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11日 広隆寺・・びわ湖 風景と

2010-10-16 | ご近所 ・花 ・旅 写真
 びわ湖ホールでオペラ観て・・初めてのびわ湖は広いですね、爽やかな風が氣持ちよかった・・
 
 翌日当初の目的・・弥勒菩薩に会いに、正面に鎮座する微笑は、恋焦がれた
人に会う想いが・・目に前に、畳2畳ほど、靴を脱いで対面出来るようになっていて
 瞑想したり 心の 対話を・・楽しみました

  オペラ休憩時に外へ・・


  廣隆寺 散策・・
 
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 『聖徳太子伝暦』には太子の楓野別宮(かえでのべつぐう)を寺にしたとする別伝を載せる。推古天皇12年(604年)、聖徳太子はある夜の夢に楓の林に囲まれた霊地を見た。そこには大きな桂の枯木があり、そこに五百の羅漢が集まって読経していたという。太子が秦河勝にこのことを語ったところ、河勝はその霊地は自分の所領の葛野(かどの)であると言う。河勝の案内で太子が葛野へ行ってみると、夢に見たような桂の枯木があり、そこに無数の蜂が集まって、その立てる音が太子の耳には尊い説法と聞こえた。太子はここに楓野別宮を営み、河勝に命じて一寺を建てさせたという。この説話は寺内の桂宮院(けいきゅういん、後述)の由来と関連して取り上げられる。 弥勒菩薩像の由来 広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝冠弥勒像は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いものである。一方の宝髻弥勒像は飛鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材である。 前述のとおり、『書紀』に推古天皇11年(603年)、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されているが、『書紀』には「尊仏像」とあるのみで「弥勒」とは記されておらず、この「尊仏像」が上記2体の弥勒菩薩像のいずれかに当たるという確証はない。 このほか、後の記録であるが、『広隆寺来由記』(明応8年・1499年成立)には推古天皇24年(616年)、坐高二尺の金銅救世観音像が新羅からもたらされ、当寺に納められたという記録がある。また、『書紀』には、推古天皇31年(623年、岩崎本では推古天皇30年とする)、新羅と任那の使いが来日し、将来した仏像を葛野秦寺(かどののはたでら)に安置したという記事があり、これらの仏像が上記2体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説がある[2]。なお、広隆寺の本尊は平安遷都前後を境に弥勒菩薩から薬師如来に代わっており
・・・ 続き・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA
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 琵琶湖が形成された時期は、約400万年~600万年前で、現在の三重県伊賀市平田に地殻変動によってできた構造湖であった(大山田湖)。このため伊賀地方は土質が農業に不適で、生計を立てるための特殊技能集団がやがて忍者を発生させた。湖は次第に北へ移動し、比良山系によって止められる形で現在の琵琶湖の位置に至ったという。大山田湖以前、現在の琵琶湖の位置には山(古琵琶湖山脈)があり、鈴鹿山脈は未だ隆起せず、今日の琵琶湖東南部の河川は伊勢湾へ流れていた。それを裏付けるように、鈴鹿山脈の主要な地質は礫岩である。また、琵琶湖に流入する最大の川で、東南に位置する野洲川は、当時西方ではなく、東方へ流れていたという。なお、琵琶湖は世界の湖の中でも、バイカル湖やタンガニーカ湖に次いで成立が古い古代湖であると目されている。
 びわ湖の歴史・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96