読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

NHKスペシャル、3.11 あの日から3年『「災害ヘリ」映像は語る ~知られざる大震災の記録~』を観て

2014-03-01 22:53:00 | ドキュメンタリーのお噂
NHKスペシャル、3.11 あの日から3年『「災害ヘリ」映像は語る ~知られざる大震災の記録~』
初回放送=2014年3月1日(土)午後9時15分~10時04分
語り=堤真一・守本奈実



自衛隊、海上保安庁、警察、消防、そして放送局•••。さまざまなヘリコプターから震災を記録した、膨大な空撮映像から見えてきた津波や津波火災の恐ろしさを、あらためて嫌というほど思い知らされました。厳しい訓練を経てきたはずの自衛隊員ですら冷静さを失い、動揺を隠せなかったほどの、あまりにも想像を絶する被害の大きさ•••。
少しづつ、しかし大量に流れ込んできた海水によって、仙台平野の内陸深くにまで押し寄せてきた津波の状況(わずかずつ盛り上がっていたという津波の幅は12kmにも及んでいたといいます)。
地形の高低差が作用していた、津波の先端における動きの違い。わずか1メートルの高さの違いが津波の向きや速さを変え、人びとの生死をも分けていました。
さらに、プロパンガスボンベや燃料が入った車や船などを含んだ「可燃物の固まり」と化した「がれき」が引き起こした津波火災•••。初公開されたものを含む空からの映像からは、津波が何を引き起こしていたのかが生々しく、詳細に見えてきたのでした。

そして、空から行われた捜索や救出劇も、ヘリからのカメラは映し出していました。
道路が家屋などで埋め尽くされて消火や救助ができない状況に陥ったり、あまりにもたくさんの救助要請を受けての混乱もあり、多くの助けられなかった命がありました。その反面、空からの懸命の救出活動によって救うことができた命があった、ということも、あらためて知ることができました。

今月は東日本大震災から3年。これからNHKスペシャルでも、さまざまな視点から震災をテーマにした番組が放送される予定になっています。
またしっかりと、震災がもたらしたものと、その教訓とに目を向けていきたいと思っております。

NHKスペシャル『聞いてほしい 心の叫びを ~バス放火事件 被害者の34年~』

2014-03-01 07:28:31 | ドキュメンタリーのお噂
NHKスペシャル『聞いてほしい 心の叫びを ~バス放火事件 被害者の34年~』
初回放送=2014年2月28日(金)午後10時00分~10時49分
語り=山根基世 朗読=余貴美子


1980年8月19日。東京の新宿駅西口に停車していたバスにガソリンと火が放たれて炎上、乗っていた30人のうち6人が死亡し、14人が重軽傷を負いました。
犯罪史に残る無差別通り魔事件となった、この「新宿西口バス放火事件」で全身の80%にも及ぶ大火傷を負いながらも、奇跡的に一命を取り留めた女性がいます。ノンフィクション作家の杉原美津子さん、69歳。
杉原さんは、火傷の治療のために投与された血液製剤がもととなってC型肝炎となり、さらに肝臓がんを発症。命の期限を感じながらも、杉原さんはあらためて事件と正面から向き合い、最後の作品の執筆に余命を捧げようとしています。
番組は、複雑な被害者としての感情に苛まれながらも、過ちに対する“赦し”とは何かを探っていく杉原さんの心の軌跡を追ったものです。

5年前に夫を亡くしてから、名古屋のアパートに一人で暮らしている杉原さん。10数回に及ぶ移植手術を経た皮膚は、今でも痛むといいます。
「冬になると痛くて眠れない。これが本当に私の体かと思うことがある」
杉原さんの手元には、1枚の写真がありました。火を放たれて燃え上がるバスを捉えたその写真を、杉原さんは長いこと見ることができなかったといいます。
その写真を撮ったのは、杉原さんの実の兄でした。当時報道カメラマンだった兄は、仕事の帰りに偶然事件に遭遇し、現場の生々しい状況を何枚かの写真に収めました。その事件に妹が巻き込まれたことを知ったのは、撮影の数時間後のことでした。
病院での療養生活を支えてくれたのは母親でしたが、杉原さんはその母親にやり場のない怒りの感情をぶつけ続けました。母の思いやりから発せられた「火傷の痕を隠しなさい」との言葉に「隠さなければならないことをした覚えはない」などと。

退院後、杉原さんは事件のことを一冊の手記にまとめます。『生きていたい、もう一度』と題されたその手記で、杉原さんは加害者についてこう記しました。
「加害者、丸山博文を憎むことができない」
農家を出たあと上京して土木作業員として働きながらも、その後はホームレスとなり、「通行人にバカにされた」腹いせに凶行に及んだという丸山元受刑者。その境遇を知った杉原さんは、社会が変わらなければまた同じようなことが繰り返されると思い、憎しみの気持ちが湧かなかった、と記したのでした。しかし、それは読者からの批判を招きます。
「被害者はこうだ、というレッテルを貼られて、被害者は加害者を憎むべきだ、と言われた」と、杉原さんは当時を振り返ります。

