nippon.com 8/22(木)
板倉 君枝(ニッポンドットコム)
2024年4月、米誌タイムの「世界で最も影響力のある100人」に選出された上野千鶴子氏。40年超にわたり日本の女性学・ジェンダー研究をけん引してきた上野氏に、「フェミニズムとは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想」だとする考え方の背景と、若い世代に託す思いを聞いた。
「アグネス論争」
上野さんがフェミニズムの論客として注目されるようになったのは、1987年の「アグネス論争」の頃からだ。人気歌手のアグネス・チャンさんが、テレビ番組収録の場に乳児を連れてきたことで賛否両論を巻き起こした。「職場に私生活を持ち込まない」という「美学」を背景に、作家の林真理子さんをはじめ、各界で活躍するキャリアウーマンたちがアグネスさん批判の先陣に立った。その中で、上野さんは敢然と「子連れ出勤」を擁護した。
男性が職場に私生活を持ち込まないですむのは、家事や育児を1人で担う専業主婦の働きがあるからだ。一方で、働く母親たちは、男性優位社会の美学に誤ってがんじがらめにされている。男たちのルールに従う必要はない。それが上野さんの考え方だった。
1988年の流行語大賞にもなったこの論争以降も、上野さんは精力的に言論の場で闘ってきた。
「別に好きで“ケンカ”に強くなったわけではありませんよ」と上野さんはきっぱり言う。「ただ、論理とエビデンスのある言葉は、相手を黙らせることができるのです。(社会的)弱者には、言葉は武器になると知ってほしい。そして、その武器をしっかりと磨いてほしい」
結婚の「わな」にはまらない
2019年、東京大学入学式での祝辞で上野さんは学内や社会の性差別に言及し、「頑張れば報われる」と思えるのは、努力の成果ではなく環境のおかげだと述べた。さらに、恵まれた環境と能力を「自分が勝ち抜くためだけに使わず、恵まれない人々を助けるために使ってください」「強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください」と呼び掛けた。祝辞としては異例の内容で、大きな話題となった。
中国では、中国語の字幕付きで動画がネット上で拡散し、20冊以上の著書が翻訳出版されてベストセラーとなる「上野千鶴子ブーム」が起きた。タイム誌は「世界の100人」選出の理由として、「結婚と出産への圧力に静かに反発する中国女性のロールモデルになっている」ことを挙げている。
上野さん自身は、どんな生き方を選択してきたのだろうか。
「私は北陸の3世代同居家庭で育ちました。父はワンマンの亭主関白で、おまけにマザコン。娘の私を甘やかしましたが、兄、弟とは差別しました。息子たちには将来のためのレールを敷き、娘にはなんの期待もしない。私は単に『ペット愛』の対象だったのです」
「父と母は恋愛結婚。でも、母は男を見る目がなかったと自分を責めていました。10代のとき、そんな母を見て、『お母さん、あなたの不幸は夫を変えてもなくならないよ』と思いました。ごく普通の善良な市民だった男女が、結婚という制度の中に入ると、不幸な結果を生む。それは家父長制の構造がもたらす問題であって、結婚相手が変わっても解決しないと気付いたのです。だから、私は結婚の罠(わな)にはまらないと決めて、今日まで生きてきました」
「女性学」との出会い
1967年、京都大学文学部哲学科に進学して、社会学を専攻する。在学時期は全共闘運動の真っただ中。上野さんもバリケード封鎖やベトナム反戦の路上デモなどに参加したが、やがて「バリケードの内側」の露骨な性別役割分担に幻滅する。
「同世代の団塊世代の男たちは、頭はリベラルでも、首から下は家父長制で固まっていました。あの時、あの場で彼らに何を言われ、何をされたか。恨みつらみは山ほどあります」
