貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

中央区: 八丁堀:亀島橋銀座の柳四世と伊能忠敬そして芭蕉!

2024-04-30 10:19:55 | 日記
令和6年4月30日(火)
中央区: 八丁堀:亀島橋      
 築地本願寺より徒歩で
八丁堀へ。 
 目的地は亀島橋。
<亀島橋>

 東西南北の方位は、全く不明。
もはや、グーグルマップに
依存するのみ。
 しかし、東へ行けと指示。
方位が全く不明瞭なのに、
これも又不親切。
 やはり人に聞くのが一番?
 唯々、歩いて方向を探ること
にする。
 そのおかげか?
 八百屋の安売り店の景気のよさ
に遭遇。
 「迷ってるとすぐなくなるよ。」
と、女性客に声かけする店員さん。
 きんかん250円、
野菜が本当に安い!
 あっという間になくなっちゃう
ような繁盛振り。
 築地のおもしろさだ。
 しっかり歩いて新亀島橋に到着。
 「ちがう、違う」と、
亀島橋を探すと、
そのちょっと前に通り過ぎた所。
<亀島橋と銀座の柳四世>

 これも又楽しからずや。
 移住者の功績を記す説明板もあり。
 東洲斎写楽と伊能忠敬さん。
<功績者の説明板>

 芭蕉の句碑もすぐ見つかる。
<芭蕉句碑>

「菊の花    
   咲くや石屋の   
     石の間(あひ)」 
          元禄6年。   
 当時中央区は、石屋が多かった。
  荒川水系の亀島川は、
本当に整備、整美されてい た。
<きれいな亀島川>

 清流に近し。


中央区築地本願寺②重要文化財の本堂と大いなる銀杏と・・・!

2024-04-29 10:18:56 | 日記
令和6年4月29日(月)
中央区築地本願寺②
 堂内に入ると、
30数名の方が参拝し、
法要を待つのか、
説話を待つのか
席に着いておられる。

 皆無言。
 静寂は、荘厳さを道連れに。
 そして、私の穢れ、
疲れた魂をも洗ってくれるよう。
 大都会には、
こういう所が必ずある。
 予期せぬひとつの楽しみ。 

 築地本願寺は
江戸時代の1617年に、
西本願寺の別院として
浅草御門南の横山町
(現在の日本橋横山町、東日本橋)
に建立。
 「江戸海岸御坊」「浜町御坊」
と呼ばれる。
 しかし
明暦の大火(振袖火事)により
本堂を焼失。
 その後、
江戸幕府による区画整理のため
旧地への再建が許されず、
その代替地として
八丁堀沖の海上が下付される。
 そこで、
佃島(現:中央区佃)の門徒が
中心となり、本堂再建のために
海を埋め立てて土地を築き
(この埋め立て工事が地名築地の由来)、
1679年に再建。
 「築地御坊」と呼ばれるようになる。


 なお、
この時の本堂は
西南(現在の築地市場)を向いて
建てられ、場外市場のあたりが
門前町となっている。
 1923年9月1日の
関東大震災では、
地震による倒壊は免れたが、
直後の火災により再び伽藍を焼失。

 現在の本堂は
1934年の竣工。
 古代インド様式をモチーフとした
この建物は、
当時の浄土真宗本願寺派法主・
大谷光瑞と親交のあった
東京帝国大学工学部名誉教授・
伊東忠太による設計。
 当時の宗教施設としては
珍しい鉄筋コンクリート造。
 大理石彫刻がふんだんに用いられ、
そのスタイルは現在においても
斬新かつ荘厳で、
築地の街の代表的な顔となる。
 本堂は重要文化財に指定される。

 境内には、九條武子の歌碑 
<九條武子の歌碑>

 「おおいなる 
  もののちからに 
      ひかれゆく 
 わがあしあとの 
    おぼつかなしや」
が築地本願寺を形容している。



中央区: 築地本願寺 ①親鸞と芭蕉!

