貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

秋風の中 毬の青さに・・・

2021-07-31 11:57:56 | 日記

秋風の中 毬の青さに

令和3年7月31日(土)

 今日から、「秋の句」。

秋風の 

  吹けども青し 

     栗のいが

  秋風が吹いても、栗のいがは

割れる気配もなく、青々しいままだ、

の意。

 元禄四年(1691)の作。

 ◎ 秋風が吹き始めると、

栗の毬は茶色に変わっていくが、

今年は秋風寒く、かなり本格的な

秋の気候になったと実感されるのに、

栗の毬は青いままである。

 この句は、何時までも青い毬に

不思議に思って句にしたというのが

師匠の解釈である。

 さらに師匠は続けられている。

「軽井沢町追分の私の庭には、

大きな栗の木があって、

毎年茶色の毬を落としてくる。

 それを待ちかねてように、

虫が素早く食べるのだが、

青い毬というのは数として少ない。

 青い固い毬では、さすがに

栗好きの虫も歯が立たないと思う。

 ところで、芭蕉関係の類書を

いろいろ見ていると、この句について

実に様々な説があるのに驚いた。

 先ず、一般には、落ちない毬は

青いというのは、芭蕉の思い込みだ

という説がある。

 落ちる毬は必ずしも茶色ではなく、

年によって違うというのが、

私の観察である。

 第一に、栗の花は毎年咲くものではなく、

それ故に実のならぬ年もあるのが

栗の特徴だからである。

 それから、栗の実が落ちるのは、

毬が開いて茶色の実になってから

ではなく、青いうちに落ちるのは、

毎度のことである。

 芭蕉が秋風の吹きすさぶ季節に

なっても毬が青いままだと書いている

のも毬が開いて青いままだと書い

ているのも、秋風になっても、

毬が青いままだであるのが

不審だと芭蕉が大事件のように

解釈しているのも、

おかしいと私は思う。

 芭蕉ほどの人になると、

人はいろいろな説を立てるものだと

むしろその方に感心するのである。」

と。

 子ども時代、秋になると、夕方

栗林に行き、栗を採ったことを思い出した。

 青いいがぐりもあったなあ。

 山栗を拾って、毬を長いトングで割れ目

付近を察し、中の山栗を採って、籠半分ぐらいに

なるまで採った。

 そして、家の庭で、皮をむき、指先で渋皮を

剥ぎ、栗ご飯にしても食べた。

 ほんと美味しかった!


祈願の首途!

2021-07-30 14:30:24 | 日記

祈願の首途!

令和3年7月30日(金)

 青梅マラソンに出ていた頃は、

裏宿七兵衛という義賊の韋駄天だった、

墓参り!

 無事完走を願ったもの。

夏山に 

 足駄をおがむ 

     首途哉

   この夏山で、行者ゆかりの足駄を拝し、

出立の思いを新たにすることだ、

の意。

 元禄二年(1689)の作。

「足駄」・・下駄。

 ここは修験道の祖役(えんの)行(ぎよう)者(じや)が

用いたという高足駄。

 その健脚にあやかる気持ちを「拝む」

に込める。

   修験光明寺の行者堂を拝した吟で、

同寺は、余瀬にあった武者修験の寺。

 4月9日のことで、曽良書留の

「夏山や 

   首途を拝む

      高あしだ」

が初句。

  「夏山に」を行く先の夏山に向かって

と解する説もある。

 ◎ 『おくのほそ道』の一句。

 栃木県大田原市にあった黒羽光明寺

の行者堂に飾ってあった役の行者の

高足駄を拝むというのだ。

 見回せば、陸奥の夏の山々が

美しく連なっている。

 これから自分が向かう奥羽北陸の

長い険路を想い、

大先輩の行者への尊敬の心と

道中の無事を願って祈っている

芭蕉の姿が鮮やかに描き出されている。


「別ればや」の解釈!

2021-07-29 10:38:39 | 日記

「別ればや」の解釈!

