府自ら其責に任ずべく、決して他国に該鉄道防守、経営及び敷設を受負わしめ、或は分担せしむることある可からず。且つ他国に露西亜国か還付せし所の各地点を占領することを許す可からず。

 二、上記鉄道の完成及び経営に関する各節は、総て一八九九年四月十六日付け、露西亜大不列顛間協約と、一八九八年九月二十八日、上記鉄道敷設借款に関し、一私立会社と締結したる契約に準拠し、該会社負担の義務を守る可し。即ち殊に山海関、営口、新民庁鉄道の占有、又は何等の方法にても、之を処分せざるの義務を守らしむ可し。

 三、将来、満州南部に該鉄道を延長し、支線を敷設し、或は営口に橋梁を架設し、又は現に山海関に在る楡営鉄道の終点を移すの計画ある時は、露西亜国及び清国、両政府間に協議を経たる後、之を為す可し。

 四、還付に係る山海関、営口、新民庁各鉄道の修繕、及び、及び経営に関する露西亜国の失費は、償金総額以外なるを以て、清国政府は更に之を露西亜国に償還す。右償還の金額は、両国政府にて協定すべし。

 露西亜国及び清国間に於ける、在来の諸契約にして、本条約に依り変更せられざるものは依然有効たる可し(徳富蘇峰編[一九一七]より)。

 この条約は露清間の密約であり、ロシアは二国間の問題だとして、他国に知られることを嫌った。本文は清国民には伝わらず、日本において残存した。

 ロシアは北清事変の後始末のため、満州におけるロシア軍の撤退を約束したものであるが、清国がロシアにたいして交渉力を持ちえたとは考えられない。同時代の日本人は、この条約は「日英同盟」締結がロシアをして譲歩せしめたと考えた。しかし「日英同盟」締結からは日が開きすぎている。ロシア譲歩の理由は、フランスとの露仏同盟のアジアへの延長宣言であろう。フランスは共同宣言への見返りとしてロシアに撤兵宣言を強要したのだろう。ロシアは、清国はどうにでもなる国と思っていたので、あまり重要でない条約、すなわちいつでも破棄できるものとして調印に応じたものと思われる(http://ww1.m78.com/russojapanese%20war/manchuria%20evacuation.html)。

(5) 古代中国で、王朝が交替するときの二つの方法が対比された。「禅譲」と「放伐」である。「禅譲」は、君主が徳の高い人物に帝位を譲ることであり、「放伐」は悪逆で帝位にふさわしくない君主を有徳の人物が討伐することである(三省堂『新明解四字熟語辞典』、出典、『孟子』「梁恵王」(下))。

 中国の漢時代(紀元前二〇六~紀元後二三年)に書かれた本格的歴史書である司馬遷(紀元前一四五~紀元前九〇年?)の『史記』(紀元前九一年?)によれば、伝承ではあるが、古代中国には、三皇五帝の時代があったとされる。三皇とは、伏羲(ふくぎ、狩猟を始めた)・神農(しんのう、農耕を始めた)・燧人(すいじん、火食を始めた)の三神(または、天皇、人皇、地皇)、五帝とは、黄帝(こうてい)、顓頊(せんぎょく)、帝嚳(ていこく)、堯(ぎょう)、舜帝(しゅんてい)である。とくに、尭舜(ぎょうしゅん)時代は、治水事業が進み、天子も平和的に継承され(禅譲という)、孟子など儒家によって理想的な時代とされた。舜から禅譲を受けたのが夏王朝の始祖とされる禹(う、紀元前二〇七〇年頃)である。

 夏王朝は、紀元前一六〇〇年頃まで続いたとされる。そして、殷王朝(紀元前一七世紀頃 ~紀元前一〇四六年頃)、周王朝(紀元前一〇四六年頃~紀元前二五六年)と続く(http://oisoharu.way-nifty.com/blog/2010/11/post-d0bb.htmlなど)。


野崎日記(416) 韓国併合100年(55) 韓国臣下論(6)

2012-05-07 12:43:01 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 

(1) 「日英同盟」本文[外務省発表原文]

 [前文]
 日本国政府及大不列顛国政府ハ偏二極東二於テ現状及全局ノ平和ヲ維持スルコトヲ希望シ且ツ清帝国及韓帝国ノ独立ト領土保全トヲ維持スルコト及該二国二於テ各国ノ商工業ヲシテ均等ノ機会ヲ得セシムルコトニ関シ特二利益関係ヲ有スルヲ以テ茲ニ左ノ如ク約定セリ

 [第一条]
 両締約国ハ相互二清国及韓国ノ独立ヲ承認シタルヲ以テ該二国敦レニ於テモ全然侵略的趨向二制セラルルコトナキヲ声明ス 然レトモ両締約国ノ特別ナル利益二鑑ミ即チ其利益タル大不列顛国二取リテハ主トシテ清国二関シ又日本国二取リテハ其清国二於テ有スル利益二加フルニ韓国二於テ政治上拉二商業上及工業上格段二利益ヲ有スルヲ以テ両締約国ハ若シ右等利益ニシテ列国ノ侵略的行動二因リ若クハ清国又ハ韓国二於テ両締約国敦レカ其臣民ノ生命及財産ヲ保護スル為メ干渉ヲ要スヘキ騒動ノ発生二因リテ侵迫セラレタル場合ニハ両締約国敦レモ該利益ヲ擁護スル為メ必要欠クヘカラサル措置ヲ執リ得ヘキコトヲ承認ス

 [第二条]
 若シ日本国又ハ大不列顛国ノ一方カ上記各自ノ利益ヲ防護スル上二於テ列国ト戦端ヲ開クニ至リタル時ハ他ノ一方ノ締約国ハ厳正中立ヲ守リ併セテ其同盟国二対シテ他国カ交戦二加ハルヲ妨クルコトニ努ムヘシ

 [第三条]
 上記ノ場合二於テ若シ他ノ一国又ハ数国カ該同盟国二対シテ交戦二加ハル時ハ他ノ締約国ハ来リテ援助ヲ与へ、協同戦闘二当ルヘシ講和モ亦該同盟国ト相互合意ノ上二於テ之ヲ為スヘシ

 [第四条]
 両締約国ハ敦レモ他ノ一方ト協議ヲ経スシテ他国卜上記ノ利益ヲ害スヘキ別約ヲ為ササルヘキコトヲ約定ス

 [第五条]
 日本国若クハ大不列顛国二於テ上記ノ利益カ危殆二迫レリト認ムル時ハ両国政府ハ相互二充分二且ツ隔意ナク通告スヘシ

 [第六条]
 本協約ハ調印ノ日ヨリ直ニ実施シ該期日ヨリ五箇年間効力ヲ有スルモノトス 若シ右五箇年ノ終了ニ至ル十二箇月前ニ締約国ノ孰レヨリモ本協約ヲ廃止スルノ意思ヲ通告セサル時ハ本協約ハ締結国ノ一方カ廃棄ノ意思ヲ表示シタル当日ヨリ一箇年ノ終了ニ至ル迄ハ引続キ効力ヲ有スルモノトス 然レトモ右終了期日ニ至リ一方カ現ニ交戦中ナルトキハ本同盟ハ講和結了ニ至ル迄当然継続スルモノトス

 以下は、英文
 Article 1. The High Contracting parties, having mutually recognized the independence of China and Korea, declare themselves to be entirely uninfluenced by aggressive tendencies in either country. having in view, however, their special interests, of which those of Great Britain relate principally to China, whilst Japan, in addition to the interests which she possesses in China, is interested in a peculiar degree, politically as well as commercially and industrially in Korea, the High Contracting parties recognize that it will be admissable for either of them to take such measures as may be indispensable in order to safeguard those interests if threatened either by the aggressive action of any other Power, or by disturbances arising in China or Korea, and necessitating the intervention of either of the High Contracting parties for the protection of the lives and properties of its subjects.

 Article 2. Declaration of neutrality if either signatory becomes involved in war through Article 1.

 Article 3. Promise of support if either signatory becomes involved in war with more than one Power.

 Article 4. Signatories promise not to enter into separate agreements with other Powers to the prejudice of this alliance.

 Article 5. The signatories promise to communicate frankly and fully with each other when any of the interests affected by this treaty are in jeopardy.

