四 三・一運動で増幅された米人宣教師に対する朝鮮総督府の憎悪
一九一六年、寺内正毅が日本の首相に転じるとともに、後継の朝鮮総督は、長谷川好道(はせがわ・よしみち)がなった。国際環境が激動する中での日本の朝鮮支配であった。一九一七年にはロシア革命、一九一八年一月のウィルソン(Woodrow Wilson)米大統領による「平和一四原則」(Fourteen Points Adress)が世界の独立運動を刺激した。そして、一九一九年一月二一日、日本政府から徳寿宮李太王の称号を受けていた前韓国皇帝、高宗(Kojong)が死去(六七歳)し、毒殺の風聞が流れて、三月三日の葬儀芽の三月一日、朝鮮で反日・独立運動が大規模に発生したのである。
米国の伝導教会は、朝鮮半島南部のよりも、北部の方が多かった。そして、三・一運動は、北部の方が激越であった。日本政府は、ウィルソンによる民族自決と米国長老派教会に対してますます神経を尖らせることになった。
当初は、米国政府も日本政府に気を遣っていた。駐ソウル米総領事レオ・バーゴルツ(Leo A. Bergholz)は、朝鮮における米人宣教師たちに、朝鮮国内の問題、とくに政治問題に関与しないようにと要請したほどである(Bergholz[1934], pp. 458-59; Nagata[2005], p. 165)。しかし、日本の新聞は三・一事件は米人宣教師の扇動によったものであると書き立てた(Nagata[2005], p. 166)。駐日米大使ローランド・モリス(Roland S. Morris)は、本国の国務省に、事件は米人宣教師が関与したものではなく、朝鮮人のナショナリズムの発露であるとわざわざ報告しなければならなかったほどである。朝鮮総督府側も米人宣教師を追い詰めることは、米国の反日感情を掻き立てるとして宣教師に対しては慎重な姿勢を示していた(Nagata[2005], p. 166)。
しかし、一九一九年四月四日、米人宣教師が事件に関わった朝鮮人五人をかくまったという容疑で平壌で宣教していたエリ・モーリー(Eli M.Mowry)という長老派の牧師が官憲によって逮捕された。上記のバーゴルツは直ちに朝鮮総督府に抗議した。そうそたこともあって、モーリーは、四月一九日には、六か月の強制労働の刑を言い渡されていたが、一二月には一〇〇円の罰金刑に減刑された(姜[一九七〇]、五八七ページ)。米国の新聞はこの事件を連日、大きく取り上げていた(8)。
日本側は、米国の反日感情を高める愚策を重ねてしまった。四月一〇日、三・一運動で官憲によって負傷させられた多数の朝鮮人たちが、長老派教会が運営する病院("Serverance Hospital")に収容された。しかし、日本の憲兵隊は、病院側が犯人を匿ったとして、首謀者たちの引き渡しを要求し、幾人かを憲兵隊本部に連行した。バーゴルツや長老派の牧師たちが憲兵隊に抗議したが聞き入れられなかった(Nagata[2005], p. 167)。
四月一五日、いわゆる「提岩里虐殺事件」が起きた。事件の起きた京畿道(Gyeonggi-do)水原郡(Suwon-gun)提岩里(Cheam-ri)は、現在の華城市(Hwaseong-si)である。約三〇人の住民が日本軍によって虐殺された。日本側は、三〇人は、憲兵に襲いかかった暴徒を射殺したものであると説明した。この日、憲兵隊が提岩里の堤岩教会に、小学校焼き討ちと警察官二名の殺害の容疑者として提岩里のキリスト教徒の成人男子二〇数名を集めて取調べをしていた。その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして憲兵に襲いかかってきたので、憲兵はこの二人を犯人だと即断して殺害してしまった。これを見た教会に集められていた人々が騒ぎ出し暴徒化。兵卒に射撃を命じ、ほとんど全部を射殺するに至った。教会もその後近所からの失火により焼失した、これが日本側の説明である(朝鮮総督府資料「騒密770号,提岩里騒擾事件ニ関スル報告(通牒)」大正八(一九一九)年四月二四日、ウィキペディアより)。
