『夜と霧』 NUIT ET BROUILLARD (1955年 フランス)
監督=アラン・レネ
製作=サミー・アルフォン、アナトール・ドーマン、フィリップ・リフシッツ
脚本=ジャン・ケロール 撮影=ギスラン・クロケ、サッシャ・ヴィエルニ
音楽=ハンス・アイスラー ナレーター=ミシェル・ブーケ
DVD発売元=アイ・ヴィー・シー(HDマスター版)
『二十四時間の情事』(1959年)や『去年マリエンバートで』(1960年)などで知られるフランスの名匠アラン・レネ監督が、アドルフ・ヒトラー率いるナチスドイツによって行われたユダヤ人大量虐殺=ホロコーストの実態に迫った、30分あまりのドキュメンタリー映画が、本作『夜と霧』です。
HDマスター版となった本作の冒頭には、本作のフィルムがフランス国立映画センター(CNC)の支援により、2015年にフィルムの修復が行われた、という説明が付け加えられています。そこでは、監督のアラン・レネが語っていたという、以下のことばが紹介されていて、ああたしかにそう思ってしまいがちだなあ・・・と思わず苦笑いたしました(以下は字幕より引用)。
「古い本は表紙がボロボロで ページがすり切れていても価値がある だがフィルムに関しては 劣化しているというだけで 恐ろしく評価が下がってしまう アラン・レネは そう嘆いていた」
映画は、ホロコーストの発端から終結までを記録したモノクロのフィルムや写真と、解放から10年経った強制収容所を撮影したカラーの映像とを交錯させる形で、ホロコーストの恐るべき実態を明るみにしていきます。
ナチスによって一斉に検挙され、貨物車に押し込められて移送された挙句、劣悪な環境のもとで強制労働に従事させられる人びと。「懲罰」と称して裸にされて整列させられたり、殴打される囚人たち。そしてガス室によって「生産的に処分」され、命を奪われた人びとの遺体の山・・・。
ホロコーストについては、これまでもさまざまなドキュメンタリーや書籍を通して、その実態についてはいくらかは知っているつもりでおりました。しかし、本作の記録映像によって突きつけられるホロコーストの衝撃的な実態には、あらためて戦慄を覚えずにはいられませんでした。
本作によって初めて知ったこともありました。収容所内には住宅や病院、監獄といった施設はもとより、交響楽団や動物園、さらには娼館まであって、ひとつの町のような機能を備えていたといいます。殺された人びとの遺体から石鹸を作ろうとしたことや、遺体を焼いたあとの骨を肥料に使ってみたといったおぞましい事実も、本作で初めて知りました。
意外だったのは、収容所が人里離れた場所ではなく、一般の人びとが住んでいる町に極めて近いところに存在していた、ということでした。おぞましい殺戮が繰り広げられていた場所と、「平穏」な市民生活とが、監視塔を境にして隣り合っていたということが、何よりも恐ろしいことのように思えました。
人類史の中でも特筆されるべき、恐ろしい戦争犯罪であるホロコースト。映画の最後では、その責任はどこにあるのかということや、本当の「悪」はなんなのかということについての鋭い問いかけがなされます。
ホロコーストという、人類史上最悪といえる戦争犯罪を暴き出しながらも、その首謀者であるアドルフ・ヒトラーを、本作はことさら前面に出すことをしていません(記録映像の中で、ほんの数秒程度映し出されているだけです)。そして映画の終盤で、ホロコーストの責任を問われたナチスの将校らが、一様にこのように言いながら、自らの責任を否定したことに触れるのです。
「命令に従っただけ」
ホロコーストの責任を問われて裁判にかけられた、ゲシュタポ(ナチの秘密警察)でユダヤ人の移送局長官にあったアドルフ・アイヒマンが、自分は命令と法に従って義務を果たしただけ、と言って無罪を主張したことが思い出されました。裁判を取材した政治哲学者のハンナ・アーレントは、そこに「悪の陳腐」さを見出し、特定の権力者や独裁者だけではなく、誰でもが「悪」をなし得るのだということを、著書『エルサレムのアイヒマン』(みすず書房)で指摘しています。
映画のラスト。打ち捨てられ、廃墟と化した収容所を映し出した映像に、このようなナレーションがかぶさります(以下もすべて字幕から引用)。
「戦争は終わっていない」「火葬場は廃墟に ナチは過去となる だが 900万の霊がさまよう」
そして、ナレーションが最後に突きつけてくることばが、胸に突き刺さってきました。
「ある国の ある時期における 特別な話と言い聞かせ 消えやらぬ悲鳴に 耳を貸さぬ我々がいる」
あまりにも残虐な行為や事実を見せつけられたとき、われわれはそれを「常軌を逸した異常な人間」や「強権的な独裁者」でなければできないことだ、と思いたがるところがあります。今のこの国に住む自分たちとは無縁の「特別な話」なのだ、と。
しかし、ひとたび全体主義的な雰囲気の中で、おかしな方向に世の中が進んでいくことにでもなれば、どこにでもいるような「普通」で「陳腐」な存在であるわれわれもまた、「悪」をなし得る存在となり得ることを忘れてはならないと思うのです(映画でも指摘していたように、収容所が「平穏」な市民生活の場と隣りあっていた・・・ということも象徴的でしょう)。そしてそれはかつてのナチスドイツでの話というだけではありませんし、戦争という事態だけに限られた話ではないのです。「命令と法、そして〝正義〟に従っているだけなのだ」などと自分を納得させながら、平然と「悪」をなす存在に、われわれ一人一人がなり得るのです。
そんな事態を招かないために、そして「消えやらぬ悲鳴」を過去のものとして忘れてしまわないためにも、折りに触れて繰り返し観ておくべき映画として、『夜と霧』は製作から70年近い現在においてもなお、大きな価値を持ち続けているように思いました。