カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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C 第29主日 

2016年10月10日 | 神父様からメッセージ(C年)


 本来ひとにしつこくものを頼むのは失礼なことなのですが、しかし時によって一生懸命に願うことはその必要性、その欠かせない希望、願うことに対する愛着を示しています。このような思いの中でキリスト信者の祈り方を考えたいと思います。イエス様に従うもの達は、いつも祈るようにイエス様に勧められています。祈りの内容とその方法もイエス様に指導されています。しつこく頼めば神様が叶えてくださることよりも、まずイエス様はお父さんのようにわたし達を愛してくださる神様の姿を見せてくださいます。わたし達には必要なこと、良いことを何でも知っておられる神様が、いつもそれを願う前に与えてくださいます。「主の祈り」はわたし達に祈りの完全な内容を教えてくださいます。イエス様は子供として神様のものですから、いつでも神様に向かって絶えず祈るように勧めてくださいます。確かに神様はその祈りを聞いてくださり、いつもそれを叶えてくださいます。わたし達の思い通りではなく、いつもわたし達のための良い方を叶えて、むしろわたし達の心や思いに欠かせない指導をされる聖霊を与えてくださいます。
「ルカによる福音書18・1-8」
 当福音書で注目すべきところは二つあります。まず不正な裁判官と父である神様のやり方の比較です。次にイエス様に従うもの達の絶えず一所懸命に祈る方法とその目的です。日曜日に福音書を読む時に、いつも必要なのは二つの観点です。イエス様が生きておられた時のエピソードとその出来事が、初代キリスト信者の共同体にどのように受けとめられて解釈されたのかです。昔のイスラエルの社会の中で一番身分の低いものは未亡人、孤児と異邦人でした。旧約聖書では神様がこのようなもの達を特別に大切にします。そして良いイスラエル人もこのようなもの達を大切にし、収穫の時にも田圃に収穫の一部をこの弱いもの達の為に残していました。そして貧しい人に対して、未亡人に対しても法律によるよりも特別な扱い方が勧められています。しかし福音書の中に登場する裁判官はこのような心を持たず、未亡人からしつこく願われています。キリス信者は不正な裁判官ではなく、いつも皆に心を掛けてくださる父である神様に向かって、絶えず一所懸命に祈るようにします。絶えず願うことによって、不正な裁判官でさえ、応えることが出来ました。それよりも、一人一人を大切にしてくださる慈しみ深く憐れみ深い神様が、心から願えば必ず応えてくださいます。一所懸命に願う人に神様が特別に救いを与えてくださいます。絶えず願い続けなければなりません。イエス様も最後までそれを頼み願う人がいるかどうか大きな希望を表しています。キリスト信者もあらゆる願い事のために祈っています。しかし、一番大切なのは自分の最終的な救いです、または人生に一番欠かせない事の為に願うことです。それを人は忘れてしまうことがあります。
                            モヨリ神父


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