 Article 6. Treaty to remain in force for five years and then at one years’ notice, unless notice was given at the end of the fourth year.

 この条文について、吉田茂が興味あるコメントを出している。 
 「この条約のエッセンスは第一条にある。日英両国ともここに最大の力点をおいて交渉した。条文のうち『列国ノ侵略的行動二因リ』というのが第一のポイントである。

 つまり、中国または韓国に(両方とも香港や日本本土への侵略を念頭においていないことに注意)列国(ヨーロッパ五大国をさし具体的にはロシアであり副次的にフランス)が、先制攻撃をして以降、防衛義務が生じる。

 第二条について日本語(外務省)訳は訳しすぎると思われるが、いかがだろうか?
  そして、この条約締結公表の一年三カ月後、ロシアは韓国領内龍岩浦に砲台を建設したわけである。これは当時のあらゆる角度からみてロシアの韓国への侵略であり、この条約の第一条に該当する。

 フランスは直ちにロシアに注意を喚起し、砲台の建設自体は中途半端なものとして終わった。そして、この事件は『鴨緑江事件』として直ちにヨーロッパで問題となった。ニコライ二世がこの条約を知りながらなぜ、龍岩浦事件を引き起こしたのか謎とされるところである。
 第二のポイントは中国と韓国における暴動について規定していることである。すなわち、イギリスにとって、この条約の最大の眼目は揚子江流域に居住するイギリス人の保護のため、日本兵を期待することにあった」(http://ww1.m78.com/sib/anglojapanesetreaty.html)。

(2) 憲政本党は、一八九八年に進歩党と分かれてできたものである。この年、進歩党は憲政党と憲政本党に分裂したのであるが、当時の新聞は、憲政本党を旧名の「進歩党」と呼ぶのが習慣であった(片山[二〇〇三]、注9、七六六ページ)。


野崎日記(415) 韓国併合100年(54) 韓国臣下論(5)

2012-05-05 23:41:19 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 ペリー来航は,志士達の危機意識を掻き立て、近隣諸国を切り従えて日本の勢力圏を築き、これに拠って列強に対抗するべしとする拡張主義を生むに至った(以下は、吉野[二〇〇四]に依拠している。  http://homepage2.nifty.com/k-todo/bunnmei/eastyourasia/japan/eastajia/seikannronn.htm)。

 ペリー来航に対して、列強と和親条約を締結する幕府の姿勢を見て,幽囚中の吉田松陰は書簡の中で「魯(ロシア)・墨(アメリカ)講和一定す。決然として我れより是れを破り信を戎狄に失ふべからず。但だ章程を厳にし信義を厚うし,其の間を以て国力を養ひ,取り易き朝鮮・満州・支那を切り随へ,交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満にて償ふべし」と書き送った。

 松陰は、攘夷の主体としての日本,「吾が宇内に尊き所以」「我が国体の外国と異なる所以」を認識すべきだと説いた。松陰によれば、日本の「国体」とは,易姓革命を思想の根本にすえる中国に対して、「万世一系」の天皇統治にある。中国の伝統的政治思想は、「人民ありてしかるのちに天子あり」であるのに対して、日本は「神聖ありてしかるのちに蒼生あり」である。中国における臣下は、自分を認めてくれる主君を求めて去就を決める「半季渡りの」の如きものであるのに対して、日本の場合は譜代の家臣であり、主人が死ねといえば喜んで死ぬ、絶対的な君臣関係なのだとする(『言志後録』(一六))。

 こうした松陰の理念は、遡れば「忠臣蔵」の情感に通じるものであり、近年では、太平洋戦争末期の神風特攻隊に象徴的に表現されたものである。

 このような思想に立てば、日本がその「国体」を輝かせていた神功皇后や豊臣秀吉の征韓事業こそ「善く皇道を明かにし国威を張る」もので、「神州の光輝」と称揚されることになる。その意味で、征韓事業が、国体論の基礎に置かれ、日本の使命として遂行されるすべき事業として聖化されることになる。

 徳川幕府は、清との間で正式の外交関係を取り結ばなかったが、徳川将軍の代替わりごとに朝鮮国王の国書を持った朝鮮通信使を受け入れていた。その回数は一二回を数えた。その際、両国の交渉は対馬藩を介して行なわれた。

 朝鮮国王と徳川将軍が交わす国書の名義が問題であった。朝鮮側は、中国の臣下を示す「朝鮮国王」でもこだわらなかったのであるが、幕府として、それは受け容れ難い。しかし、朝鮮側からすると、日本側の国書も「日本国王」名義のものでなければ対等性が保てない。しかし、日本側の征夷大将軍というのは天皇の臣下の役職であって、将軍が「日本国王」を名乗るのは天皇との関係上、難しい。また、日本側が、「朝鮮国王」と同等の「日本国王」という称号を用いると、日本が中国皇帝の権威を認めることになってしまう。そこで、将軍の国書は「日本国源家光」のような形式にして称号を名乗らず、朝鮮国王からの国書の宛先は「日本国大君」とする形が取られていた。日本による朝鮮宛の国書には、朝鮮国王を「朝鮮国大君」と呼び、徳川将軍と朝鮮国王は台頭の関係であるという配慮を徳川幕府は示していたのである。

 しかし、明治維新により天皇が統治権者として復活したので、日朝関係における名分(めいぶん)問題を解決しなければならなくなった。

 江戸時代には、徳川将軍と朝鮮国王は対等の関係であった。しかし、王政復古が実現した以上、徳川将軍より上の天皇が、名実とみに最高の統治者になった。とすれば、朝鮮国王と日本の天皇はどういう位置関係になればよいのか。徳川将軍と同等の位置にあった朝鮮国王は、天皇に対して臣下の礼を取るべきではないのか。朝鮮は、『記紀』に記されているように、日本の属国となるべきではないのか。これが、明治に入って解決しなければならない名分問題であった。そして、対馬藩を経由して王政復古を伝える朝鮮国王宛の日本の国書の宛先は、それまでの「朝鮮大君」から「朝鮮公」に格下げにした。このことから、朝鮮は、日本側の王政復古の通知の受け取りを拒否した。征韓論はこうしたことへの日本側の憤りから発生した。朝鮮国王は、日本の最高統治者である天皇の臣下に位置づけなければならなかったのである。王政復古、万世一系、征韓論は、まさにこうした名分論から生じたものである。

 清、ロシアと戦争までして領有した朝鮮こそは、王政復古の理論的帰結として日本の権力者たちは了解していたのである。

 おわりに

 韓国併合から一〇〇年。残念ながら、日本では、この年を契機として、アジアにおける日本の歴史的位置づけと現在の日本の選択肢に関わる大きな討論は巻き起こらなかった。むしろ、日本のナショナリズムの昂揚がマスコミによって煽られた。

 韓国併合一〇〇周年の二〇一〇年、東アジアの海に緊張が走った。尖閣諸島問題もその一つである。尖閣諸島は、日本の固有の領土であるとの声が高くなっているが、沖縄返還後の尖閣諸島には、日本の実効支配を示す標識は整備されず、諸島の中の北小島と南小島の標識が入れ替わっていたことさえも気付かれなかった(『八重山毎日新聞』[一九九五])。

 沖縄返還に際して、米国務省は、米国が施政権を有する南西諸島の施政権を一九七二年中に日本に返還すること、南西諸島には尖閣諸島も含まれることと説明した。しかし、「この問題に主張の対立がある時には、関係当事者の間で解決されるべきこと」と、米国は、中国と日本との領有権争いに巻き込まれたくないとの姿勢を示していた(比嘉[二〇一〇]、一四~一五ページ)。

 尖閣諸島が、日本領土であるとの公式見解は、一九七二年三月八日の衆院沖縄・北方問題特別委員会における福田赳夫(たけお)外務大臣(当時)の答弁であった。要約する。



 (1)一八八五年以降、調査を継続していた日本政府は、尖閣諸島が無人島で清国の支配が及んでいないことを確認、一八九五年一月一四日の閣議決定で正式に尖閣諸島を日本の領土とした。

