河野美砂子の「モーツァルト練習日記」+短歌+京都の日々の暮らし

11/23(土)13時30分 NHK文化センター京都「マズルカ⑫最終回」Op.67、Op.68全曲 

全曲通して

2006-09-30 23:02:48 | 演奏会「モーツァルトに会いたい・2」
東京にいる家族が帰ってきたので、プログラム全部を通して聞いてもらう。
全体の長さ、バランスなど、やはり他人の耳でチェックしてもらわないと心配。

ずいぶん私としては考えたプログラムだったので、全体としてはOK、ちょっと長いところをカットすることになるみたい。

面白かったのは、そのモーツァルトの曲に対する反応。

プログラムの中には有名な曲もあるし、私がしょっちゅう弾いてる曲も多いけれど、今回のような演奏会でない限り、聞くことのできないような小品、それらを聞くのがとても新鮮らしい。

やっぱりね、と思ったのは、アイネクライネジーグK.574(1789年)。
2~3分の小曲だけど、す・ご・い!
ポリフォニー+半音進行+大胆な和声!!

私一人ひそかに凄い曲、と思って弾いてたけど、やっぱり同業者(異楽器だけど)にそこをわかってもらえると、単純にウレシイ。

自分が作ったんじゃないのに、私のものよ、と自慢したい気分。♪

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K.330ハ長調ソナタの楽譜

2006-09-30 02:29:23 | 演奏会「モーツァルトに会いたい・2」

もうすぐ10月。
そろそろ楽譜の詳細を比較研究しなくっちゃ。
というより、同じ曲を、異なった版(原典版=作曲者が書き残したそのままを印刷したもの。)の楽譜見ながら弾いていると、あれっと思うアーティキュレーションや強弱記号にぶつかる。

たとえば、K.330のハ長調ソナタ。
同じ原典版でも、ヘンレ版とウィーン原典版ではいろんな所が違う(音の高さとリズムは基本的に同じ)。 底本にしているものが違うからで、ウィーン原典版の後記には比較的丁寧にそのことが記されている。

底本は、自筆譜または初版譜が基本になることが多いが、自筆譜が残っていない場合も多い上に、その時のさまざまな事情がからむからややこしい。

初版を出版する時に、自筆譜からさらに作曲者が手を入れて強弱記号などを書き加える場合もあれば、作曲者が感知しない、他人による加筆が行われることもあったようだ。

K.330のヘンレの場合、小さなフォントで、f や p が書いてあって、これは初版に因っている。
が、この強弱記号はほぼ明らかにモーツァルトのものでない。
それは弾いてる者にはすぐわかる。
ウィーン原典版の場合は、だから、その強弱記号は印刷されていない。

アーティキュレーション(スラーなど)になると、もっとビミョウな問題になる。
特に、この曲の第1楽章は、右手の装飾的な音型が魅力なので、スラーの掛け方(=切り方)によって表情が変わる。

私は、研究者ではなくあくまで現場のモノであるから、こういう時は、弾いてみて素敵な方を取る。
それに尽きる。

ただ、モーツァルトは、楽譜を書き残すことに対して、ベートーヴェンほど執着がなかったというか、忘れないための軽いメモ程度の意識、というと言い過ぎだけど、そんな感じがある。

だから、ベートーヴェンの楽譜は、読めば読むほど深く読めるような所があるのに対して、モーツァルトはちょっと気まぐれ。
書くのが追いつかなかったのね。

有名なエピソード、「もう曲はできあがってます。…あとは書くだけです。…」を思い出します。

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