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教育現場が「ブラック」化

2018年07月21日 | 社会・経済

 マガジン9編集部

この人に聞きたい

 宮澤弘道さんに聞いた:

  道徳は、学校で教えるべき「学問」ではない

     2018年7月4日

   今年の4月から、全国の公立小学校で、道徳の「教科化」がスタートしました。教えられるのはどんな内容なのか、「教科化」によって授業はどう変わり、子どもたちにどんな影響を与えるのか、そして現場の教員たちは、この変化をどう受け止めているのか──。現役の公立小学校教員で、「道徳の教科化を考える会」代表の宮澤弘道さんにお話をうかがいました。

 

「教科化」で道徳の授業はどう変わったか

 

──今年度から全国の公立小学校で、道徳の「教科化」がスタートしました(来年度からは中学校でも開始予定)。小学校の教員である宮澤さんは、「道徳の教科化を考える会」を立ち上げて活動されていますが、どういった経緯で始まった会なのですか。

 

宮澤 道徳の教科化が決まったときに、教員同士の集まりでその話題を出したことがきっかけでした。若手の教員に「えっ、道徳って今、教科じゃないんですか」と言われて、「その程度の認知度なのか」と驚いたんです。後日、組合を通じて実施したアンケートでは、道徳の教科化について「知っている」と答えた教員は全体の2%程度しかいませんでした。

  これはまずいだろうということで、知人たちに声をかけて会を立ち上げたのが2015年の2月。これまでに、のべ人数で200人近い人たちが参加してくれています。

 

──宮澤さんご自身は、教科化については当初から強い危機感をお持ちだったのですか。

 

宮澤 私自身は以前から、学校教育の中に「道徳」というものがあること自体に違和感を持っていました。人の内面にかかわることに公教育が踏み込むべきではないと思うからです。

  そもそも道徳というのは、科学的に立証された「学問」ではまったくありません。他の教科には、これまで時間をかけて一般化・体系化されてきた理論や知識が存在していて、だからこそ子どもに「教える」ことができるわけですが、道徳はそうではない。いわば「個人の気持ちの問題」に過ぎない内容なわけで、学校の時間割に入れるにはふさわしくないとずっと感じていました。

  ただ、救いだったのは、以前は「教科」ではないから教科書も評価もなかったということです。授業の最低限のルールとされていたのは「子どもの発言を否定しない」ということだけ。副読本はあるけれど、必ず使用しなくてはいけないというわけではなく、自由に授業をできた。私自身も、いろいろな社会問題をテーマに自由に議論をする……といった授業をしていました。

 

──ところが、それが今回の「教科化」によって変わってしまった……。

 

宮澤 正式の教科になると、検定教科書がつくられ、評価制度が導入されます。この二つによって、授業のあり方が大きく変わってしまいました。

  教科書ができると、教員にはその使用義務が生じ、基本的に教科書を使って授業を行わなくてはなりません。そして、子どもが教科書に書いてある「ゴール」からずれた発言をした場合には「ちょっとそれは違うよね」と教えなくてはならないことになる。以前は「子どもの発言は否定しない」のが原則だったのが、否定「しなくちゃいけない」ことになったわけです。

 

──算数などの授業で「その答えは間違っているよ」と教えるのと同じようにしなくてはならないわけですね。

 

宮澤 そうです。「1+1=3」という子どもに「違うよ、答えは2だよ」というのと同じなんですね。しかもそれを実際の授業場面では、他の子に意見を求める形で、いわば同調圧力を使って訂正していく。そうして発言を正された子どもは、「自分の考えはちょっと違うんだ」と思って口をつぐんでしまうようになるでしょうし、それでどうして文科省の言うような「考え、議論する道徳」ができると思うのかと、本当に不思議です。これまでは、「他の教科はあまり得意ではないけれど、道徳は好き勝手しゃべれるから楽しい」という子もいたのですが……。

  先ほど言ったように、科学的な学問ではない道徳の「答え」には、何の基準もありません。教科書に書かれているのは、誰かの価値観、誰かの考え方に過ぎないのに、それについて「この考え方が正しい」と示すのは絶対にやっちゃいけないことです。子どもには親や先生に褒められたいという気持ちがありますから、教員に対しての忖度が生まれることにもなるでしょう。

  たとえば子どもに「宮澤先生は『平和が大事』だっていうと褒めてくれるんだ」なんていうふうに思わせてしまったら終わりです。心の内面のことは、あくまで日常生活の積み重ねの中で、子どもたちが学校や地域のいろんな人と接しながら、自分で答えを見つけていくべきものだと思います。

 

──教科化というと、どうしても教科書の内容に目が行きがちですが、それ以前に、学問的な下支えのない「道徳」を公教育で、教科書を使って教えること自体が問題だということですね。

 

宮澤 そのとおりです。世の中にはいろんな考え方があって、そのいろんな考え方をもつ人たちが集まって社会ができている。その中で、公権力が「いや、お前の考え方はおかしいからだめだ」ということをやってしまったら、それは民主主義教育ではありません。

  教科書の内容がどんなに「素晴らしい」ものであってもそれは同じです。時々、現状を懸念されている方からも、「私たちも対抗して教科書を作ればいい」という意見を耳にするのですが、それは絶対にやってはいけない。科学ではないものを教えることをよしとするという点で、向こうの土俵に乗ってしまうことになります。

検定教科書が目指すのは「従順な国民づくり」?

