貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

大津市義仲寺③ 芭蕉の句三首碑と二百・三百供養塔!

2024-01-25 10:31:27 | 日記
令和6年1月25日(木)
大津市義仲寺③

 上の芭蕉の句碑の句は、    
春を 
  あふみの人と
     おしみける
 。
 元禄3年。
 真蹟は全て「行春や」ある。
 この形が発案。
 近江の人とは、
当初は舟行を共にした人のこと
だったが、
近江での知人の意と広げている。
<巴塚>

 巴塚は、義仲の愛妾・
巴御前の供養塔。
 巴御前は、
義仲の平家討伐に従軍した
女武者。
 二つ目の芭蕉の句碑の句、

「古池や 
   蛙飛びこむ 
      水の音」
3つ目の芭蕉の句碑の句は、

「旅に病んで 
   夢は枯れ野を  
     かけめぐる」
 芭蕉辞世の句、病中吟。
<芭蕉200年忌と300年忌供養塔>


大津市義仲寺② 木曾殿と隣り合わせで時雨れ忌かな?

2024-01-24 10:41:07 | 日記
大津市義仲寺②
令和6年1月24日(水)


 芭蕉51歳、
元禄7年(1694)10月12日、
御堂筋の旅宿「花屋仁左衛門」
の離れで永眠。
 芭蕉の遺骸を乗せた舟は
夜のうちに伏見まで下る。
 翌朝、伏見を立ち、
昼過ぎ膳所の義仲寺へ到着する。
 14日には葬儀が行われ、
同日深夜になって境内に埋葬される。
 葬儀に参列した門人は80名、
会葬者は三百余名。
 芭蕉の忌日は「時雨忌」などと
呼ばれ、旧暦の気節に合わせ、
毎年11月の第二土曜日に
法要が営まれている。
 (義仲寺案内より)
 芭蕉は生前、
「骸(から)は木曽塚に送るべし」
と遺言していたので、
木曽義仲のお墓の隣に。

 芭蕉の墓石は三角の墓石。

 三角形の芭蕉の墓は珍しい。
でもなぜ三角形なのだろう?
「木曾殿と 
   背中合わせの          
      寒さかな」 
の句碑は、
芭蕉の弟子の又(ゆう)玄(げん)の作。


大津市: 義 仲 寺 ① 義仲の隣に遺言の墓!芭蕉

2024-01-23 10:47:36 | 日記
令和6年1月23日(火)
大津市:  義 仲 寺   
   いよいよ私の大好きな義仲寺へ! 
 
<義仲寺山門>
  
 義仲寺の名は、
平家討伐の兵を挙げて都に入り、
帰りに源頼朝軍に追われて
粟(あわ)津(づ)の地で
壮烈な最期を遂げた
木曽義仲(1154-84)を
ここに葬ったことに由来。

 江守護であった佐々木六角が、
室町時代末期に建立。
<義仲寺境内説明>

 江戸時代中期までは
木曽義仲を葬ったという
小さな塚だった。
<木曾義仲の墓>
      
 周辺の美しい景観を
こよなく愛した松尾芭蕉
(1644-94)が度々訪れる。  
 後に、
芭蕉が大阪で亡くなった時、
生前の遺言によって
ここに墓をつくる。
<芭蕉の墓>


 別名、
巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺等
呼ばれている。
~つづく。


大津市岩間寺 発祥の地発祥の地と句碑!

2024-01-22 10:05:33 | 日記
令和6年1月22日(月)
大津市:  岩 間 寺      
<阿吽仁王像>
 
<芭蕉句碑>
 
 
 芭蕉句碑の句は、
 「古池や 
  蛙とびこむ 
     水の音」

 京都・滋賀の境にある
標高443mの岩間山頂付近に
あるのが岩間寺。
 奈良時代に、
泰(たい)澄(ちよう)が
カツラの木で千手観音を刻み、
本尊にしたのが始まり。
<岩間寺由緒>

 室町時代に
西国三十三カ所霊場の
第12番札所となる。
 本尊の観音像は、
人々を苦しみから救うために、
毎晩136の地獄を巡るので
全身から汗を出すといわれ、
「汗かき観音」として、
また「ぼけふうじ観音」として
も広く慕われている。
 木立ちに囲まれ、
不如帰の声が聞こえる境内には、
本堂や大師堂等の建物が並び、
本堂横にはしっとりとした古池。
この池が、「芭蕉の池」。
                                      芭蕉の池(発祥池)がつくられた
説明の碑も整備されている。



大津市: 瀬田の唐橋と網定入口  日本三大古橋のひとつと・・・!

2024-01-21 10:31:40 | 日記
令和6年1月21日(日)
大津市:  瀬田の唐橋と網定入口      
 瀬田の唐橋は、
瀬田-唐橋町の瀬田川に架かる橋。
 全長223.7 mで、滋賀県道2号
大津能登川長浜線がこの橋を渡る。
 京都の宇治橋、山崎橋とならんで
日本三大橋(日本三名橋・
日本三古橋)の一つとされてきた。
 また、近江八景一つ
「瀬田の夕照(勢田夕照)」
として有名。
 かつて架けられた橋は、
丸木舟を横に何艘も並べ、
フジの木を利用し、
その蔓(つる)を絡めた橋で
「搦橋(からみばし)」とも称される。
 この「からみ橋」から
「から橋」に転訛、
 また、架け替えられる中、
中国や朝鮮半島の様式、
唐様が採り入れられたことにより、
唐橋。
 その他に辛橋、韓橋とも
記されるようになる。
 東海道・東山道(中山道)
方面から京都へ向かうには、
琵琶湖を渡るか、
南北いずれかに迂回しない限り、
琵琶湖から流れ入る瀬田川を
渡るしか方途なし。
 明治22年(1889)まで、
瀬田川に架かる唯一の橋で
あった瀬田の唐橋は、
交通の要衝かつ京都防衛上の
重要地である。
<網定前の瀬田川に浮かぶ屋形船と唐橋>

 古来
「唐橋を制する者は天下を制す」
といわれる程。
 唐橋を舞台として繰り広げられた
壬申の乱、
寿永の乱、承久の乱、建武の乱等、
橋は昔からさまざまな戦乱に
巡り合う。
 そのため、何度も焼き落されたと
されるが、その度に当時の浅瀬の
位置に橋が架けられる。
<作者不詳の句碑>

 また、
『日本書紀』など数多くの文献に
この地が登場する。
 芭蕉も何度か訪れ、
貞享5年の夏の句。
「五月雨に 
  隠れぬものや 
     瀬田の橋」
 琵琶湖やあたりの気色の全てが、
五月雨に霞む中、
瀬田の唐橋だけは、
雨にも隠されることなく、
長々と横たわって見えている
の意。
 唐橋公園に建立。