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05/ラ・ボエーム ミミ・フィオレンツァ・チェドリンス

2005-07-19 | 新国立オペラ・・
ラ・ボエーム 19日 評論・岡部氏
名作は繰り返し読み解かれるに堪える強さを有する。 その強さは屹立し、自律的な世界を形成して、無用の注釈を断固拒絶する。
粟国淳の新演出の初日を観た
粟国は、いたずらに奇を衒うことなく、極めてオーソドックスに、そつなく舞台を組み立てる、いささか紋切り型とは言え、手際よくステージをまとめて行く手腕は、彼の現場での豊富な経験を物語るものだ。
大道具を巧みに動かして鮮やかに場面転換を行う第二幕。しんしんと雪の降り積む第三幕も美しい。
ただ、そこから、何が見えてくるのだろう。・・それ以上でもそれ以下でもない、シンプルな姿のまま、だからこそ輝くのだ。
第二幕の幕切れなどをはじめ、説明的に過ぎて、屋上屋を架すものとの印象の拭えない場面が散見された点はことに氣になる。
何より、ある意味ではこのオペラそのものにも通じるはずの若々しい冒険や夢は、ステージからは立ち上ってこない。演出家の確たる個性が感じられないのは、何より残念だった。
粟国には、焦らず、じっくりと、豊かなバックグラウンドを生かす自らの道を見い出さんことを期待したい。
 キャストでは、何と言っても、ミミのソプラノ、フィオレンツァ・チェドリンスの品格と奥行きが、印象的。一貫してステージに華をもたらした。
彼女と堂々と渡り合った堀内康雄のたおやかなマルチェッロ、中嶋彰子の存在感に満ちたムゼッタの健闘も特筆に値しよう。一方、ポルティーヤのロドルフォは、潤いがなく、一本調子で魅力に欠けた。ピロッリの指揮は、東京フィル・・合唱団を手堅くまとめていた。

2003年04月30日 16時29分04秒
新国立・ラ・ボエーム  29日 4F2-18
ミミ・フィオレンツァ・チェドリンス
ロドフォ・アルフレード・ポルティーヤ
ムゼッタ・中嶋彰子
ショナール・アレッサンドロ・バッティアート   コッリーネ・矢田部一弘
指揮・アントニオ・ピロッリ オケ・東フィル   演出・粟国 淳

指揮者とオケが 俄然 素晴らしい演奏を聴かせた・・・一幕やや早いリズム感と聴かせ所の歌心が絶品であった・・・
メリハリと ミミとロドルフォの二重唱が 何とも優美、官能的な主題 弱音の愛の旋律が・・・・スカラの響が と・・・想わせる・・超白眉であった・・・
東フィルの感性豊かなアンサンブルで ブラヴァーである

ミミに病が潜む・・演技・演出を感じないので・・・最後の・・暗示的な死が・・
二幕・・・演出が舞台の動き 人物の動きとう平面的で 奥行きを 生かしきれない 特に子供 と 行進の場面に 華やかさがなく・・ムゼッタの人物像・快活さ・・ ミミの対比が 浮ばない・・・
三幕・・雪が深々と降る 冬のまま・・愛が・・春が・・・・
この二重唱が聴かせどころで
フレーニを 超えた歌唱がチェドリンスに感じた・・ボルティーアの甘い声で・・バランスある重唱となる・・・此処で二組の愛の形を提示するが・・・

演出がムゼッタとマルチェッロ と ミミとロドルフォを 舞台上で同等の役割を 果たす事が 疑問と・・脇としてムゼッタ・マルチェッロを 歌わす方が・・四重唱ではなく・・バランスに欠ける・・・・

四幕のミミが 身体が弱り・・ミミが起き上り立ち姿でロドルフォと重唱が あり・・死が近いのに????登場人物の動きに 疑問符が
ミミとムゼッタの対比が浮ばない・・・全体に陰陽のコントラストが乏しいので 劇的な感動を受けない・・・総合芸術で演出の重要性が大切と

今回は 指揮者とオケ チェドリンスに大ブラボー である

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