読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

NHKスペシャル『あの日 生まれた命』

2014-03-11 23:25:30 | ドキュメンタリーのお噂
NHKスペシャル『あの日 生まれた命』
初回放送=2014年3月11日(火)午後8時00分~8時45分、NHK総合
語り=武内陶子、音楽=中村幸代

東日本大震災で多くのかけがえのない命が失われた、3年前のきょう。まさにその日に生を受けた子どもたちは、わかっているだけで100を超えるといいます。
その子たちの親御さんは、混乱と言い知れない不安の中で赤ちゃんを産み、守り抜いてきました。その一方で、多くの命が失われた「あの日」に我が子が生を受けたことで、苦悩を抱き続けている親御さんもいます。きょう誕生日を迎えることになったその子たちと、親御さんの歩んだ3年間を見つめたのが、この番組です。

宮城県名取市の女性は、仙台市で女の子を出産します。その1時間後に、大きな揺れに襲われました。
その後もうち続く余震のため、女性は食事をとることができなくなりました。そこに物資の不足も加わって、母乳も出なくなってしまいました。
それからしばらく経ち、順調に育っていたと思われた矢先、女の子の呼吸が突然止まりました。女性は、すぐには救急車を呼べなくなるほど気が動転し、「先に(自分を)置いて死なないで」と願い続けた、と涙ながらに振り返ります。
搬送された病院での診断は「無呼吸発作」でした。しばらく入院加療した結果症状はおさまり、3週間後には退院することができました。
女性は言います。
「ただ生まれてくれただけでも大切な命だけど、その中でもあの日に生まれたのだから、やっぱりより一層大切にしないと、と思う」

こちらも宮城県で生まれた男の子は、本来の誕生日であるきょうではなく、おととい3歳の誕生祝いを受けました。津波にさらわれ、いまだ見つかっていない、ひいおばあちゃんの命日でもあり、そちらの方を優先したいとの親御さんの意向から、生まれて以降ずっと誕生祝いを前倒ししていたのでした。「素直に喜びを表せないというのはある」と母親は言います。
しかし、何よりもその子の誕生を心待ちにしていたという、ひいおばあちゃんの気持ちを汲み、やはり誕生日の当日に祝いたい、という気持ちに変わってきた、と。再び母親の言葉。
「悪いことをしているわけではないので、やはり当日に祝ってあげたいと思っています」

事故を起こした福島第一原発から4kmの、福島県双葉町の病院で生まれた女の子。震災の翌日には病院を退去させられ、その後は家族ともども2年半にわたる避難生活を送ることとなりました。
放射性物質への不安もあり、なかなか子どもを外で遊ばせることができない、と手記に綴った女の子の母親は、こう続けます。
「心の中に『思い出』という財産を、たくさん残してあげられたらと思います」

宮城県南三陸町に住む介護士の男性。震災当日は妻の出産に立ち会うために、勤務していた介護施設を休んでいました。その施設も津波の直撃を受け、入所者のうち48人が亡くなりました。
10年間、家族同様に接していた入所者たちを失ったことに、男性は自責の念を持ち続けていました。「自分が勤務でいれば、少しでも多く助けられたのでは、という思いがある」と。
そんな男性の気持ちを支えてくれたのが、生まれてきた息子の存在と、その成長していく姿でした。
「悲しかったり辛かったりする中で、息子がいてくれることは、気持ちを優しく包んでくれている」
男性は、現在勤務している介護施設に息子を連れて行きました。やはり家族や家を失ったりもしている入所者たちは、息子の姿に目を細めます。
男性は言います。
「息子がいるところには笑顔がある。悲しい思いや辛い思いを、少しでも和らげる一助になれば、と思います」

震災当日は住んでいた東京から、里帰り出産のために故郷の宮城県石巻市に戻っていた女性は、海から2km離れた病院にいました。津波はその病院にも押し寄せ、1階は完全に水没。屋上の洗濯室に上がり、やはり入院していた2組の親子と、雪の降る寒さの中で凍えながら過ごすことに。そんな状況で支えとなったのが、自身も自宅に子どもを置いてきていた看護師さんでした。
「マイナスな言葉を発すると不安になるばかりなので、できるだけ冗談も交えて明るい言葉をかけていました」
と看護師さん。
翌日もライフラインは途絶えたままで、さらには病院に備蓄されていた3日分の水と食料も流されていました。そんな状況を案じたのが、避難所にいた病院の調理師さんでした。調理師さんは避難所の台所で40個のおにぎりをこしらえ、それを担いで腰にまで達する水の中を1時間かけて歩き、病院へと届けたのでした。
「ごはんを食べなければお乳も出ないし、なんとか食べさせたくて」
と調理師さん。
里帰り出産をした女性は、そのときのことを振り返ります。
「おにぎりってすごく温まりますから、もう嬉しくって嬉しくって」
さらに病院には、水や食料、おむつなどの物資も次々に届けられました。近隣の人たちが、限られた物資から少しずつ分け与えてくれたのです。
里帰り出産をした女性は、去年東京から故郷の石巻に居を移しました。懸命に支えてくれた病院と、石巻の人たちへの恩返しがしたいから、と。
「石巻に帰ってきたいというのがあった。目の前でここまで復興してきているというのが見えるので、前に進める」
とその女性。そして、さらにこう言います。
「自分が3月11日に生まれたと言えば、あの震災の日だと言われるだろうけれど、助けてもらった人がいるということの方を、大事に考えてもらえたら、と思います」

本来なら大いに祝福されるべき、子どもの誕生。それが震災と重なったことで、心から喜び、祝うことができない複雑な思い。それでも、我が子を必死に守り、時には支えられながら、その幸せを願う切なる気持ち。親御さんたちの、人知れぬ気持ちの葛藤の一つ一つが胸に刺さり、観ていて涙を抑えることができませんでした。どんなにか、辛いことだったことでしょう。
3月11日という日の持つ重みに押しつぶされそうになりながらも、懸命に我が子を守り抜いてきた親御さんたち、そしてそれを支えていた病院の関係者や地域の人たちには、ただただ敬意を抱きます。
そういった人たちの葛藤と思いにしっかりと向き合い、受け入れていくことが、被災した地域の外に住むわたしたちにできるせめてものことなのではないか、そう思うのです。

失われた多くの命を悼みつつ、3年前のきょう生まれてきた子どもたちに、心からこの言葉を伝えたいと思います。
お誕生日、本当におめでとう。そして、これからも健やかに育っていってくれることを願っています。