道彦の散歩道

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毎日の事件事故の記録

5/21 大相撲

2012年05月21日 | スポーツ

昨日、平幕の旭天鵬の優勝で閉幕した大相撲夏場所。

1人の横綱と6人の大関。だが、優勝したのは平幕同士の優勝決定戦の結果、旭天鵬の優勝であった。

旭天鵬が20年間努力して優勝したことに文句を付けようとは思わない。が、7人の横綱・大関の体たらくは何だったのか。7人で一番の成績は10勝4敗で優勝決定戦にも進出していない。優勝に絡めず8勝、9勝の大関では存在価値は皆無である。

特に、琴欧洲の突然の休場は、熱戦を期待して来場した観客に冷や水を浴びせた。大関の責任をどのように認識しているのか。外国人の割り切った考えなのか。後半戦盛り上り、満員御礼を連発した相撲人気が再び下落する発端になりかねない。大関としての力量が無ければ1場所でも負け越したなら、下に落とせという声に頷ける今日この頃である。

たくさん給料をもらっている人が、それに見合う仕事が出来なければ身を引くのは、世の中の常識なのでは。日本人横綱を期待して大関を大量生産した相撲協会にも責任の一端があると思うのであるが。

相撲ファンの1人として一言言わせてもらった。


5/21 子供と子ども

2012年05月21日 | 日記

最近の新聞、雑誌などで気になっているいることが、「子供」と「子ども」の表記である。

実は驚きであるが、「子供」という言葉が「差別用語」として、出版業界、教育現場などで追放処分を受けている。その代わりに「子ども」と、「供」を平仮名に直した表記ばかりが目につくようになっている。

何時の頃からこの言い換えが始まったのだろう。一説には、昭和2,30年代頃といわれている。『供』という字は『お供』の『供』で、親の付属物の扱いで適当ではないとの意見が出始めてから良くないとなったらしい。

明治22年初版の「言海」という国語辞典で「こども」を引くと、「子供」とは「多くの子」が元々の意味らしい。つまり「男供」が「男」に「供」をつけて複数の男を表すのと同じで、「子」に「供」を付けて複数の子を表す「コドモ」になったのである。

つまり、「コドモ」の「ドモ」とは、元々は複数形を表す「ドモ」であり、後に「供」の字が充てられたというのが、この言葉の語源である。なぜ「供」が充てられたかははっきり解明されていない。しかし、「親のお供という意味で供の字を充てられた」という証拠は、今のところ出てきていない。証拠もないのに日本語の重要単語が消えようとしている。

正しい意味を知らずに言葉の表記を変えることはあってはならないと思う。「お供」とはある人に付き従って行く人の意味である。子供は何時から親に従わなくてもよくなったのだろう。子供が「子供」でなくなった時、それは「子ども」が親の指導に付き従わず、「人権」の名の下に勝手気ままな行動をして問題を起こす時代である。それがまさに現代社会なのである。

「子供」→「子ども」→「こども」、このようにならないことを祈る。さらに、最近は「漢字」→「平仮名」表記が多くなっている。このままでは日本の漢字文化が衰退の一途である。教育関係者、報道関係者の一考をお願いしたい。