令和3年9月13日(月)
おもしろうて
やがて悲しき
鵜飼哉
前書き「鵜舟も通り過る程に帰るとて」。
鵜舟の漁は面白くても、やがてそれが
前書き「鵜舟も通り過る程に帰るとて」。
鵜舟の漁は面白くても、やがてそれが
過ぎると、悲しくなることだ、
の意。
貞享五年(1688)の作。
「面白て」・・・謡曲「鵜飼」に、
貞享五年(1688)の作。
「面白て」・・・謡曲「鵜飼」に、
「罪も報も、後の世も忘れはてておもしろ
や。・・・闇路に帰る此身の、名残をしさ
を如何せん」
「歓楽極マリテ哀情極マリテ哀情多シ」
(古文真宝後集)の普遍的感情を、
長良川の鵜飼を通して、具現化したもの。
謡曲を踏まえつつも表すところは、
名残惜しさに留まらず、
生の哀れさや殺生を繰り返す人間の業
に迄及んで神妙。
◎ 鵜飼を見物していて面白かったが、
◎ 鵜飼を見物していて面白かったが、
やがて鵜の動きが可哀想になって、
最初のようにさんざめくのにも
疲れてくると、騙されている鵜も
可哀想に見えてきた。
この場合、宰相のうち鵜匠の詐術を
この場合、宰相のうち鵜匠の詐術を
面白いと感心する心があって、
初めて鵜を哀れむ悲しさが生きてくる。
謡曲の「鵜飼」は、榎並左衛門五郎
謡曲の「鵜飼」は、榎並左衛門五郎
(えなみ)であるが、世阿弥の手が
多く入っていると言われている。
確かに名文である。
特に鮎の群れを篝火の照らす鵜匠の
特に鮎の群れを篝火の照らす鵜匠の
熟練の手さばき、鵜が鵜匠の縄に動か
されて魚たちを追う面白さはなかなか
のものだ。
地謡の調子のよい謡いも、ぐっと
地謡の調子のよい謡いも、ぐっと
引き込ませる力を持っている。
「鵜舟の篝火影消えて、闇路に帰る
「鵜舟の篝火影消えて、闇路に帰る
化身の、名残惜しさを如何にせむ」
は、名文である。
世阿弥でなければ書けない文章。
この名文を俳諧風に変えると、
世阿弥でなければ書けない文章。
この名文を俳諧風に変えると、
芭蕉の前文になる。
このあたりの、文章による綱渡りが、
これまた芭蕉でなければ、できない
ものなのだ。
この句には、『蕉翁句集』の別句
この句には、『蕉翁句集』の別句
がある。明日へ。