 (2)日清戦争の下関条約(一八九五年四月一七日締結)では、尖閣諸島には触れられなかった(つまり、清はその時点で尖閣諸島を日本の固有の領土であると認識していた)。

 (3)一九七一年六月一七日調印の沖縄返還協定で、施政権の返還対象に尖閣諸島が明示されていた。

 (4)尖閣諸島を日本の固有の領土と認定したサンフランシスコ平和条約(一九五一年九月)第三条に、中国は異を唱えなかった。

 尖閣諸島が日本の固有の領土であることの根拠を、日本政府は上記のことを繰り返し強調してきた。しかし、その論理にはかなり無理がある。一八九五年の閣議決定は、日清戦争で日本が勝利を確実なものにした一八九五年一月一四日に行なわれたものである上、公然と領土宣言を内外に発したものではなかった。下関条約が四月一七日よりほぼ三か月前の一月一四日にすでに日本が領有していたものだから、戦争で清からもぎ取ったものではないというのが日本政府の見解である。しかし、それは詭弁というものであろう。戦争集結前だが、戦争中にもぎ取ったことに変わりはないからである。尖閣諸島は、戦争でもぎ取ったものである。

 上のような事情があるにもかかわらず、多くの日本人がいとも簡単に、「先覚諸島は日本の領土である」と思い込んでしまった。日本人は、東アジア関係史を理解する絶好の機会を見過ごした。メディアがそうした機会を提供してこなかったからでもあるが、日本の歴史教育が教育の体裁をなしていないことがもっとも深刻な問題である。


野崎日記(414) 韓国併合100年(53) 韓国臣下論(4)

2012-05-03 14:16:29 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 三 「万世一系」と征韓論―皇帝・天皇・王

 「日英同盟」は、三次まで改訂された。「第二次同盟」は、一九〇五年、日露戦争後に「第一次同盟」を改訂したものであるが、四年しか続かなかった。「第三次日英同盟」は、一九一一年七月一三日に締結され、一九二三年八月まで続いた。この「第三次同盟」は過去の二つの同盟とは質を異にしていた。一九〇五年の日露戦争における日本の勝利と一九一〇年の日本による韓国併合という東アジアにおける地政学上の変化が、一九一一年の「日英同盟」を大きく規定した。もはや、完全に日本の国威発揚に日本側が最大限利用したものになっていた。

 このことを明らかにする手掛かりが、一九一〇年の五月一四日から一〇月二九日まで、ロンドン西部のシェパード・ブッシュ(Shepherd Bush)で開催された日英博覧会(The Japanese-British Exhibition of 1910)にある。

 この博覧会は、元駐英全権大使、時の外務大臣・小村寿太郎に負うところが多かった。日本側経費は一八〇万円であった。二〇万坪の敷地に、甲園・乙園、二個所の日本庭園を六〇〇〇坪の広さで造営した。設計には、小沢圭次郎(けいじろう)、本多錦吉郎(きんきちろう)、清水仁三郎(にさぶろう)、井沢半之助(はんのすけ)らが当たったが、甲園は小沢、乙園は本多案を基礎として、現地で井沢が監督をして作庭している。井沢は、一九〇九年一二月から、一九一〇年五月まで造営作業に従事した。植木職人三名が同道した。建築には、農商務省技師榎本惣太郎(えのもと・そうたろう)と大工四名が派遣されていた(http://www.sekkeiron.exblog.jp/2906162/)。造営作業をビクトリア女王が見学して、日本の作業者を感激させたという(The Daily Telegraph, 15 March, 1910)。

 この博覧会は、「日英同盟」を記念して開催されたものである。日本政府は乗組員八〇〇名からなる巡洋艦・生駒(いこま)を、博覧会に近いウラベセンド(Gravesend)港に停泊させた。日本海軍力の誇示である。乗組員全員が英国側の晩餐会に招かれたという(http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34083/.../115_PL21-58.pdf)。

 二〇〇九年四月五日(日)午後九時から、NHKが、NHKスペシャル「シリーズ・JAPANデビュー、第一回、アジアの“一等国”」を放映した。そこで、この日英博覧会が取り上げられた。そして、NHKは、以下のようなコメントを出した。

 「日本は、会場内にパイワン(注、台湾南部に住むインドネシア語系に属する原住民である高砂族の一種族)の人びとの家を造り、その暮らしぶりを見せ物としたのです」。「当時イギリスやフランスは、博覧会などで、植民地の人びとを盛んに見せ物にしていました。人を展示する『人間動物園』と呼ばれました。日本は、それを真似たのです」。

 このコメントについて、NHKは後日、釈明している。
 「イギリスやフランスは、博覧会などで被統治者の日常の起居動作を見せ物にすることを『人間動物園』と呼んでいました。人間を檻の中に入れたり、裸にしたり、鎖でつないだりするということではありません。フランスの研究者ブランシャール(Kendall Blanchard)

氏が指摘するように『野蛮で劣った人間を文明化していることを宣伝する場』が人間動物園です。番組は、日本が、イギリスやフランスのこうした考え方や展示の方法を真似たということを伝えたものです。日本国内では、日英博覧会の七年前、一九〇三年、大阪で開催された第五回内国勧業博覧会において、『台湾生蕃』や『北海道アイヌ』を一定の区画内に生活させ、その日常生活を見せ物としました。この博覧会の趣意書に『欧米の文明国で実施していた設備を日本で初めて設ける』とあります。こうした展示方法は大正期の『拓殖博覧会』や一九一〇年の『日英博覧会』に引き継がれます」。

 「日英博覧会についての日本政府の公式報告書『日英博覧会事務局事務報告』によれば、会場内でパイワンの人びとが暮した場所は『台湾土人村』と名付けられています。『台湾日日新報』には次のように記されています。『台湾村の配置は、台湾生蕃監督事務所を中心に、一二の蕃屋が周りを囲んでいる。家屋ごとに正装したパイワン人が二人いて、午前一一時から午後一〇時二〇分まで、ずっと座っている。観客は六ペンスを払って、村を観覧することができる』。また、『東京朝日新聞』の『日英博たより』(派遣記者・長谷川如是閑(にょぜかん))には『台湾村については、観客が動物園へ行ったように小屋を覗いている様子を見ると、これは人道問題である』」とあります。日英博覧会の公式報告書(Commission of the Japan-British Exhibition)には『台湾が日本の影響下で、人民生活のレベルは原始段階から進んで、一歩一歩近代に近づいてきた』と記されています。イギリス側も、日英博覧会の公式ガイドブックで『我々(イギリス)は、東洋の帝国が“植民地強国”(Colonizing Power)としての尊敬を受ける資格が充分にあることを認める』と記しています」(http://www.nhk.or.jp/japan/asia/index.html)。

 帝国主義の思想的基盤は、自国が文明の担い手であるという思い込みにある。日英博覧会はその具体的な現れであった。こうした姿勢は、幕末・明治初期の征韓論にもあった。日本の天皇の「万世一系」論がそれである。

 江戸時代の主流学問であった朱子学は、中国を「華」と敬い、周辺国を「夷」と卑しむ華夷思想であった。朱子学における華夷思想に「名分論」(めいぶんろん)というものがある。中国皇帝の権威を人倫秩序の淵源に見立てるという考え方がそれである。この思想によれば、日本は中国皇帝にひざまずかなければならない。こうした朱子学による中国皇帝の権威に対抗する日本独自の価値原理を打ち立てるべく、日本の天皇を尊しとする尊王思想が浮上することになる。それが、日本の天皇の「万世一系」論である。

 中国の王朝は、易姓革命により変遷するとの思想があった(5)。易姓とは、ある姓の天子が別の姓の天子にとって代わられることで、革命とは、天命が改まって、王朝が交替すること。天が、命を下して、徳のある者を天子となして人民を治めさせる。天子や王朝の徳が衰えて、人民の信頼がなくなれば、天が、天変地異などを起こして、その天子や王朝を去らせ、新しい有徳者に王朝を開かせて、人民を支配させるというのが、中国の易姓革命論である。王朝は、同じ血統(姓)を続けるが、王朝交代の際には王室の姓が変わることから、易姓革命という。姓(せい)を易(かえ)命(めい)を革(あらたむ)という意である(三省堂『新明解四字熟語辞典』より。出典『史記』の『暦書』)。

 この思想が中国に広く受け入れられたために、新王朝は、前王朝が天命を失ったことを証明すべく、前王朝の歴史編纂が、新王朝の重要な仕事となったと考えられる(http://www.allchinainfo.com/some/yixing.html)。