「母親のようにはなりたくない」という思い、そして学生運動の苦い経験が、フェミニズム、そして「女性学」の道に進む土壌となった。女性学と出会ったのは、1970年代後半、大学院生の時だった。60年代の女性解放運動(ウーマン・リブ)の影響を受けて米国で生まれた「女の女による女のための」学問だ。自分自身を研究対象にできることが「目からうろこ」で、夢中になったという。
大学教員を務めながら「主婦」の研究に取り組み、1990年、『家父長制と資本制』を刊行して、家事も「労働」であると提唱した。当時、経済学者や「家事は愛の行為」だとする主婦たちからも猛反発があったが、「家事は不払い労働」の概念は定着していった。
「男女雇用機会均等法」が分断の始まり
1960年代後半から70年代にかけて、世界同時多発的なウーマン・リブ運動が起きた。日本では、学生運動に失望した女たちが運動の担い手となる。その中心的存在が、「母性」や男性の性的搾取の対象からの解放を訴えた田中美津さん(8月7日、81歳で死去)だった。人工中絶の要件から「経済的理由」を除外しようとした旧優生保護法改正案に、「産む・産まないは女の権利」と抵抗して廃案に追い込んだ。
1975年、国際連合が同年を「国際女性年」に定め、第1回女性会議がメキシコで開催された。これをきっかけに、日本全国の女性団体が結束して性差別社会の変革を目指した。
「この頃から、『フェミニズム』という言葉が表舞台に出て各国が取り組むべき課題になり、日本でも国策化していきました」
85年、日本は国連の女性差別撤廃条約を批准するにあたり、国内法を整備する必要から、「男女雇用機会均等法」を制定した。
「条約批准に間に合わせるために駆け込みで作ったようなものです。当初、女性団体は雇用平等法を求めていたのに、政府は機会均等法にすり替えました。要するに、男並みに働く機会を君たちにも均等に与えてやるから、競争に参入して勝ち抜けということです。女性保護規定を捨てさせる一方、男たちの働き方は一切不問にしました」
「機会均等法の下、(幹部候補の)『総合職』、(サポート業務中心の)『一般職』を分離するコース別採用を導入することで、経営側は何も変えずにすみました。総合職の女性は一握りで、一般職は全て女性です。当時、総合職女性にも制服を着せるか、お茶くみ当番から外すべきかが、おじさんたちの論争の種でした」
「頑張って総合職に食い込め、歯を食いしばって生き残れ。それがフェミニズムなのか?“そんなわけがない!”と、当時の私は直感的に思いました。フェミニズムは、女が男のようにふるまいたい、弱者が強者になりたいという思想ではない。弱者が弱者のまま尊重される社会を求める思想だと思い始めたのは、この頃からです」
「均等法第一世代は“男並み”に働いて、多くの犠牲を払いました。ようやく昨今の『働き方改革』で男の働き方が問われるようになるまでに、40年もかかってしまったわけです」
一方、1980年代には、団塊世代の主婦たちの多くが、ポスト育児期に家計補助収入を求めてパートやアルバイトで働くようになる。85年には労働者派遣法も成立。雇用の規制緩和が進んで非正規雇用が増加。その多くは女性だった。
「総合職、一般職、正規、非正規と、女性の分断が始まりました。政治的に作られた明らかな人災です」
前述の「アグネス論争」の背景には、私生活のにおいを消して、必死に勝ち抜こうとしている均等法第一世代の女性たちがいたのだ。
ネオリベ改革で非正規が拡大
上野さんは、1995年の「北京女性会議」(第4回世界女性会議)を「行政とフェミニズムの蜜月時代のピーク」とする。「全世界から4万人の女性がNGOフォーラムに集い、うち6千人が日本人女性でした。その多くが、自治体が予算を付けて北京に送り出した草の根の活動家たちです」
バブル崩壊以降、自治体の財政が厳しさを増し、蜜月は終わる。一方、80年代以降、政治家によるネオリベラリズム改革が着々と進んでいた。市場の競争原理を重視し、規制緩和、行政サービス縮小を主眼とする政治経済思想で、根底には均等法と同様の「自己決定、自己責任」の原理がある。
