貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

世阿弥と芭蕉

2021-09-13 10:40:17 | 日記
令和3年9月13日(月)
おもしろうて 
  やがて悲しき 
      鵜飼哉
 前書き「鵜舟も通り過る程に帰るとて」。
 鵜舟の漁は面白くても、やがてそれが
過ぎると、悲しくなることだ、
の意。
 貞享五年(1688)の作。
「面白て」・・・謡曲「鵜飼」に、
「罪も報も、後の世も忘れはてておもしろ
や。・・・闇路に帰る此身の、名残をしさ
を如何せん」
「歓楽極マリテ哀情極マリテ哀情多シ」
(古文真宝後集)の普遍的感情を、
長良川の鵜飼を通して、具現化したもの。
 謡曲を踏まえつつも表すところは、
名残惜しさに留まらず、
生の哀れさや殺生を繰り返す人間の業
に迄及んで神妙。
◎ 鵜飼を見物していて面白かったが、
やがて鵜の動きが可哀想になって、
最初のようにさんざめくのにも
疲れてくると、騙されている鵜も
可哀想に見えてきた。
 この場合、宰相のうち鵜匠の詐術を
面白いと感心する心があって、
初めて鵜を哀れむ悲しさが生きてくる。
 謡曲の「鵜飼」は、榎並左衛門五郎
(えなみ)であるが、世阿弥の手が
多く入っていると言われている。
 確かに名文である。
 特に鮎の群れを篝火の照らす鵜匠の
熟練の手さばき、鵜が鵜匠の縄に動か
されて魚たちを追う面白さはなかなか
のものだ。
 地謡の調子のよい謡いも、ぐっと
引き込ませる力を持っている。
「鵜舟の篝火影消えて、闇路に帰る
化身の、名残惜しさを如何にせむ」
は、名文である。
 世阿弥でなければ書けない文章。
 この名文を俳諧風に変えると、
芭蕉の前文になる。
 このあたりの、文章による綱渡りが、
これまた芭蕉でなければ、できない
ものなのだ。
 この句には、『蕉翁句集』の別句
がある。明日へ。