2年前に肝臓がんを告知された杉原さん。「気持ちの整理ができないまま、死ぬことになるのは嫌だ」と、あらためて事件と正面から向き合うことを決意します。
おととし、事件からちょうど32年目の8月19日に新宿西口を訪れた杉原さんは、事件と同じ時刻のバスの同じ座席に座ります。否応なしに思い出される事件の記憶。しかし、車窓から見る風景はすっかり変わってしまっていました。
何もかも変わっていく中で忘れられていく事件。しかし、被害を受けた者の終わることのない苦しみを忘れてほしくはない•••。杉原さんはあらためて、事件を辿っていくことへの決意を固めます。

「心神耗弱」を理由に無期懲役の判決を受け、収監されていた丸山元受刑者でしたが、服役中だった1997年に獄中で自殺していました。そのことをずっと後になって知らされた杉原さんは、憎むことができなかったはずの加害者への怒りが湧いてきたといいます。刑期を全うすることもなく、「ほっぽり出して勝手に死んでいった」加害者への怒りが。
「(加害者には)苦しみを投げ出すことなく『強く』生きてほしい」と杉原さんは執筆中の手記に書きます。そのことで、被害者のほうもそのことを受け入れて生きていくことができるのだから、と。

衝突を繰り返し、30年ずっと疎遠だったという杉原さんの母親は、2年前に亡くなっていました。
「一人では越えられなかったことが身に沁みてわかる」ようになった、という杉原さんは、今も健在である兄に葉書を出します。兄が母の手を取りながら撮った写真が印刷されていたその葉書には、亡くなるまでずっと、母の介護を続けてくれた兄に対する感謝とともに「お母さんの人生、しあわせでしたね」という言葉が添えられていました。それを見ながら兄が言います。
「やっと垣根を取っ払ったのかなあ、と」

容体が悪化したことをきっかけに抗がん剤治療を受けながら、杉原さんは他の被害者の消息を探ろうと動きます。被害者の中には、まだ40代の若さでやはり肝炎を発症した末に亡くなった方も。
そして、東京に住んでいる被害者の女性と連絡がつき、会うことができました。その女性も、「大変だったね。けど良かったね」という、おそらくは悪気はなかったであろう言葉に傷ついたりと、被害者でなければわからない苦しみを抱えていました。
語り合ううち、その女性の火傷が自分より軽かったことを知った杉原さんは、思わずこう口にしてしまいます。
「いろんな意味で幸運でしたね•••」
無論、その言葉にも悪気はありませんでした。が、その後には重苦しい沈黙が•••。
相手の女性は、杉原さん宅を辞したあと取材者にこういった趣旨のことを語ります。
「『幸運でしたね』と言われたけれど、それは自分が受け入れた末に思うことなのであって、人が決めつけたり言ったりすることではないと思う」
被害者の感情をわかっていたつもりだったにもかかわらず、思わず口をついて出た言葉。それを、杉原さんはこう振り返ります。
「優しい言葉をかけたつもりだったが、それが逆の意味にとられたときに、こんなに難しいものだったのか、と茫然とした」
杉原さんは女性に宛ててお詫びの手紙をしたためます。後日、女性からは手作りのティッシュケースとともにメールが送られてきました。そこには「何回かコミュニケーションを重ねてからだったら、深いお話ができたのでは」との言葉とともに、またお会いしたいという旨が記されていました。
杉原さんは手記に記します。
「人は、皆、まちがう。人は、皆、傷つけられ、傷つける。
その絶対の事実から、目を背けてはならない」

最後の写真を撮ってもらおうと、神奈川に住む兄の元を訪れた杉原さん。2人は、かつて一緒に遊んだ砂浜へと向かいます。兄が持つカメラは、事件を撮影した時に使ったものでした。
「これ、遺影になるんだからね」と言いながら、笑顔で写真に収まる杉原さん。わだかまりを乗り越えた末に、ようやく訪れた穏やかなひとときでした•••。

事件自体の凶悪さ、凄惨さをあらためて思い起こすとともに、それが被害者の心身に与えた傷がいかに深く大きかったのかを知りました。そして、それが時として、同じ被害者同士にすら壁を作ってしまうほど複雑なものがあるという現実には、言葉にならないものがありました。
しかしこの事件のように、無差別に人々を襲う犯罪に巻き込まれる可能性がゼロとはいえない以上、被害者たちの苦しみはわれわれにとっても無縁であるとは言い切れません。
これがもし自分の身に起こったとしたら、果たして加害者を本当に“赦す”ことができるのか。それ以前に、心身に加えられた深い傷に正面から向き合うことなどできるのか。そして、事件を忘れることなく、同じような事件を繰り返さないためにできること、しなければならないことは何なのか•••。
番組から見えてきた問いは、容易には答えが出せないほど重いものです。が、これからも自分なりに、この問いと向き合い、考えていかなければならないと感じました。
長期にわたる取材により生み出された、優れたドキュメンタリーでした。観ておいてよかった、と思います。