しかし、駐ソウル米総領事、レイモンド・カーティス(Raymond Curtis)が、ソウルで活動していた長老派宣教師、ホリス・アンダーウッド(Horace H. Underwood)とAPニュース(Associated Press News Agency)通信員、A・テイラー(A. W. Taylor)を伴って、騒動があった村落を視察し、実際には、村民たちが憲兵たちによって教会に閉じ込められ、その上で教会ごと焼き殺されたとの認識を得、その事件を告発すべく、アンダーウッドは、「チアムリ事件」("the Cheam-ri Incident")というタイトルのレポートを世界に向けて発信した(Nagata[2005], p. 167)。
日本側と米国側との認識に差があるが、二〇〇七年二月二八日付『朝日新聞』は、憲兵が村民を焼き殺したことを暗示させる資料を発見したと報道した。三・一運動の際に朝鮮軍司令官だった宇都宮太郎大将(一八六一~一九二二年)の一五年分の日記など、大量の史料が見つかったが、そこでは、独立運動への鎮圧の実態や、民族運動家らに対する懐柔などが詳細に記されている。宇都宮は、情報収集を任務とし、日露戦争前後に英国で世論工作に携わったほか、辛亥革命では三菱財閥から活動費一〇万円を提供させ、中国での情報工作費に充てた人である。
日記の重要な個所は、一九一九年四月一八日のものである。そこには、堤岩里事件に関して、「事実を事実として処分すれば尤(もっと)も単簡なれども」、「虐殺、放火を自認することと為(な)り、帝国の立場は甚(はなはだ)しく不利益と為り」、そして、善後策を協議する会合では、「抵抗したるを以(もっ)て殺戮(さつりく)したるものとして虐殺放火等は認めざることに決し、夜一二時散会す」という、憲兵による放火虐殺の事実を認めているのである。
独立運動が始まった当初、宇都宮は従来の「武断政治」的な統治策を批判し、朝鮮人の「怨嗟(えんさ)動揺は自然」と日記に記した。そして、後の「文化政治」の先取りともいえる様々な懐柔工作を行った。朝鮮人の民族運動家や宗教者らと会い、情報収集や意見交換に努めたことが日記から分かる。日記以外の史料は、書簡五〇〇〇通、書類二〇〇〇点など。日露戦争期に英国公使館付武官だった時に、ロシアの革命派らを支援して戦争を有利に導こうとする「明石工作」を、資金面で支えたことを示す小切手帳もあった(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070228/p5、二〇一〇年八月一三日アクセス。
「三・一運動鎮圧克明に、宇都宮太郎大将の日記発見、朝鮮人三〇人虐殺隠蔽、「怨嗟は自然」懐柔工作」、『朝日新聞』二〇〇七年二月二八日)
破壊されたのは、虐殺のあった教会だけではない。周辺の一八もの村が運動弾圧で破壊されたのである。時の朝鮮総督は長谷川好道であった(Nagata[2005], p. 168)。
おわりに
一九二〇年頃から中国と朝鮮との国境地帯で、朝鮮独立運動が激しくなった。とくに、間島(朝鮮語でChientao、中国語でJiandao)地域には、日本の圧政から逃れてきた朝鮮人たちが多く居住していた。当初、朝鮮では豆満江の中洲島を間島と呼んでいたが、豆満江を越えて南満洲に移住する朝鮮人が増えるにつれて間島の範囲が拡大し、豆満江以北の朝鮮人居住地全体を間島と呼ぶようになった。
間島地域内の都市の一つの琿春(Hunchun)には、日本の領事館が置かれていた。この領事館が一九二〇年の九月と一〇月の二回、襲撃された。これは、日本の官憲によって雇われた中国人であったと言われている。これを契機に、日本政府は現地在住日本人の安全を守るという口実で、一九二〇年一〇月一四日、この地に軍隊を派遣した。日本軍は、間島の六六もの町や村を破壊し、約二三〇〇人の朝鮮人を殺した(姜[一九七二]、三五〇ページ)。
日本軍によって虐殺された人の多くがクリスチャンであった。中国、朝鮮で活動する米人宣教師たちが、この残虐行為を非難した(『東京朝日新聞』一九二〇年一二月五日付)。派遣軍の隊長、水町竹三(みずまち・タケゾウ)は、初めから、琿春事件が、英米人宣教師たちの扇動によって引き起こされたものであると広言していた(『東京朝日新聞』一九二〇年一二月三日付)。
これに対して、日本政府は、水町発言を公式のものでなく水町個人の見方であると弁明したが(『東京朝日新聞』二〇一〇年一二月一二日、二七日付)、日本の当局が本音のところで米人宣教師に対して強い警戒感を持っていたことが、この事件によって示されたのである。