カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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C年 第30主日

2016年10月18日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 自分について話すとき自分ができたことについて自慢する人は、だれにも好まれないと思いますが、そのような態度を持つ人は聖書の中でも神様でさえ好まれないのです。人間が上手く色々できても自分の力でできたことではなく、不思議な神様の支えでできたことですから、それに対して自慢するのは愚かではないでしょうか。だからイエス様は時によって隠れたところで祈るように、断食するように、施しをするように勧めています。隠れたところでなんでも見ておられる神様は、それを評価して報いてくださいます。神様は表面的なことよりも、心の中にある思いや行いを見ておられて、それを特別に好まれます。キリスト信者は自分の人生の中で、数知れない良い行いも成し遂げますが、そのために自慢せず、神様から頂いた恵みに対して努力し、神様に恩返しをしながら生きています。キリスト信者は自分の弱さを認め、神様の赦しを絶えず願い、自分が成し得た僅かなことに対して自慢せず、神様を誉めたたえます。
 「ルカによる福音書18・9-14」
 当福音書ではイエス様が相手を裁かない、戒めない(特にルカ6―42)と伝えながら他の話につないで、兄弟の欠点を強調しないように注意しています。イエス様は言葉じりを捉えるのではなく、いつも自分の聞き手に向かって、はっきり明言した話し方をしていました。また、イエス様の言葉の中には、秘められた悲しみも含まれています。さて、福音書が語っているエピソードで、イエス様がファリザイ派の人との根本的に違った考え方を示しています。すでに旧約聖書でも、神様の前で自分の正義を自慢し、間違っている他人を見下して批判したファリザイ派の人たちが忘れていた注意でした。いくつかのところで(ヨブ記、詩編などで)自分を自慢しないように勧めながら、人間は神様に対して自慢できるものはなく、欠点をこそ持っているものだと教えられています。同時に旧約聖書では、隣人を軽蔑しないように強く注意します。そのような心を持った人は神様から離れ去り、愚かな考えをもち、罪を犯しています。イエス様が語られたエピソードの中に登場するファリザイ派の人は、イエス様の言葉から離れて、大きな自己満足と間違ったプライドをもっているので、それに気付きません。反対にファリザイ派の人と一緒に祈る為に神殿に上がった罪人は、神様に対して自分が欠点だらけのものだと認識しています。自分の具体的な有り様を実感しないと、自分のことを自慢して人を見下してしまいます。反対に罪人は自分のことを神様にゆだねています。罪人は深く自分の罪を認識して、神様の心に届く祈りを祈っています。旧約聖書の中の、ダビデ王と同じ祈りです。だからイエス様が語られたたとえ話は、キリスト信者にとって、具体的な日常の公教要理になっています。初代キリスト信者の共同体から近代に至るまで、わたしたちキリスト信者は、このようなイエス様のたとえ話を参考にして、お互いに赦し合い慈しみの中で支え合っているのです。
                                    モヨリ神父


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