貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

岡崎市: 安 心 院 義経と浄瑠璃姫の悲恋と芭蕉の句!

2023-09-30 15:32:02 | 日記
令和5年9月30日(土)
 今日は私の誕生日!
お祝いのメッセージをFB
友からいただく。
 息子一家も青梅に遊びに来て
祝ってくれる。
 喜寿も無事通過、さらに老いとの
駆け比べ!
 可能な限り愉しんで行こう!
 皆々様、これからもよろしく!
岡崎市: 安 心 院                 
 この安心院は、
牛若丸(源義経)と兼高長者の娘、
浄瑠璃姫の、
美しくも悲しい恋物語が
眠る場所。
 承安4年(1177)、牛若丸は、
奥州平泉の藤原秀衡を頼って
旅を続ける途中、
矢作の里を訪れ兼高長者の家
に宿をとる。
 ある日、
ふと静かに聞こえてきた
浄瑠璃姫の琴の音色にひかれた
義経が、持っていた笛で
吹き合わせたことから、
二人の間に愛が芽生える。  
 しかし、
義経は奥州へ旅立たねばならず、
矢作を去る。
 姫の義経を想う心は
日毎に募るばかり。
 とうとう菅生川に身を投じて
短い人生を終えてしまう。
 当院の創建は1182〜3年、
源義経が浄瑠璃姫の菩提を
弔うために創建したのが始まり。
<本殿>

 当初は七堂伽藍が立ち並ぶ大寺。  
 度重なる兵火で衰退し、
今では十一面観音菩薩像を安置
する草庵と変わり果てている。
 境内には1793年に、
岡崎藩主本多忠顕が人丸神社から
取り寄せた芭蕉句碑がある。
<芭蕉句碑>

句は、
 「都出て 
   神も旅寝の 
     日数哉」
 六所神社はの近く。
 交通週間中で、
吃驚するほどの人数の方々が、
警察の方と一緒に子どもたちを
事故から守るために、
きめ細かく配置され、
万全の対策をとられているよう。
 道も混雑。
 十王堂へ急ぐことにする。



岡崎市: 岡崎城趾の芭蕉句碑と川柳句碑!

2023-09-29 10:51:43 | 日記
令和5年9月29日(金)
 今宵は、中秋の名月、しかも
ばっちり望月の月!
 芭蕉だったらどこまで足をのばし、
この名月を愉しむのかな?
 満月と中秋の名月とがマッチするのは
この後七年後とのこと。
 今晩少しでも名月を愉しむことが
できますように・・・・!
岡崎市: 岡崎城趾                 
 岡崎城は、三河国岡崎の城。
 徳川家康の生地である。
<家康幼少時竹千代と家康公の座像>

 別名、龍城。
<名城岡崎城>

  戦国時代から安土桃山時代には
松平氏の持ち城、
江戸時代には岡崎藩の藩庁となる。
 昭和34年(1959)に天守が復興。
 2006年には日本百名城に
選定される。
 城内は各階ごとにテーマを分けた
歴史資料館になっており、
展示物やジオラマシアターなどで
岡崎城の歴史を紹介している。
 今回のメインは、
龍城(たつき)神社社務所横にある
芭蕉句碑。
 龍城神社は、
岡崎城の隣に鎮座する神社。
<龍城神社>

 家康公生誕の朝、
城楼上に雲を呼び風を招く
金の龍が現れ、昇天したという
伝説が残るパワースポット。
 龍の井は、
龍神が現れ、井戸の水が噴出し龍神に
注いだと伝えられ、
出世、開運、安産、厄除けのご加護あり。
<芭蕉句碑>

 芭蕉句碑の句は、
「木乃もとに 
   汁も鱠も
     左久良哉」 

 この句は元禄3年(1690)、
「奥の細道」の旅を終え、
故郷の伊賀上野で
歌仙を巻いた時の発句。
 おそらく桜の縁で
この場所に句碑が建てられた
のだろう。
<芭蕉の句の説明>

 三日月を穿った珍しい句碑も
近くにある。
 調べると、
岡崎川柳の生みの親であり、
 昭和を代表する川柳作家の
川上三太郎さんの句碑。
<川上三太郎の川柳碑>

句は、
「子どもは 
   天の子 
     風の子 
       地の子」
 「平成12年、丁度二千年の時に、
岡崎川柳研究社が、
ゆかりの地此処に再建する。」
と記されている。




岡崎市: 春 谷 寺 木槿も寺もあっという間に!