令和3年7月29日(木)

 7月も余すところ三日、あっという間

に過ぎていく感じ・・・・。

 昨夕は、友人が送ってくれた琵琶湖の

鰻で舌鼓!!!感激の一瞬でもあった。

別ればや 

  笠手に堤(さげ)て 

       夏羽織

   笠を手に提げ、夏羽織も着込んだ

ところで、いよいよお別れの時で

ある、

の意。

 年次不明。

「別ればや」・・・「別れ端や」と

     読めば、別れ際の意。

「別れ端や おもひ出すべき 田植歌」

    (傘下)(曽良宛芭蕉書簡)

  意志を表す助詞の「ばや」と見ることも

できる。

 旅の途中の留別吟。

 羽織の着用に威儀を正す心が示される。

 ◎ いよいよお別れだ。話していると、

名残は尽きませんが、

笠は手に持ったし、夏羽織は着たし、

旅の用意はできておりますぞ。

 この次は、何処で、どうしてお会い

するやら、そのような未来が判らぬ処が

人生ですからなあ。

 そして、別れ別れになって、

直ぐ近寄って手に手を取って

別れを惜しむ。

 これが人生の温かさであり、

寂しさでもありますな。

「別ればや」という言葉には、

心情を押し切ってもう別れましょう

という強い促しがある。

 それが人生だ。惜別の情の涙である。

 別れを告げる友情が愛情の情を

紡ぎ出す。

 作品の年は不明で、元禄年間である

ことは特定される。

 芭蕉晩年の心が投射されている

別離の句である。 


崩れて明し 死の直前の句

2021-07-28 11:02:31 | 日記

崩れて明し 死の直前の句

令和3年7月28日(水)

 夜のテレビ観賞は久しぶり。

 野球大好き少年・壮年のわんも

テレビ鑑賞はすっかり影を潜めたが、

昨夜のソフトボールの決勝戦はついつい

血が騒いだ。

 熱戦とチーム一丸の強さで強敵を破る。

 輝くアスリートに祝福と慰労を込める。

 夏の夜の一服!

夏の夜や

  崩れて明し 

     冷し物

   夏の夜は早くも明け、もてなしの

冷やし物も崩れた姿を見せている、

の意。

 元禄七年(1694)の作。

 前書き「今宵(こよいの)賦(ふ) 

野(や)盤(ばん)子(し)支考」

  「今宵(こよいの)賦(ふ)」・・・6月

16日膳所の曲翠(曲水)亭で、

催された連句会の様子を、

後に支考が書いた文章。

 一期一会であること等が記される。

「冷し物」・・・果実・野菜・麺類などを

冷やして盛った料理。

◎ 夏の夜の句会で、

この次何時会えるものかと心許なく、

酒を交わしているうちに時が過ぎ、

話にも疲れてきた。

 短い夏の夜もいつかは明けて来る

頃合いになってきた。

 見れば、特別に作った冷やし物の形が

崩れてきた。

 物事の終わりに近いときには、

人としての親しさもご馳走も何もかも

崩れてくる。

 無論人生もそうであろう。

 この侘しい気持ちが夏の朝にはある。

 付き合いもご馳走も、これで来年までは

お別れだと思うと、寂しくてならない。

 見返せば、なべて人生は、

特に年を取ってきた夏の季節は

その感が強い。

 では、皆さん、これでそろそろお別れ

ですな。

 崩れて開けし冷やし物、とは寂しい表現だ。

 ここには、威勢のいい夏が終わり、

秋の衰えが来て、冬の詩が近づく予感

までが一句に詠み込まれている。

 夏を詠んで冬を予感させる。

 さすが芭蕉である。

 死の直前の作。


木魂に明る 夏の月

2021-07-27 14:00:41 | 日記

木魂に明る 夏の月

令和3年7月27日(火)

手をうてバ 

  木魂に明る 

      夏の月

   未明の月を拝して柏手を打つと、

その木魂とともに夏の夜は明けて

いく、

の意。

 元禄四年(1691)の作。

 底本の4月23日の条に、

月待ちをしていた後の吟と

して掲載し、

「夏の夜や 木魂に明る 下駄の音」

の初案形を消して、現行形に改める。

 柏手は他者の行為とも見られる。

 ◎ 二十五夜の月待ちをしていると、

願い事が叶うという信心があった。

 朝になると、願い事の柏手を打つ音が、

あちらこちらでして、それがあたかも

一人の人間の柏手のように聞こえる。

 片仮名の「バ」が、

人々の柏手をまとめて、

すがすがしい音の響きにする。

 朝といっても、まだ夜が白々と

明けた程度である。

 何とも気持ちのよい、涼しげな

夏の朝の光景だ。

 ところで、初句は、「

夏の月」ではなく、「下駄の音」

であった。すなわち、

 夏の衣や 

  木魂に明る 

     下駄の音

  であった。

 とすると、決定句の木魂は、

芭蕉が打った音ではなくて、

周囲に響き渡る大勢の人々の手を

打つ音であったので、

芭蕉はその伝統行事の音に

耳を澄ましていたことになる。

 そのほうが、夏の朝の澄んだ空気を

示して面白いか。

 それとも、片仮名の「バ」という擬

音めいた表現が優れているか。