 

──とはいえ、現状で教科書が存在している以上、それに沿う形で評価も行われていくわけですから、やはり内容が気になります。各社の教科書をご覧になって、問題だと思われるのはどんなところですか。

 

宮澤 もともと私はインクルーシブ教育(※)の実践に力を入れてきたので、その視点からも非常に特徴的だと感じるのが「障害者」の扱いですね。基本的に、出てくる障害者はみんな「いい人」。誰かに助けてもらったときには卑屈なまでに感謝の姿勢を見せる人ばかりなんです。

  もしくは、実在の人物で名前が出てくる障害者もたくさんいるのですが、そこに共通しているのは「障害を自分の力で乗り越えた」人だということです。

 

インクルーシブ教育…障害のあるなしにかかわらず、望めば誰もが合理的な配慮のもと地域の普通学級で学べるようにしようとする考え方。

 

──パラリンピック出場者などが、その典型例でしょうか。

 

宮澤 そうです。つまり、社会を変えるのではなく、自分の力で障害を乗り越える、そして人に助けてもらったらとにかく感謝するのが「正しい」障害者だということ。今の「障害」についての世界的な潮流である、障害者が困難に直面するのは社会のほうに問題があるとする「社会モデル」とはまったく逆ですよね。障害をその個人の責任だとする、非常に古い考え方が貫かれているんです。

  また、偉人伝がたくさん出てくることも気になります。「こういう生き方をしていた人がいる」というだけならまだいいのですが、評価がある以上「こういう生き方が素晴らしい」という一つの価値観を示すことになってしまう。

  そして、教科書に載るような短い文章で人の人生すべてを語ることなんて絶対に無理ですから、一番教科書的にふさわしい部分だけが切り取られることになります。典型的なのが、「命のビザ」の杉原千畝です。

 

──どの会社の教科書にも、よく出てきますね。

 

宮澤 リトアニア領事だった杉原千畝が、危険を冒してビザを発行し、ナチスの弾圧からユダヤ人を守りました、という話なのですが、その「危険」がどうして生まれたのかとか、杉原が帰国後に罷免され、戦後も日本政府から誹謗中傷を受けたとかいったことは絶対に取り上げられません。人間一人の生き方さえ意図的に取捨選択されているわけで、怖いなと思います。

  また、この杉原の話もそうですが、「戦争」を取り上げた話はどれも、責任の所在にはまったく触れずに、ただ「一人ひとりが戦火の中で一生懸命耐え抜いた」ことを称える話ばかりなんです。

  たとえば、実話をもとにした『東京大空襲の中で』という話があるのですが、これはある女性の出産直後に空襲がはじまって、お医者さんや看護師が戦火の中で母子を守り抜く、というもの。一見「いい話」のようですが、そもそもそんな困難な状況になった原因は「戦争」のはずなのに、そこは一切問われないんですよね。

  話の最後に添えられている「問い」も、「人の命を守るために努力しているのを見たり聞いたりしたことがありますか。そのときどんな気持ちがしましたか」。これを読んで議論したときに、「戦争の否定」ということにはならないですよね。「平和」を考える教材には、まったくなっていないんです。

 

──どんなつらい状況でも、社会や政治にその原因を求めるのでなく個人で乗り越えるべきだ、と言われているように思えます。

 

宮澤 すべてが「自己責任」ですね。

  「家族の絆」「家族なら助け合うべき」といったことも全体的に強調されていますから、子どものころからそうした価値観をしっかりと学んできてしまうと、「親族が少しでもいれば助け合うのが当然、生活保護なんて受けるのは甘えだ」という、「生活保護バッシング」に向かうような自己責任論にもつながりかねません。

  1回たかだか45分の授業で何を大げさな、と思うかもしれませんが、そんなことはありません。感性の柔軟な子どものうちに学んだことは、大人になってもその人の考え方に大きな影響をもたらします。そこが怖いんです。

 

──教科書に書かれていて、先生に「こちらが正しい」といわれるわけですから、その影響は大きいですよね。

 

宮澤 そう考えていくと、今回の道徳の教科書というのは、「従順な国民づくり」にはベストの教材なんだと思います。家族同士は「無償の愛」で支え合って国に頼るな、障害は自分で克服しろ……。すべて、そういう方向につながっていきます。

「超ブラック化」している教育現場

 

──さて、教科化が決まったときの周囲の反応は非常に薄かったということでしたが、実際に「正式の教科」としての授業がスタートして、学校現場での反応はどうなのでしょう?