 このような中国に比して,日本は易姓革命の生じる余地がなく、万世一系の天皇家が永続しているというのが、王政復古論の背後にあり、これが、日本の道義的優越性を示すものと主張された。


野崎日記(413) 韓国併合100年(52) 韓国臣下論(3)

2012-04-30 21:54:04 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 二 日露戦争の奇襲攻撃

 日露戦争開戦の一か月前、ロシア側の主戦派の一人と考えられていた政治家が戦争を回避しようと「日露同盟」案を準備しているとの情報を得ながら、日本政府が黙殺していたことを示す新史料を、和田春樹・東大名誉教授が二〇〇九年一二月に発見した。日露戦争についてはこれまで、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で展開された「追いつめられた日本の防衛戦」とする見方が日本では根強い。しかし、この新資料が正しければ、これまでの通説は崩壊する。

 和田名誉教授は、サンクトペテルスブルク(St. Petersburg)の.ロシア国立歴史文書館(Russian State Historical Archive)で、ニコラス二世皇帝(Czar Nicholas II)から信頼されていた非公式貿易担当大臣の主戦派政治家ベゾブラーゾフ(Aleksandr Bezobrazov)の署名がある一九〇四年一月一〇日付の「同盟」案全文を発見した。「同盟」案は、「ロシアが遼東半島を越えて、朝鮮半島、中国深部に拡大することは、まったく不必要であるばかりか、ロシアを弱化させるだけだろう」と分析、「ロシアと日本は、それぞれ満州と朝鮮に国策開発会社を作り、ロシアは満州、日本は朝鮮、の天然資源を開発する」ことなどを提案する内容のものであった。

 ベゾブラーゾフが「日露同盟」案を準備していることを日本の駐露外交官の手で日本の外務大臣・小村寿太郎(じゅたろう)に打電された。一九〇四年一月一日のことであった。詳しい内容が、同月一三日、小村外相に伝えられた。日本の外務省は、その電文を駐韓公使館に参考情報として転電した。和田春樹は、この転送電文を、韓国国史編纂委員会刊行の「駐韓日本公使館記録」の中から見つけた。

 当時の小村寿太郎外相は日露同盟案の情報を得ながら、一月八日、桂太郎(かつら・たろう)首相や陸海軍両大臣らと協議して開戦の方針を固め、同月一二の御前会議を経て、同年二月、ロシアに宣戦布告したのであると、共同ニュースは伝えた(共同、二〇〇九年一二月二日付。http://d.hatena.ne.jp/takashi1982/20091207/1260192623、和田[二〇〇九])。この文書の内容に沿ってロシアが動こうとしているとすれば、満州支配後にロシアが韓国領有に向かおうとしていたので、それを阻止すべく日本は韓国併合に出るしかなかったという司馬遼太郎的史観は崩壊するとの見方も出てきた(Japan Times, December 9, 2009)。

  しかし、開戦が近いことは、ロシア当局も十分承知していたであろうし、一片の電報で日本が開戦を思い止まるなどと思うほど、ロシアの軍部、政府は甘くはなかったはずである。資料発見は大きな成果だが、この電文程度で、日本政府も開戦を中止したとはとても思われぬことである。

 周知の史実であるが、少し、日露開戦前後のことを整理したおこう。

 日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋(やまがた・ありとも)らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨(かおる)ら戦争回避派とが対立していた。一九〇三年四月二一日、山縣の京都における別荘・無鄰菴(むりんあん)で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰菴会議」が開かれ、満洲については、ロシアの優越権を認めるが日本は韓国を確保すべく、日露開戦やむなしと述べたが(徳富編[一九三三]、五三九~五四一ページ)、実際には伊藤の慎重論が優勢であったと言われている

 一九〇三年八月から開始された日露交渉で、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案したが、ニコライ二世などの主戦派によってその提案は一蹴された。そして、一九〇四年二月六日、外務大臣・小村寿太郎が、ロシア公使に国交断絶を言い渡した。

 一九〇四年二月八日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった。まだ、宣戦布告を日本側はしていなかった。日本艦隊は、同日夜、旅順港(Port Arthur)に停泊していたロシア艦隊の半数を拘束した。港外で哨戒の任に当たっていた二隻のロシアの駆逐艦が、日本の駆逐艦一〇隻から攻撃を受け、慌てて港内に逃げ込み、ロシア艦隊に急襲を知らせたが、日本の駆逐艦が船尾に張り付き、ロシアの哨戒艇や軍艦を包囲してしまった。ロシア艦隊の乗組員たちは飲酒のために上陸していて、なす術がなかった。東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)率いる日本艦隊は、機雷を港外に配置し、ロシア艦隊の脱出を妨害した。それは、後の真珠湾攻撃で米国が抱いたものと同じ憤激をロシア側に与えた( http://constantineintokyo.com/2009/12/22/112/)。

 宣戦布告前の奇襲攻撃は韓国でも行なわれた。二月八日、日本陸軍先遣部隊の第一二師団が仁川(Incheon)に上陸した。日本海軍の巡洋艦群が、同旅団の護衛に当たった。日本の艦隊が、仁川港に入港する際に、偶然出港しようとしたロシアの航洋砲艦・コレーエツ(Koreets)が、すれ違う時に儀仗隊(ぎじょうたい=捧げ銃の敬礼を行なう役目を担う隊)を甲板に並べて敬意を表した。しかし、日本の水雷艇が魚雷攻撃をかけ、コレーエツは、慌てて一発砲撃して引き返した。



 そして、二月九日、仁川港に停泊中のロシア太平洋艦隊所属の艦船に退去勧告を行ない、退去しない場合は攻撃を加える旨を日本艦隊が伝えた。ところが、この退避勧告によって仁川港から出航したロシア艦隊は、待ち構えていた日本艦隊に砲撃され、一等防護巡洋艦・ヴァリャーグ(Varyag)は大破し、仁川港に引き返し、乗組員を上陸させた後、「コレーエツと共に自沈した(http://homepage2.nifty.com/daimyoshibo/mil/jinsen.html)。後に、ヴァリャーグは引き上げられ、二等巡洋艦・宗谷として日本海軍に編入された。


野崎日記(412) 韓国併合100年(51) 韓国臣下論(2)

2012-04-29 17:49:50 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 一 韓国併合を促進させた日英同盟

 日英同盟のユニークさは、日本が熱望して英国に懇請したのではなく、英国側が締結を急いだという点にある。日本は、英国だけではなく、ドイツ、ロシアをも協調関係に巻き込もうとしていたのではないかというのが通説である。

 日英同盟を締結したということを明治政府が日本人に知らせたのは、一九〇二年二月一二日であった。伊藤は、まだ帰国していなかった。伊藤の帰国は二月二五日であった。

 日英同盟の締結日が一月三〇日だったのに、公表が大幅に遅れる二月一二日であったことも真相は不明である。しかし、二月一一日は紀元節で、当時の日本人の多くが戸口に日の丸旗を掲げる習慣があったことを計算に入れたものであろう。「天皇陛下万歳」という紀元節の唱和を翌日にそのまま利用することができたからであろうと想像される。

 日英同盟祝賀会は、一九〇二年二月一四日から全国各地で数百人規模で行なわれた。それはまさに狂騒そのものであったという(「狂気の痴態を演ずる勿れ」、『都新聞』一九〇二年二月二二日付。片山「二〇〇三]、七七六ページ)。政党としては憲政本党(2)が先陣を切って党本部で祝賀会を開いた。祝賀会での大隈重信(おおくま・しげのぶ)の挨拶は、彼が、日英同盟の必要性を外相時代(一八八九年一月)から訴えていた政治家であったことから、新聞でも大きく取り上げられた(「大隈伯の演説」、『日本』一九〇二年二月一五日付。片山[二〇〇三]、七六八ページ)。大隈は、清・韓国の保全、両地域における日本の経済的利益、日本を世界の大国に押し上げるという三点を同盟の効果として強調した。首相と外相とを兼任していた一八九八年九月には、フィリピンを米国が領有しなかったら、日英が協同でフィリピン統治をしようとの日英提携論を提起したことがある(片山[二〇〇三]、七六八~六九ページ。伊藤[一九九九]、一二八ページ)。憲政本党は、一九〇一年一二月から満州からロシアを追い出すために日英米の三国同盟を訴えていた。

