貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

漂う哀愁 日本橋!

2020-08-31 11:03:29 | 日記

漂う哀愁 日本橋!

令和2年8月31日(月)

 暑い、暑い8月も最終日。

 朝の歩行禅は、7月ごろから

なりを潜め、すっかり屋内

ウォーク&ジョグに変わる。

 今朝は曇り。

 郵便局に用があり、歩いて行く。

 靴を履いて歩くのと、屋内で素足で

歩くのとは、やはり差異あり!

 9月も暑いらしい?

 少し早く起きて、歩行禅の復帰!?

 鮒佐より、日本橋の駅へ。

 手前が日本橋。

 以前、TVで、ここをカヌーで観光

していた。

 橋に飾りもあり。

 パリのセーヌ川にちょっとあや

かったか?

 一度は、舟で日本橋界隈を見て

みたい。

 以前のような悪臭はなく、

哀愁が漂うか・・・!


人生のスタート決意の句!青年芭蕉

2020-08-30 14:08:58 | 日記

人生のスタート決意の句!青年芭蕉

令和2年8月30日(日)

  中央区の芭蕉句碑探索三つ目。

 三越日本橋店の近くにあり。

 定食屋さんとラーメン屋さんの

間にある老舗の佃煮屋。

 それが元祖佃煮「金鮒佐」。 

 その店先に句碑あり。

 店の造りとマッチング!

 句は、

 「発句なり 

   松尾桃青 

     宿の春」 

           桃青

 当時、ここは小田原町と呼ばれている。

 1672年(寛文12年)、29歳の芭蕉が、

故郷伊賀上野から江戸にやってきて、

8年間住んだ処。

 芭蕉は、当時「桃青」と称し、

日本橋魚市場に近い繁華街の小田原町を

拠点にし、俳壇の地位を固めていく。

 1678年(延宝6年)に、俳壇宗匠として

独立。35歳の若さである。

 句碑の句は、宗匠となった翌春、

迎春の心意気を詠み上げた句。

 自己確立の句ともいわれている。

 青年(?)芭蕉の宗匠人生スタートの決意が

伝わってくる。

 解説書付き。


八丁堀 芭蕉の句!

2020-08-29 13:53:39 | 日記

八丁堀 芭蕉の句!

令和2年8月29日(土)

 芭蕉の句碑もすぐ見つかる。

 まだ句碑は新しい!

「菊の花 

  咲くや石屋の 

   石の間(あひ)」

 元禄6年(1693) 秋の句。

 芭蕉50歳。死の前年に当たる。

 与力同心の住む町、八丁堀。

 現在の中央区。

 『江戸雀』(1677)に、

「八丁堀 石をあきなふ」とあるが、

水路を利用した石屋も多かったようだ。

長寿を祝う菊の花と、

死後の象徴を形作る石屋に見る石との

対比か。

 この句は、『江戸名所図会』三ツ橋の

挿絵に、八丁堀にて として載っている。

  荒川水系の亀島川は、本当に整備、

整美されてい た。

 清流に近し。


銀座の柳 4世!

2020-08-28 13:35:38 | 日記

銀座の柳4世

令和2年8月28日(金)

  築地本願寺より徒歩で八丁堀へ。 

  目的地は亀島橋。

 東西南北の方位は、全く不明。

 もはや、グーグルマップに依存。

 しかし、東へ行けと指示。

 方位が全く不明瞭なのに、

これも又不親切。

 やはり人に聞くのが一番?

 唯々、歩いて方向を探ること

にする。

  そのおかげか?

 八百屋の安売り店の景気のよさに

遭遇。

「迷ってるとすぐなくなるよ。」

と、女性客に声かけする店員さん。

 きんかん250円、野菜が本当に安い!

 あっという間になくなっちゃう

ような繁盛振り。

 築地のおもしろさだ。

 しっかり歩いて新亀島橋に到着。

 「ちがう、違う」と、亀島橋を

探すと、そのちょっと前に通り過ぎた所。

 これも又楽しからずや。

  移住者の功績を記す説明板もあり。

 東洲斎写楽と伊能忠敬さん。 


 

 これが銀座の柳。

四世!!!

 芭蕉の句碑もある。

 明日に続く!


大いなる力

2020-08-27 10:11:17 | 日記

大いなる力

令和2年8月27日(木)

  堂内に入ると、30数名の方が参拝し、

法要を待つのか、説話を待つのか、

席に着いておられる。

 皆無言。

 静寂は、荘厳さを伴う・・・。

 そして、私の穢れ、疲れた魂をも

洗ってくれるようだ。

 大都会には、こういう所が必ずある。

予期せぬひとつの楽しみ。

 

 築地本願寺は、

江戸時代の1617年に、

西本願寺の別院として浅草御門南の

横山町(現在の日本橋横山町、東日本橋)

に建立。

 「江戸海岸御坊」「浜町御坊」と

呼ばれる。

 しかし明暦の大火(振袖火事)により

本堂を焼失。

 その後、江戸幕府による区画整理のため

旧地への再建が許されず。

 その代替地として八丁堀沖の海上が

下付される。

 そこで、佃島(現:中央区佃)の門徒が

中心となり、本堂再建のために海を

埋め立てて土地を築き

(この埋め立て工事が地名築地の由来)、

1679年に再建。

 「築地御坊」と呼ばれるようになる。

 なお、この時の本堂は西南

(現在の築地市場)を向いて建てられ、

場外市場のあたりが門前町となっている。 

 1923年9月1日の関東大震災では、

地震による倒壊は免れたが、直後の火災

により再び伽藍を焼失。

 現在の本堂は1934年の竣工。

 古代インド様式をモチーフとしたこの建物は、

当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と

親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授・

伊東忠太による設計。

 当時の宗教施設としては珍しい鉄筋

コンクリート造。

 大理石彫刻がふんだんに用いられ、

そのスタイルは現在においても

斬新かつ荘厳で、築地の街の代表的な顔

となる。

 本堂は重要文化財に指定されている。

 

  境内には、九條武子の歌碑 

「おおいなる もののちからに 

ひかれゆく 

わがあしあとの おぼつかなしや」  

が築地本願寺を形容している。

 築地本願寺のイチョウは見事。

はばたいているようだ!!!!