実務家弁護士の法解釈のギモン

弁護士としての立場から法解釈のギモン,その他もろもろのことを書いていきます

土地区画整理事業における賦課金の負担義務者(1)

2011-12-16 09:53:37 | 日記
 このブログで事件の受付を表示したことから、いま実際に行っているやや特殊な事件について、触れてみたい。
これもかなり難しい法律問題が含まれている。それが見出しで書いた、土地区画整理事業の賦課金を誰が負担するかという問題である。

 そもそも、土地の区画整理事業を行う場合、通常、都市計画と一体として行うので、役所の公共事業のように思われがちであるが、現実には区画整理を行う土地の地権者及び借地権者が土地区画整理法に基づいて、土地区画整理組合を設立し(したがって、組合員は地権者および借地権者である)、この組合が主体(施行者)となって土地区画整理事業を遂行していくことが多い。そのため、土地区画整理事業は、実は地権者や借地権者の事業であることが多いのである。
 もっとも、通常、都市計画と一体となっているので、役所からの補助金等が支出される場合が多く、事業自体極めて公共的性質を有しているので、土地区画整理組合そのものが一種の公共機関のような側面を有しているともいえることは間違いはなさそうである。
 賦課金とは、この区画整理組合が事業の遂行のために組合員に課す金銭的負担である。

逮捕と勾留(2)

2011-08-16 14:52:01 | 日記
 俗に「人質司法」といわれることがあり、法制度上は被疑者段階での勾留に保釈の制度がない我が国の法制度の問題もあるが、運用上の「人質司法」は、ほとんどの場合に被疑者勾留を簡単に認めてしまうという、この被疑者勾留の段階から始まっていると思える。
 法律に詳しくない一般人からすると、「悪いことをした以上身柄拘束されるのは当たり前」という感覚があるかもしれないが、本当に犯罪を犯したのかどうかは、その後の裁判において決せられるのであって、捜査段階はあくまでも罪を犯した「疑い」があるだけなのである。逮捕された人は、ひょっとしたら無罪になるかもしれない人たちなのであり、もしかすると本当は罪を犯していない人たちを長い間身柄拘束しているのかもしれないのである。それでもいいのだろうか。

 近年社会的にも話題になった無罪事件としては、大阪地検特捜部が捜査した郵便不正事件が記憶に新しい。えん罪であったにもかかわらず、長い間(保釈まで5か月程度のようである)身柄拘束をされていたことになるのである。そして、この事件の(元)被告人は国家公務員であり、日常の仕事を抱えており、家族もいるはずである。そういう人たちが簡単に逃亡するであろうか。また、勾留請求時には証拠物件の大半は既に押収済みだったはずである。それでも証拠隠滅の恐れがあるのだろうか。
 皮肉なことに、この事件で証拠改ざんをしたのは被告人ではなくむしろ検察の方である。

 私が言いたいことは、捜査段階での令状主義および保釈の運用(保釈もなかなか認めないし、保釈保証金も高額になっていると思える。)も含めて、未決の被疑者・被告人の権利がないがしろになりすぎているような気がするし、このこと(特に被疑者段階での身柄拘束)が却って虚偽の自白を誘導する結果になってはしないだろうか。そのスタートが簡単に勾留を認めることから始まっているとしか思えないのである。

 弁護士の立場から刑事訴訟の運用を眺めると、どうしても愚痴になる。

逮捕と勾留(1)

2011-08-11 09:44:54 | 日記
 刑事法については、あまり得意ではないと言うことと弁護士の立場からの刑事法を眺めると、どうしても愚痴っぽくなってしまうことがあるので、このブログではあまり取り上げてこなかった。
 しかし、手続法の部分で一点だけ愚痴を述べたい気分になったので、ちょっとだけ述べてみる。

