貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

和歌山市 紀三井寺①その由緒と厄除け坂と芭蕉句碑!

2024-07-30 10:01:16 | 日記
令和6年7月30日(火)
和歌山市  紀三井寺①               
 お寺の衆が
みんなで清掃と拝観への準備
真最中に詣でる。
<紀三井寺門前商店街>

 紀伊國屋文左衛門が、
若い頃母を背負ってこの坂を上り、
観音様にお詣りをしている。  
<本殿への参道>
 
 ある日、
途中で鼻緒が切れ、
困っているところに
玉津島神社の宮司の娘加代が
通りかかり、
鼻緒をすげ替えたのが縁で、
二人は結ばれる。 
 それからこの坂を、
結縁坂(けちえんざか)
と呼ぶようになる。
 今でも出会いをと
観音様にお詣りする人も
少なくない。 
 階段は、「女厄(33)除坂」とか
<女厄除け坂>

「還暦厄除坂」等と名付けられ、
<還暦厄坂>

階段にも功徳が施されるように
なっている。
<芭蕉句碑>

 芭蕉句碑は、
231段の階段の中程、
清浄水の所にある。
「見あぐれば  
  さくらしまふて   
    紀三井寺」
~つづく。

紀の川市粉河寺③粉河寺讃歌もグッド!

2024-07-29 09:55:20 | 日記
令和6年7月29日(月)
紀の川市粉河寺③
 有本芳水さんの粉河寺讃歌は、 
   
「馬の背にしてかへり見る 
 春暮れ方の
 紀伊の国 松原かげに 
 旅びとの すげ笠 
 あまた行きかひて 
 赤き夕日は たちば なの 
 花咲く上に 匂ふかな 
 紀の河   河原 河ぞひを 
 のぼれば ここは  
 粉河寺
 赤い負(おい)笈(ずる) 
 白き笠 巡礼の子に 
  打ち交り 
 西国三番 
 ちゝはゝの めぐみも深き 
 粉河寺 
 和讃を高う 
 誦(ず)するかな」
と詠い、立派な碑になっている。

 右側に3メートルほどの
幅の小川が流れ、整備されている。
 井戸水も豊富。
 川沿いに
念仏堂など由緒ある建造物も多く、
整備されている。
<鐘楼と銘木楠木>

 岩の庭も桃山時代のもので、
素晴らしい景観の奥に
本堂の屋根が厳かに輝いている。


                       
 ☆☆☆ 紀ノ川万葉の里で
ラーメンと柿の葉寿司を食し、
葛城温泉八風の湯につかり、
疲れをとる。
「青洲の里」という道の駅で泊まる。
朝まで我が車のみ。
 華岡青洲さんもあんぐり
開けっ放し?
 麻酔の効きすぎ?
 産地の野菜の直売所しかないのが
原因の一つ。
 二工夫あれと願い、
深謝して「青洲の里」を
後にする。



紀の川市粉河寺②由緒と牧水などの歌・句碑!

2024-07-28 10:10:30 | 日記
令和6年7月28日(日)
紀の川市粉河寺②
 後日、
一夜を泊めてもらった童行者は、
孔子古の願い(庵に仏像を安置すること)
を叶えてやろうと、
七日七夜、庵に籠もり、
等身の千手観音像を刻み、
立ち去る。
<釈迦牟尼仏足跡碑など>
<釈迦牟尼仏足跡碑>

  時移りその後、
河内国の長者佐太夫の一人娘が
長患い。
 そこへ童行者が訪ね来て、
千手陀羅尼を誦して祈祷。
 やがて娘の病は回復する。
 童行者は長者がお礼にと申し出た
七珍万宝を断り、
娘が捧げるさげさや(お箸箱)と
袴のみを手に
「紀伊国那賀郡粉河の者だ」
とのみ告げ、立ち去る。

 翌年春、
長者一家は粉河を訪れたが、
探しあぐねて小川の傍らで一休み。
 ふと流れる水が米のとぎ汁の
ように白いのに気がつき、
粉河の証しであることを確信。
 さらに、
その川を遡り庵を発見する。
扉を開けると千手観音が安置され、
娘が差し出したさげさやと
袴を持たれていたので、
かの童行者は、
実は千手観音の化身であったことが
分かる。
 この開創の由来は、
当寺所蔵の粉河寺縁起絵巻(国宝)等
にて伝えられている。
<五橘亭と塊亭の句碑>
 歌碑は、  
「水も嘸や                  
   白き粉河の
      山桜」 
        五橘亭
「風猛や
   名に似ぬ里の
      小春かな」 
        塊亭 
<若山牧水の歌碑>

「粉河寺
   遍路の衆の
     打ち鳴らす
   鉦々きこゆ
     秋の樹の間に」 
         牧水 
である。
~つづく。

紀の川市 粉 河 寺① 粉河寺由緒と讃歌

2024-07-27 10:30:29 | 日記
令和6年7月27日(土)
紀の川市  粉 河 寺 ①                 
 奈良時代末草創時この方、
粉河寺(こかわでら)は
多くの人達の信仰を受け、
繁栄する。
<山門>

 鎌倉時代には七堂伽藍、
五百五十ヶ坊、
東西南北各々四キロ余の広大な
境内地と寺領四万余石を有している。
 天正13年(1585)、
豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、
偉容を誇った堂塔伽藍と
多くの寺宝を焼失する。
<奈良時代末草創の粉河寺>
<本殿>

 その後、
紀州徳川家の庇護と信徒の寄進
によって、
江戸時代中期から後期に
現存の諸堂が完成する。
<巌庭園も見事>

 由緒話もある。                                          
 奈良時代末宝亀元年(770)の開創。
 当時、
紀伊国那賀郡に住む
猟師大伴孔子古は、
いつも幽谷の樹幹に足場を定めて、
夜ごと猪や鹿を狙っていた。
 ある晩、光明輝く地を発見。
発心してその場所に柴の庵を建てる。
<粉河寺讃歌>

~つづく。


高野山奥の院③墓地エリアと弘法大師御廟エリアで命の洗濯!

2024-07-26 10:21:16 | 日記
令和6年7月26日(金)
高野山奥の院③
 高野山は
世界遺産になってから初めて参詣。
<落書き塚>

 アチャコの慰霊碑やお墓が
ずらりと並ぶ。
<花菱アチャコの墓>

 歴史上の人物の墓地でもある。      
<親鸞上人の墓>

 そして、奥に、
弘法大師の御廟がある。

 墓地と聖地を散策しているようだ。
 蘇我兄弟、大岡越前、武田信玄、
徳川吉宗、石田三成、明智光秀、
織田信長のお墓あり。 
<浅野内匠頭の墓>
 

<無縁塚>
      
 万菊の句は、
「ちる花に 
   たぶさはつかし 
       奥の院」
 奥の院は
大きく2つのエリアに分けられる。
 一つは、
入口近くのお墓や慰霊碑が
ずらりと並ぶ墓地エリア。
 もう一つは、
弘法大師御廟(ごびょう)を
中心にした聖地エリア。

 ゆったり奥の院を歩き回る。
 震災の供養もきちんとされている。
 全く違った雰囲気をもつ
二つのエリアの何ともいえぬ
神秘感と
日本人としての祖先の追慕感等、
ここでしか味わえないものを愉しみ、
合掌をして、次へ進むことにする。