 伊藤博文がまだ外遊中から帰国しないうちに、大隈が、いち早く祝賀会を開いたのも、政友会(立憲政友会)への対抗意識があったからである。当時の衆議院での第一党は伊藤博文を党首とする政友会であった。衆議院議員二九七名中、政友会は一五五名を占めていた。それに対して憲政本党は六九名しかなかった。しかも、日英同盟に懐疑的であったはずの伊藤の真意を、伊藤が帰国していないために確かめることのできない政友会は、身動きが取れなかった。大隈はこれを利用した(片山[二〇〇三]、七六九ページ)(3)。

 しかし、伊藤博文が日英同盟への批判者であるというのは、政党間の対立から作り出された捏造であろう。伊藤は、ロシア、ドイツ、英国という複数の国との協調路線を目指していたのであり、英国との単独同盟だけでは、満州、韓国における日本の権益を護ることが困難であるという全方位外交を目指していたのである。しかし、彼が携わっていた「日露協商」は秘密交渉であり、国民には途中経過は知らされてなかったし、伊藤の母体である政友会自体でさへ、伊藤の真意は分からなかった。伊藤が受けたロンドンでの厚遇ぶりが知らされて、やっと、伊藤は日英同盟反対論ではないことに気付いてはいたが、それでも、伊藤自身の口から真意を聞かないかぎり、軽々に同盟成立祝賀会を開けなかったのである。そうしたこともあって、「日英同盟」直後の世間の伊藤評価は厳しかった(「伊藤侯と日英同盟」、『日本』一九〇二年二月一四日付。片山[二〇〇三]、七七一ぺージ)。「日英同盟」成立による天皇陛下万歳の声が全国にこだまするようになった情況では、伊藤は苦しい立場に追いやられていた。

 ロシアとの協調を訴えていた伊藤は、「恐露病」と揶揄されていたという(片山[二〇〇三]、七七一ページ)。事実誤認であるが、『都新聞』(一九〇二年二月一六日付)は、「日英同盟と伊藤侯」というタイトルで、伊藤が第四次政権時に、英国からの同盟の申し入れに二度も断ったと報じている。しかし、そうした事実はないと片山慶雄はいう(片山[二〇〇三]、七七二ページ)。伊藤が日英同盟に反対していたという、こうした決めつけは、東大医学部教授であったベルツ(Erwin von Bälz)までが共有していた。親露派の伊藤が、ロンドンで日英同盟を推進したとはありえないことであると断じたのである(一九〇二年二月一七日付ベルツの日記、ベルツ[一九七九]、二四六ぺージ)。

 上記で指摘したように、大国英国を日本に振り向かせたという歓喜が、稚戯に等しい飲食を伴う万歳三唱の渦を全国に蔓延させたのであるが、それに立腹する人たちも、中にはいた。幸徳秋水は日本人の外交感覚の幼さを嘆いた(「国民の対外思想」、『長野日々新聞』一九〇二年三月二八日付。片山[二〇〇三]、七七六ページ)。

 伊藤博文の関与があるのではないかと片山慶雄が推測する(片山[二〇〇三]、七八三ページ)『二六新報』は、ロシアやフランスとの協商を容易にする手段として日英同盟を結ぶのならいいが、ロシアを牽制するだけの日英同盟への懐疑論を展開した(「日英同盟と英露同盟」、『二六新報』一九〇二年一月七日付。片山[二〇〇三]、七八二ページ)。

 『万朝報』の「日英同盟」批判は激しかった。匿名記事ではあるが、幸徳秋水の執筆であろうと片山慶雄は推測している(片山[二〇〇三]、七八四ページ)。

 同新聞は以下のような批判を打ち出した(< >内で要約)。<英国は、これまでの栄光ある孤立政策を維持できなくなったから「日英同盟」を結んだのである。英国を攻撃する可能性のある複数の国が出てきたからである。つまり、同盟を結んでしまったことによって、日本は自国の権益を保証されるどころか、英国の戦争に巻き込まれる可能性が高くなったのである。英国の方が日本よりも同盟利益は大きい。また、同盟が締結されたことで、将来日本の軍備が増強し、増税につながる流れができるであろう>(「日英同盟条約(上・下)」、『万朝報』一九〇二年二月一四、一五日付。片山[二〇〇三]、七八四~八五ページ)。 

 『万朝報』は、内村鑑三の「日英同盟」批判も掲載している。内村は英国を信頼できない国として切って棄てる。ボーア戦争を見ても、英国は弱小国を利用し尽くして結局裏切る。英国は利益のみを求め、義理も人情も持たない。「弱国に対する英国の措置は無情傀恥の連続である。そうして日本人が同盟条約を締結したとて喜ぶ国は此無情極る英国である」(「日英同盟に関する所感(上)」、『万朝報』一九〇二年二月一七日付。片山[二〇〇三]、七八五ページ)。

 内村は、日本の軍事侵略的体質を、「日英同盟」がさらに推し進めてしまうという。日本は、すでに朝鮮、遼東、台湾で大罪悪を犯しているのに、「今や英国と同盟して罪悪の上に更に罪悪を加えた」ことになる。そして、「日英同盟」は「罪悪であることを明言する」と内村は断言した(「日英同盟に関する所感(下)」、『万朝報』一九〇二年二月一九日付。片山[二〇〇三]、七八五ページ)。ボーア戦争の経緯を見ても、英国は小国を利用し尽くして棄て去る国であり、最終的には、世界は、二、三の「強国の専有する所」となる帝国主義に突入するという危機感を、内村は訴えた(「杜軍の大勝利」、『万朝報』一九〇二年三月一六日付。片山[二〇〇三]、七八五ページ)。

 一九〇二年四月八日、ロシアは清との間で「露清満州還付条約」を結んだ(4)。この条約は、半年ずつ、三回に分けて満州からロシア軍を撤退させるという密約であった。これは、露仏条約の延長でしかないが、当時の日本人は、この条約を「日英同盟」の成果と受け取ったのである。

 『日本』(一九〇二年四月一一日付)は、「満州問題の落着」と題した記事で、「日英同盟」が満州問題の解決を促したと同盟の存在を絶賛したし、『東京朝日新聞』(「満州還付条約調印」一九〇二年四月一一日付)、『毎日新聞』(「満州条約の調印、東洋平和の確保」一九〇二年四月一一日付)、『東京日日新聞』(「満州還付」一九〇二年四月一〇日付)等々、多くの新聞が同様の見解を表明した(片山[二〇〇三]、七八八ページ)。「日英同盟」批判の論陣を張っていた『二六新報』ですらロシアのバルチック艦隊が日本を襲撃しようとしても、スエズ以東の港は英国の許可なしに利用できないので、艦隊は補給面で日本攻撃が困難になるだろうとの理由で「日英同盟」を肯定的に評価するようになった(「海軍拡張」一九〇二年八月二五日付。片山[二〇〇三]、七九一ページ)。

 本章、注(1)に見られるように、「日英同盟」の前文に「極東全局の平和」が謳われ、第一条で日本が韓国において格段の利益を持つことが明記されたことは、「極東の平和」のために、韓国を侵略することの正当性を与えられたものと日本政府と軍部は解釈したがっていた。『万朝報』などがその論陣を張った(「清韓の経営」一九〇二年四月九日付、「韓国電線と日露」一九〇二年五月二六日付。片山[二〇〇三]、七九二ページ)。

 『毎日新聞』は、露骨に朝鮮人は無能なので、彼の地を発展させるためには、日本人の経営に委ねるべきであると主張した(「日韓間の経済的関係」一九〇二年六月八日付)。「日英同盟」は、日本の韓国進出を促したものであるとの解釈を示したのが『国民新聞』であった(「日英同盟及其将来(二)」一九〇二年四月一二日。片山[二〇〇三]、七九三ページ)。 そして、ロシアの満州撤兵は嘘であったことが日本の新聞に暴露されるに至って、日本の世論は韓国併合に向かって一直線に進むことになったのである(「北清時談」、『日本』一九〇二年一一月二一日付。「露国の満州占領」、『万朝報』一九〇三年一月一三日付。片山[二〇〇三]、七九九ページ)。


野崎日記(411) 韓国併合100年(50) 韓国臣下論(1)

