創造

創造主とセルフイメージの世界

1865年(慶応元年)長崎の済美館と致遠館

2016-04-27 20:28:39 | 歴史

http://tabinaga.jp/column/view.php?category=2&hid=20140226200421&offset=5

「長崎洋学史上巻」(古賀著・長崎文献社・1966昭和41)199ぺ-ジによる。

「1862年に至って、この英語伝習所は、片淵郷組屋敷内の及武館のうちに移され,改めて、英語所といい、中山右門太が、頭取を命じられた。1863年英語所は、立山奉行所の東長屋に移り、何礼之助、平井義十郎が学頭となった。同年12月、英語所は江戸町に移り、洋学所と改称する事になった。そしてフルベッキGuido Fridolin Verbeck もまた英語の教授を嘱託された。1864年(元治元年)正月大村町に語学所を設け・・・」

とあり、翌年8月新町に移って済美館と改称されました。

昭和6年四条書房から刊行された「明治百話」にはフルベッキが話した以下のようなエピソ-ドが収録されています。

「ここに二枚の写真があります。(チョンマゲ大小の書生30名ばかりと。他に50名ほどの人々主人を取り巻いて写る)、ハイ日本第一の写真師でしょう、上手でした。長崎の上野と申す写真師です。私は長崎に居りまして、この書生はみな長崎で教えたのです。一方は立山で、一方は新町。新町のは佐賀藩のお侍。どうも顔付にすぐ見えます。幕府の方はよほど進んで居りました。どうも幕府の侍の方は文明の顔をしております。」(岩波文庫版「明治百話」より)

「S・R・ブラウン書簡集」(高谷道男編訳・日本基督教団出版局1965)156ぺ-ジの高谷氏の注には以下のようにあります。

「長崎でフルベッキの指導した学校は二つである。「済美館」は長崎の官憲で設立し、致遠館は佐賀藩で設立した学校。前者には岩倉具視の子息、薩摩の藩士、小松帯刀ら、明治時代の政治家もここで学んだ。佐賀藩の致遠館には大隈重信、副島種臣ら、同藩の者がここでフルベッキの指導を受けた」と。

事実は致遠館は大隈重信らが商人から募金して1865年設立した私塾から出発したといわれます。翌66年五島町の諫早屋敷の中に開校されてフルベッキは校長として招聘されました。(「フルベッキの生涯」大橋・平野共著・新人物往来社)

立山は長崎の北部、新町は後に興善町に併合されます。グリフィスはフルベッキ写真に柳屋謙太郎が写っていると証言しました。

柳屋氏は1867(慶応3)年通弁役として江戸に招聘されています。

 

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