 

 「道徳の教科化を考える会」では、教材を最後まで読まず、途中で止めて「あなただったらどうする?」と子どもの議論を引き出す「中断読み」という手法を使った授業を提唱・実践したりしていますが……全体として見ると、ほぼ無反応と言っていいと思います。もともと、とにかく教科書どおりに授業をします、というスタイルの教員がほとんどですし、危機感を抱いている人は非常に少ない。そもそも、社会に目を向けない、目の前の仕事のことしか見ていない教員が本当に多いというのが現状です。かつては、「教科書を教える」んじゃなくて「教科書で教える」んだという矜持を持ってオリジナルな授業をする教員もたくさんいたのですが……。

 

──それは、よく言われるように「教員が忙しすぎる」のが要因なのでしょうか。

 

宮澤 一つはそうですね。教育委員会からなどの調査が非常に増えたこと、保護者対応やクレーム処理に割く時間が増えたことなどもありますが、大きいのは何をやるにも「意思統一」を求められるようになったことです。

  以前なら、この業務は自分の担当ということになれば、ある程度は自分の裁量で動けたのですが、今は何をやるにも、管理職に相談して決済のハンコをもらわなくてはならない。現場に裁量権がほとんどないので、いちいち確認を取らなくてはならないんです。そうして日常の業務に忙殺される中で、「教育」というものを広い視野で捉えられなくなっている教員は多いと思います。

  あと、その「裁量権がない」ことにも関連しますが、職員室に「言論の自由がない」ことも、社会問題に関心をもつ教員が少ない原因になっていると思います。

 

──「言論の自由がない」ですか?

 

宮澤 職員会議などで、校長の決定に「それは違うのでは」と意見したりという「不規則発言」をすると、後で校長室から呼び出しが来るという話は本当によく聞きます。「校長の指示に反対するなんて、組織としてあり得ない」と。だからみんなもう、ちょっと変だなと思っても何も言わない。言っても変わらないし、自分が怒られるだけだというのが分かっているからです。

 

──「会議」なのに、教員が自分の意見を言えない?

 

宮澤 2006年に東京都教育委員会が、「職員会議で挙手や採決で意思を確認することを禁じる」という通知を出しています。職員会議とは単なる校長の諮問機関であって、教員が意見を出す場ではないと、明確に都教委が打ち出してしまったわけです。

  だから、昔なら職員会議で「その決定はおかしいんじゃないか」と指摘する職員がいれば、そこから議論が広がっていって、最終的に校長が判断を変えるということもよくあったのですが、今は校長が「ここは発言する場ではない」と言って終わり。学校によっては、職員会議は年2回くらいしかやらなくて、日常業務については管理職だけの会議で決定される、なんていうところもあるようです。

 

──その都教委の通知についてはメディアで少し報道されていた記憶がありますが、いまひとつピンと来ていませんでした。そういうことだったんですね。

 

宮澤 それだけではなく、東京の教育現場は今、本当に締め付けが厳しくなっています。

  たとえば、教員になって1年目、正式採用になる前に辞めていく先生が毎年100人前後もいる。採用者数が毎年3000人前後ですから、約3%、100人に3人という異常な数字です。校長からプレッシャーをかけられた末の「自主退職」の事例は多いと聞きますし、実際私も毎年、退職強要を迫られた初任者の相談を何件も受けています。しかも、東京では今、教職員組合の組織率も1%を切っていますから──分裂した3つの組合を合わせても5%程度です──相談することもできずに泣き寝入りしていく人が大半なんです。

  正式採用になれば簡単にクビを切ることはできませんが、今度は人事評価制度で、校長の評価次第で給料が変わってくるし、異動に関しても校長に強い権限がある。そうなると、なかなかモノが言えないというのはありますよね。言われたとおりの授業をしておくのが一番いい、ということになる。

 

──お話を聞いていると、教育現場がまるで「ブラック企業」化しているような……。

 

宮澤 はい、「超ブラック」です。その中で、組織の操り人形みたいになってしまっている教員が「道徳の授業」で子どもの内面に介入するというのは、非常に怖いことだと思います。

 

──すでに道徳化がスタートしてしまっている今、そうした状況を跳ね返すために何ができるでしょうか。保護者を含め、学校外からできることはありますか。

 

宮澤 まず、ご自身が保護者という立場であれば、学校から配布されるアンケート調査などを通じて、道徳の授業に対する自分の意見をしっかりと伝えてほしいです。保護者の声が大きくなれば、学校も保護者と一緒にこの問題について考えていくことができます。

  あとは、保護者の立場ではない方も含め、とにかく周囲で「道徳の教科化って……」と話題にしてほしい。そして、憲法カフェのようなイベントをやるなど、この問題をたくさんの人たちに、広く知ってもらうための機会をつくってもらえたら、と思います。

 

 

みやざわ・ひろみち)1977年、東京都生まれ。公立小学校教員。「道徳の教科化を考える会」代表。共著に『「特別の教科 道徳」ってなんだ? 子どもの内面に介入しない授業・評価の実践例』(現代書館)他、がある。

 


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