貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

茶目っ気たっぷり!

2018-04-30 08:37:26 | 日記
茶目っ気たっぷり!

平成30年4月30日(月)

 初夏をよんだ4月も、今日でお別れ。

 あちらこちらで鯉も泳いでいる。

 さて、今朝は、茶目っ気たっぷりの

阿吽の阿像



 鼻も口も頬もでっかいが・・・。

お茶目いっぱい膨らんで見える。

そして、吽像



 これは、陸奥国分寺跡で、でんと

構えていた。


仙台市: 陸奥国分寺  

2017(平成29)年7月12日 14:08~



国分寺跡は、ほとんど広大な境内。



 参拝。いつものように感謝と

旅の無事と家内安全などお願いをする。

  陸奥国分寺は、仙台市内に現存する

中では最も古い歴史を持つお寺。

 今から1270年以上前の天平期(奈良時代)

に、聖武天皇の詔により全国に建立された

金光明四天王護國之寺(いわゆる國分寺)

のうち、最北に置かれた國分寺。

草創期には金堂・講堂・七重塔等を具え、

最盛期には300坊が軒を連ねる一大伽藍を

誇っていたが、文治5年(1189)戦火に

罹って焼けてしまったそうだ。

 薬師堂を中心とする現在の伽藍は、400年

前の江戸時代初頭、仙台藩の祖となった伊

達政宗公によって再建されたもの。

現在は信者さんの色々な願いを叶える

ために御祈祷を行う「薬師堂」と、

檀家さんの御先祖さまの成仏のために

御法事を行う「本坊」の、2つの施設に

役割分担して活動している。

 また、草創期伽藍の範囲は国の史蹟

「陸奥国分寺阯」に指定されていた。



 全国の国分寺の整備は、今ひとつだ。

どこも敷地は広いので、何とかでき

ないものか、と祈念する。

 ご本尊は薬師如来。その御真言があった。



「おん ころころ

 せんだり まとうぎ そわか」

 全く意味が分からず。



 立ち樹も枯れている。

 敷地内に、「白山神社」



 社殿にも参拝。

 随身門も有り。




 残念ながら、芭蕉の句碑は見当たらず。


「あら まっちゃ 」!

2018-04-29 08:44:48 | 日記
「あら まっちゃ 」!

平成30年4月29日(日)

 万緑の多摩川の朝。

 清々しさはこの上なし。





 家に到着するや、先ずは一服。

これも至福の時。

 ここ17・8年は、「あら まっちゃ」の

器具のお世話になっている。

 これが、川越産の「あら まっちゃ」。



 煎茶を中に入れ、手のひらの中央を

小さなすりこぎみたいな棒にのせ、

ぐるぐるぐる・・・・・。

 すると、煎茶が、

「あらら、抹茶に」。

 茶の香りが素晴らしい!

 残った抹茶は、そのまま置いて

おいても大丈夫。湿気ったりしない。

 堅い槐(えんじゅ)の木でできている。

槐は「延寿」と縁起物でもある。



 中は渦巻き状に彫られている。

 さて、この「まっちゃ」。

「matcha」は英語の辞書に載っている。

 京都南部の山合にある、てん茶生産

日本一の和束町。

 「茶源郷」。

 そう、茶源郷として、町おこし。

 昨年度海外から4000人が訪れたそ

うだ。

 美しい茶畑と美味しいお茶をご馳走に!

ということらしい。

 「お茶も近づく八十八夜」も近く、

新茶の季節。

 先日、家内の知人から、この和束町の

お茶を、お土産に戴いた。



 ちょっと楽しみにしている。

馥郁たる香りと馥郁たるひとときを!

「あら まっちゃ」で。




句碑 20数基?

2018-04-28 08:43:05 | 日記
句碑 20数基?

平成30年4月28日(土)

 いよいよ大型連休に突入。

 真っ青に晴れた空、

 新緑か万緑の山々、

 暖かい日射し、

 香る空気、

 おだやかに流れる川、

 どこへ行ってもすゞやか。

 どこへ? どこへ?

 私は、GW明け。

 芭蕉道の仕上げ!

 道の駅も、昨年より50前後新に

増える。30年版を手に入れる。

 これをながめるのも至福の時間。

 さて、今朝も仙台榴岡天満宮に滞在。


 境内の周囲には、筆塚やいろいろな

時代の俳人の句碑が林立。

 確か二十数基の碑が祀られている。

そのうちのいくつかを良縁という

ことで紹介。



「木をはなれ 草を離れて 秋の月」

      三江会南幽 作



「道ばかり 歩いてもどる 枯れ野かな」

       日 人(あつじん)作   



雪中庵・・・俳号も長し





「世に競べ 身にくらべけり 竹の露」

       禾 月 作





筆塚と句碑



 まだまだいくつもあり。


 ここでは、句会が延々と催され、

優れた俳人が世に出たのだろう。

今でも続いているのだろう。
 

成木責?

2018-04-27 08:40:35 | 日記
成木責?