「雇用の規制緩和と景気悪化の中で、家計補助のために働く既婚女性向けに作られた非正規労働市場に、非婚者やシングルマザーが参入しました。その中には、就職氷河期の『団塊ジュニア世代』の若者たちもいます。多くはそのまま非正規に固定され、格差は拡大していきました」
「自己責任」が内面化
1990年代以降、女子の高学歴化が急速に進んだ。
「少子化で、親が教育投資で性差別をしなくなったことが背景にあります。夫や子ども優先ではなく、“自分ファースト”の女性が層をなして登場しました。素晴らしいことですが、一方で、この数十年の間に、若い世代にネオリベの価値観が内面化されたと感じます」
「自分の不遇や困難は自己責任だと思い込まされているので、助けを求めることができない。弱さを認めたくないのです。特にエリート層に顕著です。東大生には自傷系の(メンタルヘルスに問題がある)“メンヘラ”の学生が増えているし、女子には摂食障害も多い。受験戦争の“勝者”は、不安の塊でもあるのです」
「自己責任」原則が強まる中で、経済的に追い詰められているのに助けを拒む女性もいる。
「今では、働く女性の10人に6人が非正規雇用です。コロナ禍では、派遣切りなどの影響を受けた女性の貧困が表面化しました。そんな中でも、生活保護申請を拒むシングルマザーたちがいました。困窮しているのは彼女たちのせいではないのに、自分で何とかするしかないという思いが強いのです」
この数十年で格差が広がり、ジェンダーギャップ指数の世界ランキングでは毎回、先進国で最下位の日本。頑張っても報われないなら、あきらめるしかないのだろうか。
「私たちの世代も努力はしたし、闘ってきましたが、社会を大きく変えることはできませんでした。それでも、例えばセクハラやDV(家庭内暴力)の被害者が声を上げやすくなったのは、闘いの成果です。何もしなければ、世の中は良くなりません」
フェミニズムを「再発見」した「自分ファースト」の若い女性たちに、上野さんは希望を託す。#MeTooに影響を受け、インターネットやSNSを駆使し、ネットワークを広げてさまざまな運動を展開している彼女たちを、上野さんは「次世代のフェミニスト」と見る。
上野さんの最新刊『こんな世の中に誰がした?』(光文社)には、若い女性たちに向けた強い思いが込められている。
「選挙権を持つオトナには、政治家の人災を許して今の世の中を作った責任があります。でも、社会は急には変わりません。今の若い人たちも、やがて後から来る世代に『こんな世の中に誰がした?』と責められることになります。だからこそ、今度はあなたたちが闘う番ですよと伝えたい」
【Profile】
上野 千鶴子 UENO Chizuko
1948年、富山県生まれ。東京大学名誉教授、認定NPO法人「ウィメンズアクションネットワーク(WAN)」理事長。女性学・ジェンダー研究のパイオニアとして教育と研究に従事。高齢者の介護とケアも研究テーマとしている。
ミニトマトの収量が極端に落ちている。
どうやら日照不足のようだ。
特に朝の日照が少ない。
週間天気予報を見ても☁と☂ばかりだ。
もう農業も漁業も成り立たなくなりつつある。
ところが、東京新聞にこんな記事を見つけた。
ブルーインパルス大空舞う 空自松島基地の航空祭
2024年8月25日 17時09分 (共同通信)
航空自衛隊松島基地(宮城県東松島市)に所属する飛行チーム「ブルーインパルス」が25日、同基地の航空祭でアクロバット飛行を披露した。あいにくの曇り空だったが、次々と繰り広げられる曲技に、会場からは拍手や「きれい!」との歓声が上がった。
6機が等間隔で白いスモークを出しながら隊列飛行したり、うち2機が空にハートを描いたりして、観客はたくさんの写真を撮っていた。基地によると、約3万人が訪れた。
毎年来ているという仙台市の会社員渡辺由美子さん(59)は「パイロットにとっては命がけの仕事で、いつも感動します」と話した。
ブルーインパルスは同基地を拠点に各地のイベントに花を添えている。
共同通信の記事であるが、東京新聞ともあろうものがこの手の記事をいつも無批判に掲載しているのだ。
「まったなし」の気候変動にこれでよいのか?