2023-09-28 09:57:31 | 日記
令和5年9月28日(木)
岡崎市: 春 谷 寺              
 お寺として、
活動している感じはしない。
<三石碑>

 三石碑のうち一つが
芭蕉句碑。
<芭蕉句碑>

 句は、
「みちの辺の 
  木槿ハ 
   馬に喰はれけり」 
         はせを
である。
 高度少子高齢社会に突入する
につれ、寺社の経営、存続も
難しくなってきている感じは
否めない。
 檀家も少なくなっている
実情もある。
 この寺もそのあおりを
受けたのだろう?



岡崎市: 西 光 寺古戦場「井田野」と岡崎市内最古の芭蕉句碑夏草塚!

2023-09-27 10:49:17 | 日記
令和5年9月27日(水)
岡崎市: 西 光 寺                
 西光寺は、
開創以来500年以上の
歴史を持つ真宗大谷派の寺。
 応仁2年(1468)、
本願寺8代蓮如上人が
三河に滞在、布教する。
 その折、
針崎の勝(しよう)鬘(まん)寺は、
真宗高田派から本願寺派に転派。
<本殿>

 その後、信心深い勝鬘寺門徒某に
蓮如上人筆と伝えられる「名号」が、
勝鬘寺を通して下付される。
「名号」を授けられた門徒某は
井ノ口村に一宇を建て、
井ノ口道場を開き、布教に努める。
 50年後の文亀3年(1503)、
井ノ口道場の地に西光寺が創建される。
 その後、三河一揆等により廃寺。
 後にまた再開という戦国時代の荒波
を受けている。
 「井田野古戦場」の説明板に
明記されている。
<古戦場の説明>

 1467年松平4代親忠と、
寺辺、伊保、八草、挙母、上野の土豪軍が、
この辺りで激しい戦いをする。
 勝った親忠は、
戦死者を敵味方の区別なく葬って
塚を築く。
 それが「千人塚」。   
 また、家康が桶狭間の戦い後、
大樹寺に逃げ込んだ際、
追手の織田方と戦って倒れた
多くの僧を葬った「大衆塚」もある。
 井田野は、その後3度も激しい戦場
となっている。
<夏草塚>

「夏草や 
  兵どもが 
   ゆめの跡」
という句が、
句碑に刻まれている。
<芭蕉句碑>

 この句は、
芭蕉が元禄2年(1689) 、
平泉で夏草の茂る中に、
戦いに消えた兵士を偲んで
作ったもの。

 ここ、井田野も、
また、戦国時代多くの兵士が
戦った古戦場である。
 寛保3年(1743)10月芭
蕉が亡くなって50回忌に、
菊里亭座明を中心とする当時の
岡崎連中が、この地に相応しい
「夏草の句碑」
を建立。
 その時『ゆめのあと』
という句集1巻を残している。
<芭蕉句碑の説明>

 この「夏草塚」は
、岡崎市内の芭蕉句碑8基中、
最古のもの。


岡崎市熊野神社源氏物語に枕草子を引用して不可解な芭蕉の句!

2023-09-26 10:54:49 | 日記
令和5年9月26日(火)
岡崎市: 熊 野 神 社    
<鳥居>
      
  岡崎市には、
熊野神社は4つある。
<社殿>

 本殿右に3碑あり。
<三つの碑>

 奥殿神屋の傍。
 後方の小さい碑が
芭蕉句碑。
<芭蕉句碑>

 芭蕉の句は、
「曙や 
  また朔日に 
    ほととぎす」           
         はせを
「曙は 
   まだ紫に 
      ほととぎす」
「曙」は言うまでもなく、
清少納言の『枕草子』の
「春は曙。
 やうやう白くなりゆく
山ぎは少しあかりて、
 紫だちたる雲の、
 細くたなびきたる。」
から採ったもの。
 元禄3年4月1日。
 石山寺で紫式部が
『源氏物語』を執筆したと
いわれている「源氏の間」を
拝観。
 源氏の間を見ていると、
まだ春の陽気が残っているものの、
ちょうどホトトギスの声が
聴かれて夏の到来を感ずる、
というのである。
 『源氏物語』ではなく
『枕草子』を引用していたり、
季節の記述が錯綜していたりして
不明瞭な句
ともいわれている。