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貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

福井市称念寺②弟子又玄を励ます芭蕉の思い!

2025-08-22 17:08:33 | 日記
令和7年8月22日(金)
福井市称念寺②
 江戸時代の松尾芭蕉が、
「奥の細道」の旅の途中取材。
 その後、
芭蕉は伊勢の山田又玄宅を訪れる。
 又玄は貧しい神官で、
才能がありながら、
出世できないことに悩んでいた。
<芭蕉塚>

 そこで、
芭蕉は弟子の又玄に、   
「月さびよ 
  明智が妻の 
    咄せむ」
の句を贈って励ましたという。  
<芭蕉句碑>
   
 意味は、
「又玄よ、
 今は出世の芽がでないが、
 あなたにはそれを支える
 素晴らしい妻が
 いるじゃないか。
 今夜は じっくり
 明智の妻の黒髪伝説を
 話してあげよう」
 という意か。
<芭蕉句碑2>

 芭蕉の師弟愛も深い。
                     
 新田義貞公の墓所も
きちんと整備されている。
<新田義貞公の墓所>


 平成人のひとりとして
参拝する。 
 これも蕉道のご利益か?   



福井市称念寺①芭蕉光秀公の光秀公の称念寺での家族との愛!

2025-08-21 17:13:01 | 日記
令和7年8月21日(木)
福井市称念寺①  
<山門 新田義貞公の墓所>
 
 称念寺は」
721年(養老5)から続くといわれ、
福井を代表する史跡の一つ。
 「太平記」で有名な、
南北朝時代の武士、
新田義貞公の墓所。
<新田義貞公贈位碑>

 また、
明智光秀がこの寺に身を寄せ、
門前で寺子屋を開いた
という言い伝えもある。
<本殿>

 元禄2年(1689)8月11日、
松尾芭蕉が称念寺に立ち寄り、
光秀と家族の暮らしぶりを偲んで
詠んだ句の碑も、
境内に建てられている。 
<本寺の由緒と文化財説明>

 明智光秀公は
弘治2年(1556)に
齋藤義龍の大軍に敗れ、
妻の熈子や家族と伴に、
称念寺に逃れる。
 『明智軍記』という書物には、
称念寺住職と和歌を詠み、
漢詩を作ったことが
記されている。
「称念寺門前に寺子屋を開くが、
生活は貧しく
仕官の芽もなかなか・・。 
 そして、
朝倉の家臣と連歌の会を
催すチャンスを、
称念寺の住職が設定。
 貧困の光秀には資金がない中、
連歌の会は熈子の用意した
酒肴で大成功に終わり、
やがて光秀は
朝倉への仕官が叶う。
 しかし、
その連歌の会の資金は、
実は熈子が自慢の黒髪を売って、
用立てたもの。  
 光秀は
この妻の愛に応えて、
どんな困難があっても必ずや
天下を取ると、誓った」
という「夫婦愛の物語」は、
称念寺門前の伝承となる。
<明智光秀公の黒髪伝説と芭蕉碑の説明>

 江戸時代の松尾芭蕉が、
「奥の細道」の旅の途中取材。
~つづく。


あわら市総持寺雨夜塚②俳聖芭蕉の石塔句や十数基の句碑を堪能!

2025-08-20 16:31:47 | 日記
令和7年8月20日(水)
あわら市総持寺雨夜塚②
 雨夜塚の名も尊い。
<俳聖芭蕉○○碑>

<芭蕉の石塔>

 芭蕉翁の石塔の側面には、
「野分して 
  盥に雨を 
    聞く夜かな」
 とは、
 故翁の遺吟なるが、
 坂(野)我六のぬし
 風雅の冥慮を仰がんと
 此碑下に埋めとどめて
 雨夜塚と尊むなるべし」
<芭蕉翁の石塔右側面句>

との碑文と、五竹坊の、
「その道も 
   潤ふ秋や 
     雨夜塚」
 及び我六の、
「恵みは 
   広き野に     
     草の花」
という句が刻まれている。
 庭園は閑雅で、
美濃派五世以哉老師の
笠塔をはじめ、
<以哉老師の笠塔>

金津姫川吟社三世二遂坊の、
「月の秋や 
  心にかかる 
    雲もなし」
<二遂坊句碑>
  
など16基の句碑がある。
<句碑いろいろ>

 雨夜塚は、
これまでいくたびか
移転されていたが、
昭和57年(1982)10月に、
当時脇出区にあった
正瑞寺境内から
この地に移される。
 なお、
平成16年(2004)、
金津町は芦原町と合併して、 
あわら市となる。


あわら市: 総持寺:雨世塚 ①芭蕉翁の石塔へ!

2025-08-18 17:20:34 | 日記
令和7年8月18日(月)
 三時過ぎ、雷と風と雨と雹が
我が町を急襲!
 怒り狂ったようになる雷鳴、
地響きも発生。
 驟雨も今回は有り難いかな!
 終も木も草も花も蝉も
みんな生き返ったよう!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あわら市:  総持寺:雨世塚   ①   
<本殿>

 雨夜塚は、
寛延2年(1749)9月に、
旧金津の姫川吟社二世
有隣庵我六が
芭蕉翁の遺徳を慕って、
美濃派四世(岐阜県)の
田中五竹坊が
越前行脚の折、
金津に立ち寄った時に
建てられる。
<雨夜塚入口>

 芭蕉が
「奥の細道」俳句行脚の途すがら、
吉崎から汐越の松をたずねて
金津に着いたのは、
元禄2年(1689)旧暦8月初旬。
 にわか雨に逢って、
総持寺の門前で雨宿り。
 同志が集って旅情を慰めたが、
句会を開く間もなく
晴れ間を待って
松岡へと向う。
 雨夜塚の名も尊い。
<芭蕉翁の石塔>

~つづく。

加賀市全昌寺③芭蕉の弟子自称の久弥の句と他の俳人の句にも!

2025-08-13 16:45:46 | 日記
令和7年8月13日(水)
加賀市全昌寺③
「者勢起塚」
の右側面の句が
次のの写真である。 

 苔生してちょっと
定かではないのが残念! 
 「日本百名山』の著者で
登山家であった
深田久弥さんは
俳人でもあり、

自称芭蕉の弟子だったことは、
前回参拝時に、
初めて知る。 
<久弥(九山)の句碑>
    
 彼の俳号は、
「九山」。
句碑は、   
「翁忌や 
  師をつぐ故に 
   師を模さず」。
 さすが、『日本百名山』の著者。
 そして、
九山の碑には
11首の句が彫られている。  
               
「翁塚 
  たわゝの柿の 
   触るゝかな」。
「句碑並び 
  山茶花の影 
     萩の影」
もいいなあ。
 その他、
流水や木圭の句碑あり。
<流水の句碑>
<木圭の句碑>

 また、
室町時代からの供養塔で、
六つの面を持ち、 
それぞれ持ち物が違う六地蔵と、
<六地蔵>
<六地蔵の説明碑>

その石塔が建立され ている。