2012-04-08 17:30:32 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 2 王政復古・日英同盟・韓国臣下論

 はじめに

 「日英同盟」が締結されたのは、一九〇二年一月三〇日である。同盟が締結される直前の一九〇一年一一月から一九〇二年一月にかけて伊藤博文(ひろぶみ)が欧州を歴訪し、各地で大歓迎された。それも過剰な程の接待を受けた(君塚[二〇〇〇]、三三~四八ページ、参照)。



 日英同盟が検討されるきっかけを与えたのは、一九〇一年三月に、ドイツにが行なった、東アジアの安全保障に関する「日英独三国同盟」の提唱であった。これに対して、英国首相のソールズベリー(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury)が乗り気でなかったので、ドイツはあきらめることになった。



 「日英独三国同盟」の気運が消え去ると、日英の間で日英同盟の可能性が検討され始めた。つまり、日英同盟は、長年の懸案の結果ではなく、突然にアイディアが浮上し、瞬く間に成立してしまったのである。

 ただし、ソールズベリー首相自身は、「三国同盟」案解消後に浮上した日英同盟構想にも消極的であったらしい(君塚[二〇〇〇]、三四ページ)。それでも、一九〇一年七月三一日、英国外務大臣になったランズダウン(Henry Charles Keith Petty-Fitz Maurice, 5th Marquess of Lansdowne)と在英日本公使・林菫(はやし・ただす)との間で、日英同盟を両国の正式の検討事項にすることが確認された。両者の会談では、清の門戸開放・韓国における日本の優越的地位が確認された。同年一〇月一六日に両者の会談が再開されたが、フランス滞在中のソールズベリー首相の帰国まで、会談内容を進展させないように、ランズダウンは林に要請した。つまり、日英同盟案に消極的な英首相の意向を無視することができなかったのである(同、三四~三五ページ)。

 この時期、ランズダウンは、清、ペルシャの問題でロシアと交渉していた。この交渉が決裂したのが一九〇一年一一月五日である。すでに帰国していたソールズベリーは、これまでの姿勢を一転させ、日英同盟の積極的推進者になった(同、三五ページ)。

 まさにこの一一月時点で、伊藤博文がロシアなどの欧州を歴訪したのである。それは、「日露同盟」の成立が可能かどうかの交渉だった。伊藤は、ソールズベリーと同じく、一一月までは日英同盟に懐疑的であった。栄光ある孤立政策を続けていた英国が、何の見返りもなく日本と同盟を求めてきていることに不信感を持っていたのである(同、三六ページ)。
 それにしても、この時期の伊藤を取り巻く環境は華麗であった。一九〇一年一〇月、伊藤は米国のエール大学から名誉博士号を贈られるとの通知を受けた。その授与式に出席するために米国に渡った後、欧州に行こうと旅立ったのである。それは、建て前としては、私的な旅行であった。ところが訪問先の各地で大歓迎を受けたのである。




 伊藤は、一九〇一年一一月二七日、ペテルスブルグに到着し、翌二八日にロシア皇帝のニコライ二世(Nicholas II)との謁見を許され、一二月二~四日、ラムズドルフ(Vladimir Nikolayevich Lamsdorf)外相、ウィッテ(Selgei Witte)蔵相と会談、韓国における日本の優位をロシアに認めさせようとした。しかし、結論は、その時点では出なかった。そして、一二月一二日には「日英同盟」を締結するという方針が日本政府によって確認された。ベルリンに入って、伊藤は、駐独・英臨時公使・ブキャナン(George William Buchanan)と会談した。しかし、一二月一七日、ロシアのラムズドルフ外相から、ロシアは、韓国における日本の特権的地位を認められない、つまり、日露同盟は無理であるとの返事を、伊藤は、受けた(同、三七ページ)。このこともあって、一九〇一年一二月二四日にロンドンに入った伊藤は、「日英同盟」締結止むなしとの覚悟を決めたようである(同、三八ページ)。




 一二月二五日のクリスマスには、聖なる日に遠慮して、伊藤は、動けなかったが、翌二六日には、ソールズベリー主宰の晩餐会に主賓として招待された。クリスマス休暇中であるにもかかわらず、重要人物たちが伊藤のために集った。そして、二七日には、モールバラ・ハウス(Mallborough House)で、国王エドワード七世(Edward VII)の謁見を許されている。年明けの一九〇二年一月三日には、ランズダウン外相の邸宅・バウッド・ハウス(Bowood House)に招かれ、会談している。翌、一月四日、ソールズベリーの別荘、ハットフィールド・ハウス(Hatfield House)の午餐会に招かれ、各界の名士たちと会食している。その夕刻、日本公使館主宰の晩餐会が開催され、英国政府要人のほとんどが出席し、伊藤は、英国王からの最上級のバース勲章(Grand Cross of the Bath)を授与されている。一月六日午後、伊藤は英国外務省で再度ランズダウン外相と会談し、ロシアとの約束がないことを確認させられた(同、三八~三九ページ)。



   その後、伊藤はサンドリナム・ハウス(Sandringham Housei)に国王を表敬訪問し、礼を述べて、一月七日、パリに発った。



 英国政府関係者の伊藤への歓迎ぶりは、ロシア、ドイツと同程度のものであったことを、
ニシュ(Ian Nishh)が説明しているが(Nish[1966], p. 201)、ロンドンでの大歓迎ぶりが他国でもあったということは、驚くべきことである。しかも、ロンドンでは年末・年始の休暇中にこれだけの規模の歓迎がなされたのである。それは、日本における伊藤の地位の高さを示すものであるし、それだけ、東アジア情勢が緊迫化していたことの証左であろう。
 伊藤が、ロンドンを離れたその月末(一九〇二年一月三〇日)に日英同盟は締結された(1)。いかに慌ただしかったかが分かるであろう。


野崎日記(410) 韓国併合100年(49) 韓国併合と米国(7)

2012-03-25 21:56:44 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 引用文献

伊藤一男[一九六九]、『北米百年桜』北米百年桜実行委員会。
外務省調査部編[一九三九]、『日米外交史』。
姜徳相編[一九七〇],『現代史資料』第二七巻(朝鮮・三)みすず書房。
姜徳相編[一九七二],『現代史資料』第二八巻(朝鮮・四)みすず書房。
小村寿太郎[一九一〇]、「一九一〇年一〇月六日付オブライアン宛て小村書簡」、『日本外
     交文書』第四三巻、第一号。
田中明[一九九七]、「日本における朝鮮研究の停滞と関連して」、『海外経済事情』第四五
     巻、七・八号。
尹慶老[一九九〇]、『一〇五人事件と新民會研究』一志社。
和田春樹・石坂浩一編[二〇〇二]、『岩波小辞典・現代韓国・朝鮮』岩波書店。
Bergholz, Leo A.[1934], "Bergholz to the Secreraries of the American Misso Stations in Korea,
          24 January 1919, Foreign Affairs of the United States, 1919, vol. II, Government
          Printing Office.
Brown, Arthur[1919], The Mastery of the Far East, Charles Scribner's Son.
Department of State Archieves[1905], Miscellaneous Letters, July, Part 3.
Dennett, Tyler[1924], "President Roosevelt's Secret Pact with Japan," Current History, XXI.
Nagata, Akifumi[2005],"American Missionaries in Korea and U. S.- Japan Relations 1910-1920,"
          The Japanese Journal of American Studies, No. 16.
Wilson, Hungtinton[1915], "Wilson to O'Braien, 17 September 1910," Foreign Relations of the
          United States, 1911, Government Printing Office.
Wilson, Robert. A. & Bill Hosokawa[1980], East to America; A History of the Japanese in the
          United States., William Morrow and Company, Inc.


