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ETV特集『信さん101歳 ツルさん103歳 ~どっこい生きたふたりの100年~』

2014-03-02 14:31:37 | ドキュメンタリーのお噂
ETV特集『信さん101歳 ツルさん103歳 ~どっこい生きたふたりの100年~』
初回放送=2014年3月1日(土)午後11時00分~11時59分
語り=井上真央


吉田信(まこと)さん、101歳とその妻ツルさん、103歳。全国でも珍しいという100歳を越えた夫婦です。
お2人はこれまで、関東大震災や太平洋戦争、それに続くシベリア抑留などの歴史の荒波を経験しながらも、前向きな精神をもって乗り越え生きてこられました。
その後、ひ孫まで含めて4世代9人の大家族の中で幸せに暮らしていたお2人は、新たな苦難に直面しました。3年前の東日本大震災と、それに続く原発事故です。大家族は住んでいた福島県大熊町から、離ればなれの避難生活を余儀なくされます。しかし信さんとツルさんは、そのような状況にもしっかりと向き合い、乗り切っていこうとしています。
番組はそのお2人の1年間を記録しながら、これまでお2人が歩んできた人生をひもとき、それぞれが語る言葉にじっくりと耳を傾けていきます。

故郷の大熊町を離れ、70歳を越える息子夫婦と会津若松市で避難生活を送る信さんとツルさん。すぐに帰れると思いながら、着のみ着のままで始まった避難生活も長いものとなってしまっていました。孫とひ孫の一家は、郡山市に離れて暮らしています。
取材者から「長生きの秘訣は?」と聞かれたお2人。ツルさんは
「のんき。くよくよしないで、のんきに生きること」
と答え、信さんは、
「生きがいになるような一つの目標を持つこと」
と答えます。対照的な考え方を持ち、時にはケンカをしながら、それでも仲良く生きてきたお2人なのでした。

いま、信さんが取り組んでいることがあります。それは「自分史」の執筆。孫やひ孫と離ればなれになったことが、そのきっかけでした。「やがて自分が亡くなったあとでも、吉田信はこういう人間だったと、一目でわかるような資料をつくりたい」と。
信さんは、自分史づくりのためにノートを作成していました。誕生からの人生の出来事が、当時の社会的トピックとともに記されたノートでしたが、そこには空白のままのページが目立ちます。集めてきた新聞の切り抜きなどの資料の多くは大熊町の実家に残されたままだったのです。
昨年の3月。必要な資料などを持ってくるため、息子夫婦が大熊町へ一時帰宅しました。原発事故以降「帰還困難地域」となり、立ち入りが厳しく制限されている大熊町。人影がなく、変わり果てた故郷のありように、息子さんは「ひとことで言うと虚しくなっちゃうね」と言います。
原発からわずか2kmのところにある自宅。近くの高台からは原発の建物の上部が見えます。防護服を着用し、持参した測定器の警報がずっと鳴り響く中、制限時間5時間の帰宅です。
ツルさんが100歳を迎えたときに記された「おめでとう」の筆文字がかけられ、家族9人が楽しく暮らしていた家の中は、もうすっかり荒れ果てていました。その中で息子さんはなんとか、いくつかの資料を見つけ出します。
息子さんの妻は海岸へと向かいました。そこには家族で大事にしていたお地蔵さまがありました。お寺の跡地から掘り出された5体のお地蔵さまに、ツルさんは「このままではかわいそうだ」と、手作りの着物を着せていたのでした。そのお地蔵さまも、5体のうち3体が津波で流され、残った2体の着物もすっかりボロボロに。それを見た息子さんの妻は「おばあちゃんが見たら泣くでしょうね」と言うのでした。

明治45年に生まれた信さん。まだ10代だったころ、警視庁に務めることになった父親に連れられて一家で上京します。まさにその年に起こったのが、関東大震災でした。
信さんはいまでも、その時のことを鮮明に思い出すといいます。「立っておれなかった」ほどの大きな揺れ。落ちて割れた金魚鉢から金魚が跳ねていたこと。裸同然の姿で歩いていた避難民に、母親がおにぎりをつくって与えていたこと•••。
その後、信さんは幼なじみだったツルさんと結婚します。昭和11年のことでした。

昨年の6月。会津美里町で開かれた「あやめ祭り」に出かけた信さんたちでしたが、その直前に信さんの体には異変が起きていました。突然、体がふらついて自力では歩けなくなってしまったのです。これまでになかったことでした。
息子さんの押す車椅子に乗って、あやめを見物する信さん。大の植物好きということで、その顔もほころびます。
信さんはこういう趣旨のことを語ります。
「これまでは、長生きできただけでもよかったと思っていたけど、101歳になって初めて本物だと思った。まだ、あと10年は生きようという欲望が出てきました」
「いろんなことがあったけれど、負けないで長生きできたことは良い体験だったと思う」

信さんは29歳のときに召集され、関東軍特殊部隊の一員としてかつての満州へと出征します。
夫が不在だった日々のことを、「子どもがいたからまぎれていた」と振り返るツルさん。それを聞いていた信さんは「子どもを抱えて苦労していたと思う。感謝していますよ、女房であっても」と言います。
だんだん激しさを増していった東京への空襲。子どもが焼夷弾に怯えているのを見かねたツルさんは、故郷の大熊町に帰ることを決めます。大熊町に戻ったその1ヶ月後、東京は大空襲により焦土と化したのでした•••。

