(よし! 今日は気合入れて歩くぞ、写真は撮らんとこ!)
なのにカメラはポシェットに入っているし。 日々の流れで、手が勝手に入れたと見える。
少しづつ木々の葉色が変化しているのが分かる。 葉の色づき・・・秋色だ。
1周5分。 早足で歩く。 膝が悪いなりに気の精か、地面への抵抗力がなんとなくしっかりしてきたようなそんな気がしている。
これは嬉しい。 歩けない日もあるが、チャレンジ記録表へ記帳と言う義務感のお陰で気持ちを奮い立たせることが出来る。
おじいちゃんおばあちゃんの仲間同士が公園のぐるりで会うと、「おう」とか言いながら立ち止まってしばし語らう。
家に帰れば1人かも知れない人、夫婦でも会話の少ない人もいるであろう。
朝の新鮮な空気、声を出すということはいいことだ。 私のように黙って歩いているよりはずっといい。
そんな人々の様子を微笑ましく眺めることが出来るのも、ウォーキングの楽しみである。
反対周りの人と出会うと、その人はどんな人なんだろう、家族は? 家庭は? とか一瞬思ったりすることがある。
NHK朝の連ドラ、”純と愛”の愛くんのように内面は見えないが。
いつも6時半に体操をしている人たちの輪。 誰かは分からないが、1人おばさんが大きな声で号令をかけて体操をしている。
イチ・ニィ・サン・シ・・ゴウ・ロク・シチ・ハチ・・ 結構かなきり的な声は、公園に響き渡っている。
ウォーキングでなく毎日体操。 終わったら解散。 家へ帰る人あり、カフェでモーニングするひともあるだろうか。
最近思う、せっかく朝の早くから出てきているんだもの、みんなが声を出したらもっといいのに、と余計なことを思うようになった。
号令をかける人、1人がやり得である。
それぞれ声を出したら絶対気持ち違うのになぁ・・、家に帰って家族に接する気持ち違うのではないだろうか。
365日(では無いかも知れないが)継続の力はかなり大きいのに。 ほんとおせっかいなこと思っている。
公園の周囲を歩く人たち。
「おはよう~」とか、「おひさしぶり~」「げんきやった?」等々、3人対4人のグループの人たちが立ち止まりめいめいに話はじめた。
「おばちゃん、おなかひっこんだやん」 「ほんまや、すごいなぁ」 「頑張ってるもんね」
「そうやろ、先生がな、歩かんと歩けんようになるで~歩きやいっつも言うねん、歩いてたら体重減ったわ」 「そうやろ、うちらも頑張ろう」
話の主人公は70を過ぎていると思われるおばちゃん。
(ん? 聞き捨てならないぞ! いいね、いいね~) 生の体験談は貴重だ。
まだまだ敢えて行う事さえ、身についていない私には、大きな励みの会話である。
今朝、グリーンヒルズを歩くのをやめて、公園に切り替えたのは、この会話に出会うためだったのかな?
足取りが心もち軽くなったのは、気の精か。
顔の表情がゆるんでいるのは間違いない。 そのあとの私は。 ポシェットのカメラは4回ほど出動した。