貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

芭蕉を変えた師匠たち ②兼好篇

2021-02-28 15:09:10 | 日記

芭蕉を変えた師匠たち ②兼好篇

令和3年2月28日(日)

 今年の2月は、緊急事態宣言下、

逃げるように立ち去っていこうと

している。

秌(あき)のいろ 

  ぬかみそつぼも 

   なかりけり

  芭蕉は兼好法師の生き方にも

相似。

 吉田兼好というお坊さんは、

どこの宗派にも属さず、都のはずれに

建てた庵で生活。

 時には旅に出てみたり、

違う地域で暮らしてみたり……。

 自由気ままに生きながらも、

自分の心と静かに向き合う。

 その綴りが、『徒然草』。

 吉田兼好は和歌の才にも秀でていたそう。

 『花は盛りに』から始まる『徒然草』

第137段には、

「花は満開の時のみを、月は雲がない状態の

時のみを見るものではない。

 降っている雨を見て思いを馳せる月や、

今にも咲きそうな梢(こずえ・樹木の先の部分)、

花が散ってしまったあとの庭などにこそ、

しみじみとした趣深さがある」

という内容が記されている。

 吉田兼好の風流さを芭蕉は受け継いだ感あり。

 また、達筆であったことでも知られ、

当時から文化人として名高い人だったよう。

 しかしながら吉田兼好は、

そのような自分の才を誇ることはせず、

世捨て人としての暮らしを全う。

 名誉などよりも自分の心が豊かである

ことの方がずっと大切であると、

気づいていた。

 そのためか、吉田兼好が残した随筆集は

死後しばらく埋もれていましたが、

それから250年以上もの時を経た江戸時代に

大流行し、世に広まったといわれている

  この句は、『徒然草』の言葉として

詠まれていると捉えても過言ではない。

 人が死んだ時、墓に持ち込める物は

殆どない。だから、死んだ時に、

あの世大事に思う者は、現世の一切の物、

壺ひとつでも持ってはならない。

 この無一物の生活こそが、死を前にした

人生に願わしいというのだ。

 学生時代から大切にしていた書物も

その他諸々の物を大分整理したが、

死を前にしても、まだまだの感ある己、

恥ずかしい限り。

 死が遠のいてくれているのなら

有り難いが・・・・?

 


芭蕉を変えた師匠達 ①荘子

2021-02-26 16:36:00 | 日記

芭蕉を変えた師匠達 ①荘子

令和3年2月26日(金)

いなづまや 

 かほのところが 

      薄の穂

  ところで、本間主馬の家の舞台には、

骸骨達が笛を吹き、鼓を打って、

能を演じている絵がかかっている。

 この絵の表現しているところは、

人生と云っても結局は、

この骸骨の遊びのようなもの。

 その時、一瞬稲妻が走ったところ、

骸骨の眼から薄の穂が生えている

ように見えた。

 美女として青春を送った小野小町も

死後は屍を野に晒し、その骸骨から

薄の穂が生えて出たという、

人間の生前の営みが全て、

そのように儚いものだと、

芭蕉は言いたくて、この句を作った

のであろう。

 これも荘子の考えが影響している

よう。


芭蕉を変えた師匠達 ①荘子

2021-02-25 16:58:50 | 日記

芭蕉を変えた師匠達 ①荘子

令和3年2月25日(木)

閃々(ひらひら)と 

 挙(あぐ)るあふぎや 

     くものみね

  本間主(しゆ)馬(め)という役者の舞台を

観に行った途中に、高い雲の峰を見た

という意。

 さて、彼の家に入って、

演能を観ていると、扇が上になって、

舞が行われると扇の先に白い峰が

見えたような見事な演じ方であった。

 太夫の芸を絶賛している句。

 元禄七年の句で、 『笈日記』に、

「本間氏主馬が亭にまねかれしに

太夫が家名を称して吟草二句」

と前書きして、この句と併記する。

 本間氏主馬とは、大津の能太夫。

 俳号は丹野。

 太夫が手に扇を高くかざして舞う。

ひらひらと高く翻るその扇は、

舞台の軒端に聳える雲の峰に達する

ほど、高く高く上ってゆくように見える。

 太夫の芸を称えて、同時の扇の如く、

雲の上まで家名を挙げよと祝った。

 そして、二句め。

いなづまや 

  かほのところが 

       薄の穂


つづく。


芭蕉を変えた師匠達①荘子

2021-02-08 16:20:31 | 日記

芭蕉を変えた師匠達①荘子

令和3年2月8日(月)

君やてふ 

  我や荘子が 

      夢心

   蕉門の一人、怒誰(どすい)  が

手紙をくれる。

「蝶になった夢を見たら、荘子に

みられている心地がした。」と。

 当時芭蕉以下、弟子達の話題の

中心は荘子?

 荘子を熟読していた門人が多かった

よう。

 その返事に、芭蕉は、

「あなたが蝶になった夢、

私が荘子になった夢を見たら、

面白かろう。」

としたためる。

 その一句である。

君やてふ 

  我や荘子が 

      夢心

  二人で戯れているような感じが

しないでもない。


芭蕉を変えた師匠達 ①荘子

2021-02-07 16:41:58 | 日記

芭蕉を変えた師匠達 ①荘子

令和3年2月7日(日)

 更に、芭蕉が荘子から影響を受けた

俳句。

蓑虫の 

  音を聞きに来よ 

      艸の庵

  「芭蕉庵に一人住まいし、

秋風に右に左に揺れながら

じっと黙っている。

 一度我が庵に来てみると、

荘子の云う自得自足の様子が

よく見える。

 全く無能で馬鹿な蓑虫だが、

その微かな鳴き声を聴こうとして

待っているのも一興である。」

 これが、芭蕉が友人に送った手紙

の内容。

   これに応じて、二人の友人が訪れる。

 市中に住む友人は、荘子の独特の

思想を理解できず、退屈して、

早々に退出するという。

 蓑虫は荘子のいう「無用の用」。

 有用な樹木は切られてしまうが、

無用な樹木は誰もそれらを切って

細工しようとしないので、

無事に残って大木に育つという。

 荘子の有名な説話「山木篇」に

出てくる無用の大木である。

 即座に  屋久島の縄文杉が浮上。

17年前に体感した屋久島の縄文杉は、

形が悪く伐採されず、残った物。

 後世になって、屋久島観光の

目玉になっている。

 さて、伊賀の芭蕉庵は、

蓑虫庵として残っていることを

強調して・・・・・・・・。

 つづく。