満州で終戦を迎えた信さん。「日本に帰るから、とだまされて」連れていかれたのは、シベリアの凍土でした。かくて、零下40度の極寒の地での、過酷な強制労働が始まります。
「“ダワイ”(「~しろ」と命令するときのロシア語)と言われるのがイヤでイヤで」という辛い日々が続きましたが、それでも信さんはユーモアと前向きさを忘れませんでした。
ある日の夜のこと、信さんたち日本人が望郷の念から月を眺めていると、ロシア人から「日本にも月があるのか」と問われました。それを受けた信さんは「あるとも。それどころか日本には月が二つあるんだぞ」と答えたとか。
「相手はずいぶん驚いていたけど、なんか悪いこと言ったかなあ」と、当時を振り返る信さんなのでした。
初めは違和感があった食事の黒パンにも慣れ、「帰る時には黒パンと別れるのがさびしかった」という信さん、昭和23年に帰国を果たすことができました。

帰ることができた祖国は至るところ焼け野原と化していて、まさにゼロからのスタートでした。しかし、それでも信さんは希望を持っていたと言います。
「日本人は戦争に負けても必ず立ち上がる、という信念があった」
そんな気持ちを抱きながら、信さんは37歳で英語教師の職を得ます。その当時の信さんの「武勇伝」を、ツルさんは次々と暴露します。
「学校で酒飲んでたのよ。で、そのあとハシゴするので有名だった」「飲み屋で通信簿盗まれた」
ツルさんの暴露にたまりかねた信さん、ついに一喝。「余計なことしゃべるな!バカモン!」

昭和44年、故郷を一変させる動きが始まります。原子力発電所の建設でした。冬になると仕事がなく、出稼ぎにいっていた状況はガラリと変わりました。
「村の人全部が金持ちになった。道路ができたり、いろんな建物ができたりといいことづくめで、原発はいいもんだと思ったね」
故郷が豊かになっていくとともに信さんの家族も増えていき、やがて4世代9人の大家族となっていったのでした。

昨年の8月。離れて暮らしている孫とひ孫一家も久々に信さんたちを訪ねてきていました。
ひ孫の一人である高校生の男の子が、こういう趣旨のことを語ります。
「いままでおじいちゃんの素晴らしい生き方を見てきたので、自分たちも復興に向けて頑張っていきたいと思う。いままでみんな一緒に平和に暮らしていたのにこうなってしまって、残念とも受け止めているけれど•••」
信さんが語ります。
「お墓があるからまだ引っかかっているけど、帰っても何の夢もないですから、別天地を求めるしかない。これからは、子や孫が住むことができる場所を見つけるのが、当面の目標」
「あと10年は生きたいと思っています。とはいっても難しいところもあるだろうが、原発の収束を見ないうちは死にたくない」

12月。小さな着物を縫っているツルさんの姿がありました。故郷の海岸にあるお地蔵さまの着物がボロボロだったことを知り、新しい着物を着せてあげたいと思ったのです。一晩で縫い上げられたその着物を持って、息子さん夫婦が大熊町へ向かいました。
着物はお地蔵さまに着せられ、さらにその上にビニールが被せられました。いつかまた孫やひ孫たちと遊びに行くときまで、しっかりと着物が保っていてくれるように、とのツルさんの願いを込めて。

今年1月4日。ツルさんは103歳のお誕生日を迎えました。
ひ孫から心境を聞かれたツルさん、こう答えます。
「ふわふわ宙に飛ぶような気持ち。ツルだから」
信さんは、年末からインフルエンザにかかり、別室で療養しながら自分史の準備を進めていました。
「なんであっても希望を失わず、病気になっても頑張りたいと思います」
信さんは半年間老人ホームに入所し、リハビリに励むことにしました。入所の日、信さんがツルさんに言います。
「元気になって帰ってくるから」
そしてツルさんが答えます。
「帰ってこなかったら困るわよ。ケンカする相手がなくなっちゃうから」
信さんは入所にあたって「お守り」を持参していました。小さな額に入れられた、ツルさんと2人で写された写真でした•••。

まるで夫婦漫才のような、信さんとツルさんのやりとりには何度も大笑いさせられました。それでいて、言葉や態度の端々に感じられる、互いを思いやる気持ちもしっかりと伝わってきました。
なにより、どんなときにも前向きに生きていこうとするお2人の姿勢が、心に響きました。
おそらくは、人には言えないような苦しみや悲しみも経験してきたことでしょう。心ならずも故郷を離れざるを得ず、家族も離ればなれになっている現在の状況に対する無念さもひしひしと伝わってきて、心が痛むものがありました。
しかし、それでもユーモアを忘れることなく、あくまでも前向きに生きていこうとするお2人の姿から、人間として大切なことを教えていただいたような気がします。
信さんとツルさんには、願わくはもうしばらくはお元気でいてくださったら、と思うばかりです。いつかまた家族揃って故郷に戻り、福島の復興を見届けることができるように•••。