創造

創造主とセルフイメージの世界

悔い砕かれた心の者へ

2023-12-05 11:28:42 | 福音

【イザヤ書57章14₋21節】

主を迎える準備、主の通られる道を用意する、それがアドベント(待降節)の時です。

旧約時代はメシアを待望しました。現代はその主を心に迎え、体も贖われる再臨の主を待望する時代です。

主と出会うには、その前ぶれがあります。わたしも学生の時、キリスト研究会という十人ぐらいのサークルに参加し、ワディングトン宣教師の指導を受けました。主催者は山口県出身の角谷先輩でした。

休日には少年刑務所を訪ねて劇をしたり、義援活動をしたり、山村友の会と言って、教会のない地域のために

学校の教室を借りてそこで寝泊まりして、紙芝居や民家で交わりの時を持ちました。

 ジンギスカン料理を食べて、寒さに抵抗力をつけました。夜は足首や要所に新聞紙を巻き付けて用心して寝たりしました。そんな中で主への備えがなされたのだと思います。いわば先輩クリスチャンの中のイエス様、聖霊様に出会っていた訳です。そして直接、主に祈るように導かれました。「永遠いのちとは御子及び父なる神との交わりです」とありますように。

 ヨブは絶望と失意の中でエリフという若者を通して主と出会い、パウロはステパノの説教を聞き、怒って迫害しましたが、やがて復活の主に出会ったパウロも同じです。

 

心砕かれた者とは、打ち倒され絶望した者という意味ですが、信仰の決心が出来たみ言葉の一つは十字架上での「わが神わが神、何故私を見捨てられたのですか」という主の祈りでした。

 イエス様にとって、神はいつでも親しい父でありましたが、この時はどこかよそよそしく遠くのお方に叫ばれているようです。見捨てられるとは全くの絶望状態です。神がいない世界と言えるかもしれません。

 ですが、ここに深い恵みを感じました。自分のように神とは縁のないような世界に生きる者、その所に主が来ておられる。14節の預言のように「いと高く」「永遠の命を持たれ」「聖なる」神が「心砕かれてへりくだった人」、闇の中に下られたのです。

 それは「霊」を活かし、魂を活かすためであったとあります。 

 イザヤはこのように救い主キリストの到来を正確に語りました。

旧約時代、エレミヤやイザヤが嘆いているのは、民の二心であり高ぶりであり、その結果、砕かれるためにイスラエルは呪いと悲惨の中に置かれました。罪と弱さを自覚するために。

主がこの世に来られる時に「人々の心が現れる」とあります。本来、人間の心は主を迎える準備はないということです。聖家族を宿す余地はなかったのです。

自ら幼子のように無力な者であることを示されて、神のみ前にへりくだること、その心の小道を主が入ってくださるのです。

岸田総理が夏季休暇に読まれたという本の一冊「アマテラスの暗号」を電子書籍で読んでみました。神道が旧約聖書と関連していると言ことをかなり詳しく述べていました。しかし「あとがき」に日本人は自虐史観によって自分を卑しめると教育や国力を弱めてしまうので、もっと誇りを取り戻さなければならないとありました。

旧約の預言者たちは自分と民の神への不信と二心の罪を悲しみ、警告していることを見逃しているように思えました。かつて自らを一等民族と誇り、韓国やアジアの人々を二等三等民族として神社崇拝を強要したのでした。

へりくだる心に聖霊なる神が宿られます。

クリスマスとは、神がその分身であるご自身を私たちにプレゼントされる驚きの出来事です。

その永遠のいのちである宝をご自分のものにして、真の誇りに生きてほしいと主は切に願っておられます。

 主の前に自分の弱さを誇り、ゆだねる時に、宮から活ける川が流れたように神ご自身が私たちの生活に現れてくださるのです。

入れまつる家あらず

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