野崎日記(409) 韓国併合100年(48) 韓国併合と米国(6)

2012-03-25 21:56:06 | 野崎日記(新しい世界秩序)

  注

(1) 備後安芸郡箱田村(現・福山市神辺町箱田)出身。一八三六年一〇月三日(天保七年八月二五日)生まれ、一九〇八(明治四一)年一〇月二六日没。昌平坂学問所で儒学を、ジョン万次郎の私塾で英語を、幕府が新設した長崎海軍伝習所入所で蘭学も学ぶ。航海術・舎密学(化学)も修めた。一八六二~六七年オランダに留学。普墺戦争を観戦武官として経験。幕府が発注した軍艦「開陽」で帰国。大政奉還後の一八六八(慶応四)年一月、幕府海軍副総裁に任じられ、新政府への徹底抗戦を主張。江戸城無血開城後、開陽を含む軍艦八艦で江戸を脱出。箱館の五稜郭に立て籠もるが新政府軍に敗北。榎本の才能を惜しむ蝦夷征討軍海陸軍参謀・黒田了介(黒田清隆、くろだ・きよたか)が助命運動。一八七二(明治五)年一月、特赦。蝦夷開拓使として黒田の配下として新政府に仕官。一八七四(明治七)年一月、駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。帰国後、要職を歴任し、一八九七(明治三〇)年に農相として足尾銅山に関する第一回鉱毒調査会を組織し、政府として初めて解決に道筋をつけた(http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/28.html、アクセス二〇一〇年六月二九日)。

(2) 薩摩出水脇本村槝之浦(かしのうら)(現・阿久根市脇本槝之浦)出身。一八三二年六月二一日(天保三年五月二三日)生まれ、一八九三(明治二六)年六月六日没。一八六一年、幕府の第一次遣欧使節(文久遣欧使節)の通訳兼医師として参加、一八六三年薩英戦争で五代友厚とともに捕虜になる。一八六五年薩摩藩遣英使節団に参加、新政府で外交官、一八七三年、参議兼外務卿、一八七九年条約改正交渉に臨む、米国の賛成を得たが英国の反対に遭い挫折、外務卿辞任(http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/terashimamunenori.html、アクセス二〇一〇年六月二九日)。

(3) 一九〇五年時点の正式の外務大臣は小村寿太郎(一八五五~一九一一年)であったが、日本全権としてポーツマス(Portsmouth)会議に出席するために日本を不在にしていた。その間、首相の桂が外務大臣を兼務していたのである。

 小村は、ポーツマス条約を調印後、米国の鉄道王・ハリマン(Edward Henry Harriman)が満洲における鉄道の共同経営を提案(桂・ハリマン協定、一九〇五年)したのを首相や元老の反対を押し切って拒否した。件については評価が分かれる。一九〇八(明治四一)年成立の第二次桂内閣の外務大臣に再任。幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正の交渉に従事。一九一一(明治四四)年、日米通商航海条約を調印し関税自主権を獲得した。

(4) 「桂・タフト覚書」の日本側原本は消失している。そのため、外交史料館で編纂している『日本外交文書』第三八巻第一冊(明治三八年)には、米国の外交文書から同覚書を引用している(http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/meiji_05.html)。

(5) 一八〇〇年代前半、米、英、スペイン、ドイツ、オランダがニカラグア、フランスがパナマを運河建設の予定地として、それぞれ調査・計画を進めていた。一八四八年に米国がメキシコから奪ったカリフォルニアでゴールドラッシュが起きた。東海岸から西海岸のカリフォルニアへの移動は、船でパナマまで行き、最短で五一キロ・メートルの陸路を渡り、太平洋を船をカリフォルニアに着けるというコースが選ばれた。そこで、米国の郵船会社が、パナマに鉄道を一八五五年に五年で完成させた。この鉄道は、米国が自国民の安全を確保するためという大儀を掲げて、軍隊を派遣できる口実となった。

 同時期にフランスのフェルディナンド・レセップス(Ferdinand Marie Vicomte de Lesseps, 1805~1894)が、一八八〇年、エッフェル塔建設で有名になったギュスターブ・エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel, 1832~1923)と組んでパナマ運河建設に乗り出したが失敗。

 その工事は、米国に継承された。米国は、ニカラグアの工事を取り止め、パナマ一本に絞ることになった。米国はパナマをコロンビアから独立させようとした。独立運動の担い手が革命委員会でその中心人物が、当時パナマ鉄道に勤めていたパナマ出身のマヌエル・アマドール(Manuel Amador)、そして彼を直接焚きつけた人物こそ、もとレセップスの下で働いていたバリーヤであった。米国務長官ヘイと、バリーヤとの密室内での運河協定はパナマの主権を完全に踏みにじるものであり、パナマも表面的には独立を承認されたが、実質的には米国の属国となってしまった(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=208137、二〇一〇年七月六日アクセス)。

(6) セオドアは、日本贔屓でもあったらしい。米国人初の柔道茶帯取得者。山下義韶から週三回の柔道の練習を受け、山下を海軍兵学校の柔道教師に推薦した。東郷平八郎が読み上げた聯合艦隊解散之辞に感銘を受け、その英訳文を軍の将兵に配布した。ただし、日露戦争後に次第に東アジアで台頭する日本に対して警戒心を強くし、日本には冷淡になった。日露戦争後は艦隊(Great White Fleet)を日本に寄港させて日本を牽制した(ウィキペディアよち)。

 金子堅太郎(嘉永六(一八五三)~昭和一七(一九四二)年)は、藩学修猷館を出た後、黒田長溥公の援助で団琢磨とともに米国ハーバード大学に入学(一八七六年)。帰朝後は伊藤博文を助け、大日本帝国憲法の制定に大きく貢献した。
 金子堅太郎は司法の分野だけでなく、外交官としても卓越した力を発揮した。日露戦争の開戦当初、金子は厳正中立の立場にあった米国を友好的中立国とし、戦争講和の調停役を引き受けさせる、という政府の密命を帯びて渡米した。強力な人脈は、当時の米大統領セオドア・ローズベルトであった(http://shuyu.fku.ed.jp/syoukai/rekishi/kaneko.htm、二〇一〇年七月六日アクセス)。

(7) 明石元二郎(元治元年八月一日(一八六四年九月一日)~大正八年一〇月二六日)は、藩校修猷館を経て陸軍士官学校、陸軍大学卒。一九〇一(明治三四)年、フランス公使館付陸軍武官。一九〇二(明治三五)年)、ロシア公使館付陸軍武官に転任、英国スパイと交遊。日露戦争時には、陸軍大佐。当時の国家予算は二億三〇〇〇万円程であった。山縣有朋の命令により、参謀本部から当時の金額で一〇〇万円(現在価値で四〇〇億円強)を工作資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。ヨーロッパ全土の反ロシア帝政組織にばら撒き、その工作の内容を、手記『落花流水』(非売品、国会図書館蔵)にまとめられている。ジュネーブにいたレーニンをロシアに送り込んだ。血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与したとされている。レーニンは明石に感謝していたという。

 一九一〇(明治四三)年、寺内正毅韓国統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務し、韓国併合の過程で武断政治を推し進めた。一九一五(大正四年)第六師団長を経て、一九一八(大正七)年、第七代台湾総督に就任し、陸軍大将。在任中は、台湾電力を設立し水力発電事業を推進、鉄道海岸線を建設、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正、これにより台湾人にも帝国大学への道が開かれた。華南銀行を設立。台湾の三板橋墓地(現林森公園)に埋葬されている(http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/221.htm)。

(8) 例えば、『ニューヨーク・タイムズ』(New York Times)が、事件を執拗に報道していた。"American Missionary is Arrested in Korea"(一九一九年四月一一日)、"Japanese Arrest Americans in Kore"(四月一四日)、"Asks Sentence of Mowry"(四月二〇日)、"Admits Aiding Koreans"(四月二一日)、"Mowry is Sentenced"(四月二二日)、"Mowry Sentence Appeal"(五月一九日)、"Mowry Trial End"(八月二五日)、"New Trial For Rev. Mowry"(八月二九日)、Jail or Fine for Mowry"(一二月八日)。内容は反日感情に満ちたものであった。


野崎日記(408) 韓国併合100年(47) 韓国併合と米国(5)

2012-03-24 23:37:02 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 四 三・一運動で増幅された米人宣教師に対する朝鮮総督府の憎悪

 一九一六年、寺内正毅が日本の首相に転じるとともに、後継の朝鮮総督は、長谷川好道(はせがわ・よしみち)がなった。国際環境が激動する中での日本の朝鮮支配であった。一九一七年にはロシア革命、一九一八年一月のウィルソン(Woodrow Wilson)米大統領による「平和一四原則」(Fourteen Points Adress)が世界の独立運動を刺激した。そして、一九一九年一月二一日、日本政府から徳寿宮李太王の称号を受けていた前韓国皇帝、高宗(Kojong)が死去(六七歳)し、毒殺の風聞が流れて、三月三日の葬儀芽の三月一日、朝鮮で反日・独立運動が大規模に発生したのである。