平成30年4月27日(金)

 青梅にも成木という地名がある。

 昨日、「成木責」ということを

初めて知る。

 黛まどかさんの『ふくしま讃歌』。

「『成るか成らぬか、成らねば切るぞ。』

 小正月の行事に、柿や栗、桃、梅などの

果樹を責めて、その年の豊作を祈る風習

がある。斧や鎌、鉈などを持った人が

『成るか成らぬか』と幹に少し切り目を

入れて木を脅し、もう一人が木霊に

代わって『成ります、成ります。」と

答える。

 豊熟を約束した木には、小豆粥などを

疵(きず)に塗ってやる。」

という行事。

 何と、戦前までは日本全国の農家で

行われていたそうだ。

 責めているのか、睦みあているのか?

何となく微笑ましい行事の一つ。

 ユーモアも・・・感じる。

一本一本の木に精霊が宿っていると信じ、

果樹に感謝しながら人々は暮らしてい

たんだな!

 そこで、できた黛さんの傑作句。

「責むるとも 睦み合ふとも 成木責」

 果物も美味しい福島。

 福島を通過してしまったけれど、

きっと仙台でも「成木責」の行事は

行われていただろう。

仙台の榴岡天満宮の第二弾。



 平成23年3月11日に発災した

東日本大震災により被災、御社殿の

損傷が激しかったため修復工事を行

われた。

 二年半以上の歳月をかけて修復工事が

終了。

 平成25年11月24日に本殿遷座

祭を斎行し、翌日には本殿遷座奉祝大

祭を斎行し、本殿での祭祀が再開され

た。

 平成27年3月 10日、芭蕉が

訪れた当時の趣を残していることから

「つゝじが岡及び天神の御社」として、

国の名勝『おくのほそ道の風景地』に

指定された。

 平成28年4月25日、「政宗が育

んだ伊達な文化」のひとつとして、文

化庁が認定する『日本遺産』に登録さ

れた。

 平成29年7月25日に榴ヶ岡の地に

御遷座なされてより三百五十年を迎える。

 平成29年の今年は、「御鎮座三百

五十年奉祝」の年として様々な祭典や

催しを行われている。

芭蕉と蓮二翁の句碑がある。



  芭蕉の句は、 芭蕉の句は、

「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」

 蓮二翁の句は、

「十三夜の 月見やそらに かへり花」

 その説明。





杜の都のマナー

2018-04-26 08:30:55 | 日記
杜の都のマナー

平成30年4月26日(木)

 やなせたかしさんの詩

「手のひらを太陽に」。

 替え歌として、塵ソングに。

「烏だって 鼠だって

 ゴキブリだって・・・」

 この替え歌も、お役御免となった

杜の都、仙台の日曜日。

 「ユヅッ!」さんの凱旋パレード

の後、11万人の人が沿道を埋めたの

に、回収されたゴミはわずかに6袋。

 仙台市長がマナーの良さに謝意声明。

4月の爽やかな薫風。

 日本のよさ、日本人のよさが・・・。

 その「よさに恋して」、今朝も仙台へ。

榴岡天満宮

 訪れた日は、

2017(平成29)年7月12日 13:32~。



 ちょうど御鎮座350年を祝う年に

参拝。二度目である。

 さて、この天満宮の由緒。

「仙台市の観桜地として有名な榴ヶ岡

に鎮座する榴岡天満宮は、平安時代の

天延二年(974)に山城国(現在の京都府)

に創建された。

 その後、平将春が陸奥国宇多郡(現在の福島県)

に勧請し、次に宮城県柴田郡川内村に

御遷座したのが始まりで、天文二十年(1551)に

小俵玉手崎(仙台市青葉区の仙台東照宮の地)に

三度目の御遷座が行われたそうだ。

 後に、藩祖伊達政宗公が仙台城を造営

するとき、当宮の社木(境内地にあった樹木)を

用財として切り取った為、その報賽に

慶長十六年(1611)に新たに丹塗りの御社殿を

造営したが、慶安三年(1650)徳川幕府の命令

による仙台東照宮建立に際し、その境内地東側に

御遷座がなされた。

 そして、寛文七年(1667)7月25日に

三代藩主伊達綱宗公の意思により、丹塗りの

社殿・唐門を新たに造営し

、菅原道真公の真筆(直筆の書)が奉納され、

現在の鎮座地である榴ヶ岡に御遷座が行われ、

杜の都の天神さまとして現在も広く崇敬されて

いる。

 御社殿は総欅造り、照星閣とも呼ばれ、

明治九年(1876)の明治天皇御巡幸の際に、

明治天皇が御参拝された御宮である。

 また、仙台城構築の際、有力な築城の

候補地とされ、元禄二年(1689)5月7日

には当宮に松尾芭蕉が参拝し、

「ここ玉田よこ野つつじが岡はあせび咲く

ころ也ここに天神の御社など拝て其日は

くれぬ」(奥の細道)という句を遺して

いることからも、当時の天神信仰が盛んだ

ったことを示している。

 寛政七年(1795)2月25日に落雷に

よる不慮の火災が発生し、本殿・拝殿・楼門・神

楽殿・鳥居と多くの歴史的建造物を焼失した。

 非常に残念なことではあったが、道真公が

高天原より降神なされたのでは、という

歴史的ロマンをくすぐる唯一の天満宮と

いわれている。」



(現在の御社殿はその頃の再建)