2024-04-28 10:04:35 | 日記
令和6年4月28日(日)
蕉道: 東京句碑探索記
中央区: 築地本願寺 ①      
 三越日本橋店に用ができ、
先ず中央区の芭蕉句碑を
尋ね歩くことにする。
 朝6時20分に家を出発。
 電車に乗る。
 40年前の暮れには、
知人が築地で働き、
正月の用品の買い出しに
行った処。
 東西線の日本橋で、
東京メトロ日比谷線に乗り換え、
築地で降りる。
 懐かしさもあるが、
築地本願寺が目的である。
 駅の傍。
<築地本願寺>

 6時開門で、
門衛さんも3人ほど見える。
 挨拶をして銀杏で包まれた
広い前庭をぐるっと回る。  
<阿吽像>

    
 芭蕉句碑は、
親鸞上人立像の端っこにある。
<親鸞聖人像>

 説明板もないので、
見落としてしまうほど。
<芭蕉句碑>

 句は、
「春もやゝ 
   気色とゝのふ 
     月と梅」。    
 ゆったりとした静寂の中で、
句を楽しむ。
 「黄金色 
    銀杏の脚に 
        苔むして」 
           貢人
~つづく。



潮来市: 長勝寺 芭蕉 時雨塚と連句碑!

2024-04-27 10:42:57 | 日記
令和6年4月27日(土)
潮来市: 長勝寺        
 私の芭蕉道の一回目
最終の訪問寺となる。
 名前も長じて勝るという
偶然の幸運に恵まれる?
<本堂>

 本堂は
巨木の間から拝顔という珍しさ。
 奥に旧本堂らしき建物もあり。
 文治元年(1189)に
源頼朝によって創建される。
 江戸時代に徳川光圀が
諸堂宇を修復し、
大獄祖清和尚に住持させる。
<旧本堂>

 広い境内には、
源頼朝創建の年号に因む
文治(ぶんじ)梅(ばい)
と呼ばれる古木がある。 
<文治梅>
      
 また、
時雨塚と鹿島紀行で
<時雨塚と説明>
<芭蕉句碑>

地元の自準亭(じじゆんてい)
松江(しようこう)との交流を
示す連句の碑がある。
<連句碑>

 時雨塚の芭蕉の句は、    
「旅人と 
  我が名よばれむ          
    初しぐれ」。                                        鹿島紀行で地元の自準亭松江
との交流を示す連句の碑は、
桃青と曾良の二首が
刻まれている。 
 潮来、自準亭の松江の句は、
 「塒(ねぐら)せよ 
    わらほす宿の 
          友雀」         
     《松江 潮来、自準亭》
 桃青(芭蕉)の句は、
「あきをこ免(め)たる 
   く年(ね)の指杉」
 曾良の句は、
「月見んと 
   汐引のほる 
     船とめて」 



鹿島市: 根本(こんぽん)寺 月見れず芭蕉の句!

2024-04-26 10:06:04 | 日記
令和6年4月26日(金)
鹿島市: 根本(こんぽん)寺      
 仏頂和尚は
この根本寺と深川の臨川寺を
往来していた。
<根本寺本堂>

 芭蕉が禅の修行をしたり、
いろいろ教えを乞うたりした
仏頂和尚は、
相当の魅力ある人物のよう。
 仏頂面ではなさそうだ。         
 鹿島神社との訴訟で
勝訴するということからも   
 理解できる。
 九年間に及ぶ勝訴で、
その後は隠居の身となられる。 
<芭蕉句碑>
 
 芭蕉句碑の句は、       
「寺に寝て 
  まことの顔なる
     月見哉」
。  
 しかし、
月を愛でる幸運には恵まれず。
 「鹿島詣」には、
「あかつきのそら、
いさゝかはれけるを、
和尚起し驚し侍れば、
人々 起出ぬ。
月のひかり、雨の音、
た ゞあはれなる
けしきのみむねにみちて、
いふべきことの葉もなし。」
と結んでいる。
 芭蕉の一つの特長として、
富士山では霧時雨のため、
山を見なかったことを詠み、
松島では、
句を詠むことは曾良に任せたり、
そして
今回も月を愛でることに恵まれず
句を詠む。
 これも又無常・無情かな?
 たとえ見られたとしても、
芭蕉は深く感動すると
句を詠む気力を消失してしまうのか、
束の間の自然美に
言語を絶するのか? 
 句は、詠まれたかは謎。
 見られぬ無念さを歌に託す。
 そういうこともまた
芭蕉ならではの才覚か。
これまた一興!