 米国の伝導教会は、朝鮮半島南部のよりも、北部の方が多かった。そして、三・一運動は、北部の方が激越であった。日本政府は、ウィルソンによる民族自決と米国長老派教会に対してますます神経を尖らせることになった。

 当初は、米国政府も日本政府に気を遣っていた。駐ソウル米総領事レオ・バーゴルツ(Leo A. Bergholz)は、朝鮮における米人宣教師たちに、朝鮮国内の問題、とくに政治問題に関与しないようにと要請したほどである(Bergholz[1934], pp. 458-59; Nagata[2005], p. 165)。しかし、日本の新聞は三・一事件は米人宣教師の扇動によったものであると書き立てた(Nagata[2005], p. 166)。駐日米大使ローランド・モリス(Roland S. Morris)は、本国の国務省に、事件は米人宣教師が関与したものではなく、朝鮮人のナショナリズムの発露であるとわざわざ報告しなければならなかったほどである。朝鮮総督府側も米人宣教師を追い詰めることは、米国の反日感情を掻き立てるとして宣教師に対しては慎重な姿勢を示していた(Nagata[2005], p. 166)。



 しかし、一九一九年四月四日、米人宣教師が事件に関わった朝鮮人五人をかくまったという容疑で平壌で宣教していたエリ・モーリー(Eli M.Mowry)という長老派の牧師が官憲によって逮捕された。上記のバーゴルツは直ちに朝鮮総督府に抗議した。そうそたこともあって、モーリーは、四月一九日には、六か月の強制労働の刑を言い渡されていたが、一二月には一〇〇円の罰金刑に減刑された(姜[一九七〇]、五八七ページ)。米国の新聞はこの事件を連日、大きく取り上げていた(8)。

 日本側は、米国の反日感情を高める愚策を重ねてしまった。四月一〇日、三・一運動で官憲によって負傷させられた多数の朝鮮人たちが、長老派教会が運営する病院("Serverance Hospital")に収容された。しかし、日本の憲兵隊は、病院側が犯人を匿ったとして、首謀者たちの引き渡しを要求し、幾人かを憲兵隊本部に連行した。バーゴルツや長老派の牧師たちが憲兵隊に抗議したが聞き入れられなかった(Nagata[2005], p. 167)。

 四月一五日、いわゆる「提岩里虐殺事件」が起きた。事件の起きた京畿道(Gyeonggi-do)水原郡(Suwon-gun)提岩里(Cheam-ri)は、現在の華城市(Hwaseong-si)である。約三〇人の住民が日本軍によって虐殺された。日本側は、三〇人は、憲兵に襲いかかった暴徒を射殺したものであると説明した。この日、憲兵隊が提岩里の堤岩教会に、小学校焼き討ちと警察官二名の殺害の容疑者として提岩里のキリスト教徒の成人男子二〇数名を集めて取調べをしていた。その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして憲兵に襲いかかってきたので、憲兵はこの二人を犯人だと即断して殺害してしまった。これを見た教会に集められていた人々が騒ぎ出し暴徒化。兵卒に射撃を命じ、ほとんど全部を射殺するに至った。教会もその後近所からの失火により焼失した、これが日本側の説明である(朝鮮総督府資料「騒密770号,提岩里騒擾事件ニ関スル報告(通牒)」大正八(一九一九)年四月二四日、ウィキペディアより)。

 しかし、駐ソウル米総領事、レイモンド・カーティス(Raymond Curtis)が、ソウルで活動していた長老派宣教師、ホリス・アンダーウッド(Horace H. Underwood)とAPニュース(Associated Press News Agency)通信員、A・テイラー(A. W. Taylor)を伴って、騒動があった村落を視察し、実際には、村民たちが憲兵たちによって教会に閉じ込められ、その上で教会ごと焼き殺されたとの認識を得、その事件を告発すべく、アンダーウッドは、「チアムリ事件」("the Cheam-ri Incident")というタイトルのレポートを世界に向けて発信した(Nagata[2005], p. 167)。

 日本側と米国側との認識に差があるが、二〇〇七年二月二八日付『朝日新聞』は、憲兵が村民を焼き殺したことを暗示させる資料を発見したと報道した。三・一運動の際に朝鮮軍司令官だった宇都宮太郎大将(一八六一~一九二二年)の一五年分の日記など、大量の史料が見つかったが、そこでは、独立運動への鎮圧の実態や、民族運動家らに対する懐柔などが詳細に記されている。宇都宮は、情報収集を任務とし、日露戦争前後に英国で世論工作に携わったほか、辛亥革命では三菱財閥から活動費一〇万円を提供させ、中国での情報工作費に充てた人である。

 日記の重要な個所は、一九一九年四月一八日のものである。そこには、堤岩里事件に関して、「事実を事実として処分すれば尤(もっと)も単簡なれども」、「虐殺、放火を自認することと為(な)り、帝国の立場は甚(はなはだ)しく不利益と為り」、そして、善後策を協議する会合では、「抵抗したるを以(もっ)て殺戮(さつりく)したるものとして虐殺放火等は認めざることに決し、夜一二時散会す」という、憲兵による放火虐殺の事実を認めているのである。

 独立運動が始まった当初、宇都宮は従来の「武断政治」的な統治策を批判し、朝鮮人の「怨嗟(えんさ)動揺は自然」と日記に記した。そして、後の「文化政治」の先取りともいえる様々な懐柔工作を行った。朝鮮人の民族運動家や宗教者らと会い、情報収集や意見交換に努めたことが日記から分かる。日記以外の史料は、書簡五〇〇〇通、書類二〇〇〇点など。日露戦争期に英国公使館付武官だった時に、ロシアの革命派らを支援して戦争を有利に導こうとする「明石工作」を、資金面で支えたことを示す小切手帳もあった(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070228/p5、二〇一〇年八月一三日アクセス。

「三・一運動鎮圧克明に、宇都宮太郎大将の日記発見、朝鮮人三〇人虐殺隠蔽、「怨嗟は自然」懐柔工作」、『朝日新聞』二〇〇七年二月二八日)



 破壊されたのは、虐殺のあった教会だけではない。周辺の一八もの村が運動弾圧で破壊されたのである。時の朝鮮総督は長谷川好道であった(Nagata[2005], p. 168)。


 おわりに


 一九二〇年頃から中国と朝鮮との国境地帯で、朝鮮独立運動が激しくなった。とくに、間島(朝鮮語でChientao、中国語でJiandao)地域には、日本の圧政から逃れてきた朝鮮人たちが多く居住していた。当初、朝鮮では豆満江の中洲島を間島と呼んでいたが、豆満江を越えて南満洲に移住する朝鮮人が増えるにつれて間島の範囲が拡大し、豆満江以北の朝鮮人居住地全体を間島と呼ぶようになった。

 間島地域内の都市の一つの琿春(Hunchun)には、日本の領事館が置かれていた。この領事館が一九二〇年の九月と一〇月の二回、襲撃された。これは、日本の官憲によって雇われた中国人であったと言われている。これを契機に、日本政府は現地在住日本人の安全を守るという口実で、一九二〇年一〇月一四日、この地に軍隊を派遣した。日本軍は、間島の六六もの町や村を破壊し、約二三〇〇人の朝鮮人を殺した(姜[一九七二]、三五〇ページ)。

 日本軍によって虐殺された人の多くがクリスチャンであった。中国、朝鮮で活動する米人宣教師たちが、この残虐行為を非難した(『東京朝日新聞』一九二〇年一二月五日付)。派遣軍の隊長、水町竹三(みずまち・タケゾウ)は、初めから、琿春事件が、英米人宣教師たちの扇動によって引き起こされたものであると広言していた(『東京朝日新聞』一九二〇年一二月三日付)。

 これに対して、日本政府は、水町発言を公式のものでなく水町個人の見方であると弁明したが(『東京朝日新聞』二〇一〇年一二月一二日、二七日付)、日本の当局が本音のところで米人宣教師に対して強い警戒感を持っていたことが、この事件によって示されたのである。