創造

創造主とセルフイメージの世界

新島襄の協力者土倉庄三郎

2013-10-10 21:39:27 | 歴史

「森と近代日本を動かした男」として知られる奈良県吉野郡川上村の土倉庄三郎は新島襄の同志社創立の精神に共鳴し子女を入学させ、財政面での応援も惜しまなかったと評伝(土倉祥子著・朝日テレビ社)に記されています。

http://book.akahoshitakuya.com/b/4800300436

http://www.patrasche.net/blog/?p=1008

次男はクリスチャンで日本のカ-ネ-ションの父と呼ばれました。

http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/dokura_ryu.html

ところで評伝に依れば、川上村は南朝ゆかりの地で後亀山上皇の子孫二の宮が住み南朝の回復をはかったとされます。とこが1457(長禄元年)、赤松家の遺臣によって神璽(しんじ)を奪われ、18歳の兄一の宮と共に暗殺されました。応仁の乱以降、後南朝の子孫はその姿が史上から消え、南北朝の和解のないままま、足利幕府はその子孫の絶滅を策して弾圧を加え、反抗する者は斬りあるいは流し出家させたとあります。

http://www.youtube.com/watch?v=hYipWhLxAqg

1911年(明治44年)、幸徳秋水は大逆事件で処刑される前年、公判廷で「今の天皇は、南朝の天子を殺して三種の神器を奪い取った北側の天使の子孫ではないか」と語ったことから南北正閏論が湧きあがり、秋水一派の不祥事件の原因は文部省の歴史教育にあるとされて8月に第一次桂内閣がつぶれることになりました。

南朝史蹟の顕彰をおこなわれ、1912年宮内省は一の宮の墓を北山村に二の宮の墓を川上村とする告示を発表、土倉家をはじめとして、数百年間墓を守って祭儀をつづけてきた川上村住民と宮内省との確執がはじまりました。

著者は「川上郷は南朝宮方恢復の策源地であり、自天主は神器を擁した南朝最後の天子として南山の悲史を象徴している。」と述べています。

ところで、一内閣を崩壊させたほどの南北正閏論はどのように解決されたのでしょうか。私にはいまだその解答が分かりません。

 

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