 被疑者が逮捕された場合、ほとんどといってもいいくらい、引き続き勾留される。私の実務経験では、それ程多く刑事事件を取り扱っていない中で、過去三回ほど逮捕された被疑者が勾留されずに釈放された例がある。自慢ではないが、取り扱った刑事事件の数に比較すると勾留されなかった事例は比較的多い方かもしれない。しかし、その他はすべて逮捕後当然のように勾留される案件ばかりである。

 ところが、刑事訴訟法を見れば、被疑者を逮捕できる要件と、引き続き勾留できる要件は明らかに違う。
 逮捕できる要件は、「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」があれば逮捕状により逮捕できる。現行犯人を逮捕する場合は、条文形式上は無条件に逮捕できる。このように、逮捕の要件はわりと緩やかである。
 これに対し、勾留できる場合は、「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」があるほか、住所不定、証拠隠滅の恐れ、逃亡の恐れのいずれかがなければならない。つまり、逮捕できる要件にさらにプラスアルファの要件が加わっている。それにもかかわらず、裁判官は簡単に証拠隠滅の恐れや逃亡の恐れを認め、簡単に勾留状を発してしまう。

 逮捕後必ずといってもいいくらいに勾留される理由として、そもそも被疑者の逮捕段階で、法律が要求する要件よりも厳格に運用し、証拠隠滅の恐れや逃亡の恐れがある場合に限って逮捕するような運用をしているのであれば、理解できなくはないが、決してそのような運用をしているとは思えない。
 結局、証拠隠滅の恐れや、逃亡の恐れという要件を、極めて(というより、際限なく)緩やかに解釈して骨抜き運用しているとしか言いようがないのである。
 しかも、勾留の違法を争おうとしても、法制度上は準抗告という手続しか用意されておらず、さらに上級審で勾留の違法を争う方法が手続法上用意されていない。身柄の拘束という、行動の自由が剥奪されている状況にもかかわらず、その違法を上級審で直接争う方法がないというのは、どうしてなのだろう。

DNA鑑定(4)

2011-04-18 13:23:26 | 日記
 足利事件における鑑定方法は、私の認識が間違っていなければ、どうもこの多型部分1か所だけで鑑定したようである。しかも、その精度にも問題があった可能性がある。
 もっとも、ここからは私の想像であるが、当時のヒトゲノムの解析はまだ不十分だったと思われ、反復配列の多型部分がDNAのどこにあるのかが、はっきりしたことが分かっていなかった可能性もあり、唯一知られていた多型部分1か所だけで鑑定をしたとも考えられる。また鑑定技術も確立したものであったかどうか、今になって振り返ると疑わしいということもあり得よう。

 さらにもう一つ重要だと思うことは、全くの他人間の細胞検体から採取したDNAならば、多型部分を対で鑑定した場合に、ともに一致するという可能性はそれほど大きくないかもしれないが、親子や兄弟間の場合はそうはいかないはずだ、ということである。
 なぜなら、染色体(を構成するDNA)は、23対(合計46個の)染色体のうち半分が父親から、残りの半分が母親から子へ受け継がれるのである。だから、親子間では、対となるDNAの片方はほぼ必ず一致する。兄弟間では、対となっている染色体のうち兄弟で同じ染色体が両親から受け継がれている可能性もほぼ4分の1の確率で存在する。したがって、反復配列の多型部分1か所だけで鑑定した場合、2つの検体の鑑定結果が一致する可能性は、全くの他人間の検体よりも親子・兄弟間の検体の場合の方がきわめてはるかに高いはずである。このことも、決して忘れてはいけないと思う。

