「神は霊Spiritですから、神を礼拝するものは霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4・24)
歴史あるいは地球史を探求する場合、そこに霊的な前提があるといえます。
私たちが認識する客観的世界は、私たちの脳裏に写された世界であります。異なる視覚を持った生物には全く違った自然界が投影されていると思われます。
その意味で被造物の実在は、それを認識する主体(あるいは主観)によって規定されるものであって相対的なものといえます。
他方、創造主は「ありてある者」として絶対的なお方です。そして霊Spiritですから有限な人間の五感を超えて実在されます。
そこで私たちの認識の方法が問われてきます。かつてパウロはパリサイ人として知識(グノ-シス)に依存して行動しましたが、新生後は霊的知識(エピグノ-シス・上からの認識の意)に基づく生活を始めました。(ロマ書10章)
神は両腕で私たちを抱かれご自身のふところに迎え入れてくださいます。主のとりなしと内住の聖霊のとりなしです。
原罪によって被造物は虚無の霊の支配下に陥りました。その結果全宇宙史と人類史は、霊的には失われた運命をたどりました。
普通に歴史という場合、その前提にすでに、創造主との直接的関係を断たれた世界を、霊的認識を失った主体が探求したものです。
バルトなどが用いた「原史ウアゲシヒテ」とはドイツ語で原初の歴史なそうです。
まだ罪とサタンによって汚染されないオリジナルな歴史と考えてよいでしょうか。
救済史、あるいは贖罪史は一般的歴史とこの原史の接触の歴史であり、創造主がサタンと罪によって失わわれたものを探し求め、奪回する物語であり、人間の側からは放蕩息子のように霊の父へ、エデンの園への帰還のスト-リ-であります。
史実としての一般史に隠された創造者の活動が、霊の目が開かれることによって鮮やかにされていきます。
それは自分史において、罪を赦され、創造者を聖霊として迎え入れた霊的奇跡の体験によって確認されます。
小宇宙である自己の内になされた神の御業を通して、その敷衍としての自然と歴史を見るときに、そこには全く新しい展望が開かれてきます。
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