ピアニストの韓 伽倻(ハンカヤ)さんが10月24日に亡くなられ、たいへんショックを受けています。
彼女は、京都市立堀川高校音楽科時代の2年後輩。
高校時代とその後しばらく、ピアノ弾きとして一番親しい後輩でした。
長くドイツ・カールスルーエ音楽大学教授を務める傍ら、演奏活動も活発に。
魅力あるピアニストでした。
写真は、1984年夏ザルツブルクで。
ピアノ講習会(ピヒト=アクセンフェルト先生)受講のため、6週間、二人同じ下宿で過ごしてた時。
私が化粧直ししてるのを彼女は半ば呆れてる、という図です。
それ以前、二人して井上直幸先生に傾倒していたことも懐かしい。
彼女が、何の面識もないのにいきなり井上先生の家にピンポーンし、レッスンを直訴したと聞き、私も奮発。
京都駅で2時間ほど到着を待ち、レッスンを直訴したことなど。
フライブルクでも何度も泊めてもらいました。
今うちにあるスタインウェイも、フライブルクで彼女のアドヴァイス受けつつ選定したものです。
日本時間の今日午後6時よりお別れの会がドイツであり、同時間に献奏を、とのこと。
私は京都より、バッハのパルティータ D-durのアルマンドを。
98年に作った短歌。
【踊り場にひかりの位置が変はるとき死を言ひぬ二階から来し伽倻へ】
彼女は、京都市立堀川高校音楽科時代の2年後輩。
高校時代とその後しばらく、ピアノ弾きとして一番親しい後輩でした。
長くドイツ・カールスルーエ音楽大学教授を務める傍ら、演奏活動も活発に。
魅力あるピアニストでした。
写真は、1984年夏ザルツブルクで。
ピアノ講習会(ピヒト=アクセンフェルト先生)受講のため、6週間、二人同じ下宿で過ごしてた時。
私が化粧直ししてるのを彼女は半ば呆れてる、という図です。
それ以前、二人して井上直幸先生に傾倒していたことも懐かしい。
彼女が、何の面識もないのにいきなり井上先生の家にピンポーンし、レッスンを直訴したと聞き、私も奮発。
京都駅で2時間ほど到着を待ち、レッスンを直訴したことなど。
フライブルクでも何度も泊めてもらいました。
今うちにあるスタインウェイも、フライブルクで彼女のアドヴァイス受けつつ選定したものです。
日本時間の今日午後6時よりお別れの会がドイツであり、同時間に献奏を、とのこと。
私は京都より、バッハのパルティータ D-durのアルマンドを。
98年に作った短歌。
【踊り場にひかりの位置が変はるとき死を言ひぬ二階から来し伽倻へ】
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