 本に書いてあったことでもう一つ印象に残っていることは、アメリカの犯罪捜査でDNA鑑定が利用される場面は、「鑑定結果が一致しなければ犯人ではない」という、消極目的で利用されているらしいことである。「鑑定結果が一致する」だけで犯人と決めつけることはしていないらしく、真犯人とするには必ず他の証拠も必要とする運用をしているらしいのである。そのようなことまで、生物学の本(大学教科書)に書いてあるのに驚く。
 この犯罪捜査方法は、科学的捜査を重視しつつ、その結果をうのみにしないという、極めて慎重な態度といえる。科学捜査の限界(技術的限界、人為的ミス等)もありうるであろうから、日本の犯罪捜査でも同様の慎重さを求めたいものである。そして、日本の犯罪捜査にDNA鑑定が利用され始めた当初の鑑定(特に、犯人性が争われた事件)は、その鑑定が真にに正しかったかどうか、やはり再検証が必要なはずである。足利事件の再審を担当した弁護人も、おそらくこの点を気にしているはずなのである。おそらく、だからこそ、ただ再審無罪になりさえすればよいというのではなく、なぜDNA鑑定によってえん罪が発生したかの検証をする必要性を再審の審理の過程で主張していたのである。DNA鑑定に関して、足利事件だけが特殊だったわけではないはずだからである。
 足利事件以外に、再検証をしようとしない検察は一体何を考えているのだろうか……。

DNA鑑定(3)

2011-04-15 11:10:43 | 日記
 さて、いよいよ本題であるが、人の遺伝子情報、すなわちDNAの塩基配列は人それぞれで違う。だから、DNA鑑定が可能なのである。しかし、では人によってどれほど違うのだろうか。本のどこに書いてあったかわからなくなってしまったが、確か、99パーセントは同じだと書いてあった。つまり、人によるDNAの塩基配列の違いは、わずか1パーセント程度しかないのだとのことである。そのわずか1パーセントの塩基配列の違いが、多彩な人物像を作り上げているのである。DNA鑑定も、このわずか1パーセントの部分(人によって多数の塩基配列の型が存在するという意味だと思うが、「多型」という言い方をする)を拾い出して鑑定をする。
 特徴的な多型部分は、塩基配列がたとえば「AGAGAG……」のように2塩基もしくは数塩基が反復となっている部分にあるという。この反復の回数、別の言い方をすれば反復部分のDNAの長さが、人によって違う部分があるのだそうである。その長さを測る。これが現在行われているDNA鑑定の方法らしい。
 ただ、長さをはかると言っても、非常に微細な話であり、顕微鏡で「AGAGAG……」の繰り返しの数を目で見ることができるわけではないし、物差しをあてがって測れるわけでもない。

 DNAは電気的にややマイナスに帯電しているらしい。そのため、反復配列の多型の長さを調べるのに電極を利用する。反復配列部分を切りだし、そのDNA断片を増幅して数を増やす。そして、寒天のような多孔性のゲルというものに電極を設置した装置の、負極付近のゲルに窪みを設け、その窪みに増幅したDNA断片を入れる。そして電気を通すのだそうである。そうすると、マイナスに電荷しているDNA断片はゲルの中を少しずつ時間をかけて通過して正極の方に移動するのだそうである。ただ、DNA断片が長ければ長いほどゲルの抵抗を受けやすく、同じ時間内での移動距離が短くなる。このようにして、移動距離によってDNAの長さの違いが測れるのだそうである。
 人の染色体は23対あり、必ず染色体は対で存在するので、おなじDNAの多型部分を2つの染色体で測定できる。そのため、1か所の多型部分から2つの測定が可能である。

 現在のDNA鑑定は、STR法という言い方をしているが、この測定をいくつかの染色体に存在するDNAの反復配列の多型部分で実施するようである。そのため、鑑定の対象となる2つの検体(細胞)の測定結果がすべて一致すれば、非常に高い確率で同一人物の検体(細胞)ということができるらしい。
 しかし、以上のようにDNA鑑定は塩基配列一つ一つがすべて一致するか否かという鑑定方法を採用するわけではないので(塩基配列の違いの有無そのものを直接調べようとすると、分子一つ一つを直接のぞき込むのと同じことになるので、おそらく膨大な労力・時間・費用がかかり、限りなく不可能というに近いのだと思う。)、鑑定結果はどれほど高い確率であっても、確率論以上のものにはならないし、鑑定技術がヘタだとその制度も狂うはずである。