カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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「今週の公教要理の錠剤」51 

2012年12月14日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 待降節の第三主日 2012・12・16
「カトリック教会の教え」から
「新約聖書の法律―愛の掟」
イエス様は当時の法律にぶつかって、その法律に対する、神様、兄弟愛の掟を言い広めました。同時に定められた罰に対して、イエス様は寛大な心で赦しの心を表しました。罪人を大事にして大きな忍耐を示しながら、罪人の回心を求めつつ、いつでも彼らが帰ってくることを求めていました。と同時に、罪と悪に向かい力強く戦っていました。さて、放蕩息子のたとえ話は特別にイエス様のメッセージと神様の心のあり様を表しています。また中楓を患っている人にイエス様が、体を癒す前に心の癒しを求めて、罪を赦してから元気を取り戻すようにされました。同じように罪の現場を見つけられた女は当時の法律によると石を投げつけられる形で死ぬべきだったのに、イエス様は救われただけではなく、罪をゆるして、喜びの中で真実の人生に立ち返らせました。イエス様が社会の中で日常生活、仕事、普通の役割などを通して愛を実践するように指導してくださいました。そのような所でイエス様に従う者はまず、イエス様と同じように憐れみの心、赦す心を実行するように勧められています。「何回赦すべきでしょうか」、「どのような罪まで神様がゆるされるのか」と、このような疑問はイエス様の使徒ペトロだけではなく、良く考えてみれば、人間の心の中にみなあります。イエス様の答えは「いつも」「どんな大きな罪を犯したことがあっても」ゆるしを願おうとすれば、必ずゆるしを得られるというものです。カトリックの伝統の教えでは罪の影響に注意するように勧められています。たしかに罪を犯した場合、人を傷つけたり、罪が生まれる雰囲気と環境を作るのでそこにも注意すべきです。赦しを得られても、罪を犯した結果も癒すベきだと教えられています。同時に小さな罪と大きな罪の区別にも注意しなければなりません。けれどもキリスト教では罪は何でしょうか、ある行動はいつ罪になるのか、罪の意識、罪とはなんであるかと現在でも大きな課題になっています。それは来週必ず、この小文章の中で答えたいと思います。日本の罪の意識とキリスト教の罪の意識、いくつかの点で異なっていますから、ここのところを慎重に深めるべきだと思います。
                             モヨリ神父

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