貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

柿の木のある家も古りての句!

2021-09-25 11:20:11 | 日記
令和3年9月25日(土)
里ふりて 
  柿の木もたぬ 
      家もなし
  古い歴史をもつこの里は、どの家も
豊かに実った柿の木を持っている、
の意。
 元禄七年(1694)の作。
 「ふりて」・・・古りて
 『蕉翁全伝』によれば、伊賀の望翠亭で、
八月七日に催された夜会で詠まれ、
これを立句に歌仙が巻かれたという。
 落ち着いた土地柄を賞する挨拶吟で、
故郷の美点を再認識した恰好である。
◎ 故郷の人々は、白髪に杖で、老化して
いたが、家の経済は豊かなようで、
皆立派な柿の木を家の前に備えていた。
 柿の出来具合もよろしいけれども、
豊かな生活が、無常を示している。
 せっかく金持ちになっても、死は
確実に近づいているのだから。
 この句は、発句として作られた挨拶句
であって、芭蕉の心の底にある真実の
淋しい人生観までは人々に通じなかった
であろう。


あゝ無常!皆杖に白髪!!

2021-09-24 10:28:50 | 日記
令和3年9月24日(金)
家はみな 
  杖にしら髪の 
        墓参
前書き「甲戌(かふじゆつ)の夏、大津に
侍しを、このかみのもとより消息せら
れければ、旧里(ふるさと)に帰りて
盆会をいとなむとて」。
 この家に縁のある者はみな年をとり、
杖に白髪頭の墓参という次第だ、
の意。
 「甲戌」・・・元禄七年(1694)の干支。
「このかみの」・・・兄の半左衛門から手紙
があり、帰郷して盂蘭盆会に列したことを
いう。
 一族が集まるお盆の行事に、自分や一同の
老いを改めて実感したもので、
『陸奥(むつ)鵆(ちどり)』等の上・中
「一家みな白髪に秋や」が初案
 『和漢文操』所収「白髪ノ吟并序」に
見える俳諧歌
「一家みな杖にしら髪の墓まいりまいる
こゝろのかたみながらに」
は、支考の創作とされる。
◎ 兄の手配で、故郷の墓の法会に出た
芭蕉は、若い時から顔見知りの親戚の人
たちが、白髪に杖の老人になっているので、
無常の感慨が心に迫ってきた。
 今昔の感に堪えなかったのである。
 しかも、かつての愛人寿貞の死を悲しむ
身には、この親戚たちの老化の有様は、
自分自身のこととして、さらに深い人生
無常の感を覚えたのだった。


寿貞の死を悼、そして自らも後追うように・・・!

2021-09-23 10:16:57 | 日記
令和3年9月23日(木)
 寿貞は尼になり、ひっそりと暮らしていたが、
元禄七年(1694)六月二日頃に急死した。
 芭蕉庵で息絶えたのだ。
 そして、芭蕉も同年十月十二日に息絶える。
数ならぬ 
  身となおもひそ 
       玉祭り
 前書き「尼寿貞がみまかりけるときゝて」
 取るに足らぬ身であったなどと思うなよ。
今日の魂祭りに冥福を祈ることである、
の意。
 元禄七年(1694)の作。
 「寿貞」・・・同年五月末頃に死去した女性。
 芭蕉との関係には、諸説あり。実態は不明。
「数ならぬ身」・・・ものの数にも入らぬ
      つまらない身の上。
 六月八日は猪兵衛宛書簡に
「寿貞無仕合せもの・・・とかく難申尽候
 一言理くつは無是候」とあり、
芭蕉がその死に深い感慨を抱いている
ことは確実。一句捧げる。
 松尾家の盆会に連なりつつ、不遇であった
寿貞の成仏をも内心に祈ったと考えられる。
 一方、心を強くもって、魂祭りするよう、
寿貞の父に対して呼びかけたと解する説
もある。
◎ この一句は、尼寿貞に話しかけるような
体裁をもって詠まれている。
 自分のことを物の数にも入れないと、
塵芥のような人間だと卑下する必要はない
のだよ。
 芭蕉は、弟子たちには、この女性のいる
ことを一切黙っていた。
 元禄七年(1694)七月十五日の盆会が近づいた。
 芭蕉は寿貞の死の知らせを受けて、
故郷の伊賀上野で兄が法会を開いたときに、
寿貞の死を悲しみながら、故郷の魂祭り会に
出席。
 しかし、それは松尾家の営みであって、
寿貞とは関係のないことで、位牌はなかった。
 芭蕉は仏前で祈りながら寿貞の霊に対して
深く悲しんだのである。


艶男と宗匠の葛藤?

2021-09-22 10:29:50 | 日記
令和3年9月22日(水)
 『三冊子』では、字余りの句として引かれる。
蕣(あさがほ)や 
   昼は錠おろす 
       門の垣
◎ しかし、朝顔も芭蕉の言うように、
朝だけ門を開き、昼は閉めてしまうよう
に動いてくれず、困った芭蕉は仮病を
使って妾の寿貞を遠ざけようとした。
 艶男の弱いところである。
 しかし、だんだん話してみると、
寿貞も病身で生活に困っているところ
があり、気の毒な状態だと分かる。
 次第に、同情心が起こってくるところ、
芭蕉の善良な生活態度がそうさせるの
だった。
 ただ弟子にこの妾のことを知られると
困るので、関西の故郷のほうに
自分は退避し、庵を寿貞に自由に使わせる
ことにした。
 若いとき、芭蕉は寿貞と知り合った。
 親しく付き合っていたが、芭蕉が俳諧師
として抜きん出た地位にのぼるにつれて、
彼女は自分はものの数にも入らない、
つまらない人間だと卑下するようになっ
てきた。
 その寿貞を慰めて、芭蕉はいろいろと
世話をしてやっていた。
 寿貞との関係も紐解くと面白く謎も多いが・・・。

人に飽きて・・・閉関之句

2021-09-21 12:13:47 | 日記
令和3年9月21日(火)
 蕣(あさがほ)や 
    昼は錠おろす 
         門の垣
 昼は錠を下ろす門の垣根に朝顔が咲いて、
人と会わない私を慰めてくれる、
の意。
 元禄六年(1693)の作。
 前書き「閉関の比(ころ)」。
「閉関」・・・門を閉じて来客を断つこと。
 芭蕉は、七月半ばから約一ヶ月間の閉関を断行し、
俳文「閉関之説」(芭蕉庵小文庫)では、
人の煩悩のやみがたいことを述べ、
「人来れば無用の弁有。
 出ては他の家業をさまたぐるもうし。
・・・五十年の頑夫自書。自禁戒となす」
と結んで、この句を提出。
 真蹟自画賛に、
「元禄癸(き)酉(ゆう) の秋、人に倦で閉関ス」
の前書き。
 甚暑に体長を崩した上、様々な人間関係に
疲弊していたらしい。が、それすら芭蕉の
文芸には一つの糧となるものであった。
『三冊子』では、字余りの句として引かれる。
つづく。