貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

歌枕「をぶちの駒」

2018-06-30 09:00:58 | 日記
歌枕「をぶちの駒」

平成30年6月30日(土)

 青梅の昨夜も熱帯夜。

 扇風機の音を寝枕にして・・・。

ぐぅっと寝ては目覚めの繰返し。

 今朝、テレビで,「プールで目が赤く

なるのは?」を興味深くみた。

「塩素」ではなく、「アンモニア」。

 誰かがおしっこをしているというのだ。

ちょっとびっくり!

 メダリスト達も水泳中のおしっこを

淡々と話している。

 急冷の体の変化や発信されることも、

証明していた。

 全くの勘違いを訂正された。

 さて、今朝も石巻。

零羊崎(ひつじさき)神社 参拝。

2017(平成29)年 7月14日 14:15~

 これが社殿。

二礼二拍手一礼に、お礼と感謝と祈願!

 石巻の指定文化財の説明碑がある。

 これは、初物!



 創建年代は不詳。

 安永元年(1772年)の『封内風土記 巻之13』

[1]では、応神天皇の勅によって

西国から湊邑竜巻島(現在の牧山)に

鎮座したと述べている。

「涸満瓊別神(ひみつにさけのかみ)」と

いう神名を賜り、東奥鎮護の神として

牡鹿郡龍巻山に祀られたと伝わる。



 ここの阿吽の狛犬もとぼけた可愛さ!





 神社名の「零羊崎(ひつじさき)」は

涸満瓊別神にちなみ、龍巻山は龍の字が

取り除かれて「牧山」と呼ばれるように

なったそうだ。

 平安時代に、馬の牧場が歌枕になった

もので、「をぶちの駒」として用いられ

たそうだ。



 後撰集に、詠み人不祥の歌

「みちのくの をぶちの駒も 野飼ふには

 荒れこそまされ 懐くものかは」

の碑が 奥の細道紀行300年記念

に建立される。

ここから見える石巻も絶景!!!!




梅雨の渡しもそうそうと・・・。

2018-06-29 13:07:26 | 日記
梅雨の渡しもそうそうと・・・。

平成30年6月29日(金)

 久し振りに夜半のテレビを観た。

今朝は、いつもどおりの起床だが、

ちょっと朦朧?

 東京は梅雨明けとのこと。

 昨日梅雨の渡りで、翌朝には

「梅雨の渡し」も結末となる転回。

 眼玉が飛び出しそう!?

 袖の渡しの続き・・・。





 大嶋神社には鐘楼がある。

 神社に鐘楼?      

 これは、江戸時代に寿福寺という

お寺がこの境内にあり、その名残

だそう。

 津波にも耐えたようだ。   

 袖の渡しは、常緑の松に囲まれ

東屋があった渡し場であったが、

津波で松も東屋も流され、枯れた松

が残っていた。 

   

 道標には、石巻街道、金花山道、

一関街道となっている。

 説明によると、

「石巻街道は、仙台城下と石巻を

結ぶ道で、この街道から北部への道

として、涌谷・登米道、気仙道が

分かれていた。

 金花山道は、石巻から山鳥に至る

道で、金華山への参詣の道として

利用された。

 一関道は、石巻から登米を経て

一関(岩手県)に至り、奥州街道と

接続する道でした。」

とある。



さて、「袖の渡し」の先端の松の

木の下、川の中に「石の巻き石」が

見えるそう。

仙台藩が編纂した封内風土記

(ほうないふどき)には、

「古来伝えられた説によれば、地元

の人が(石巻石)と呼ぶ巨石が、

住吉社の前にあり、形が烏帽子に

見える。

 その石の周りに水の渦が回って

自然の紋ができ、物を巻いたように

見えるところから

「石旋/イシノマキ」

と呼ばれるようになり、

そこから地名が生まれた――。」

という。

津波で枯れた松の横、川の中に見える石が

、地名の由来となった巻き石。

 今回は、数多い石碑の読み取りや

復興の実情に気をとられてしまった。












梅雨の渡り

2018-06-28 08:54:19 | 日記
梅雨の渡り

平成30年6月28日(木)

 梅雨明けの早い年は、7月1日だそう。

 「正直に梅雨雷のひとつかな」という

一茶の句もあれば、

「万雷が島を包みて梅雨戻る。」という

尾崎康一さんの句もある。

 梅雨明け、さあ、どうなるかな?

 「梅雨が明けたら・・・・。」

何て暢気に歌っている私もいる。

 今朝も石巻。

石巻市: 住吉(大嶋)神社参拝

  

 2017(平成29)年 7月14日 13:50~

 通称は住吉神社。

 鎮座地名も住吉町。祭神も住吉神。



 社前の川岸に「袖の渡り」という名所

がある。



 北上川対岸への渡し船が出ていた

場所で、歌枕として有名らしく、

芭蕉も当地を訪れている。

 河合曾良の旅日記に、

「帰りニ住吉ノ社参詣。 袖ノ渡リ、

鳥居ノ前也。」と記されている。

 芭蕉は、「おくのほそ道」の石巻

の項で、

「~ 終に路ふみたがえて、石の巻

という湊に出。・・・・。思ひかけず

斯かる所に来れる哉と、宿からんと

すれど、更に宿かす人なし。

漸(ようよう)まどしき小家に一夜を

あかして、明(あく)れば又しらぬ道

まよい行(ゆく)。

 袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱

はらなどよそめにみて、遥かなる堤を

行く。・・以下省略」

と述べている。



句碑もいろいろ。説明板がほしいなあ!






つづく。

石巻の繁栄に驚く芭蕉

2018-06-27 08:41:15 | 日記
石巻の繁栄に驚く芭蕉

平成30年6月27日(水)

 昨夜半寝室内は29度前後。

扇風機を回しつつ眠りにつく。

 幾度となく目覚める。

 暑さのせいかな?

 完全復興に向け,前進する石巻!

 元禄時代の繁栄に芭蕉は目を見張

ったという。

 ここは、マネキの鹿島御子神社。



 
 参拝後、芭蕉の句碑探索。

 元禄2年(1689)、松尾芭蕉と曽良が

訪れる。

 石巻の繁栄ぶりに驚いたようだ。



芭蕉の句碑の説明



芭蕉の句碑だ。



芭蕉の句は、

「雲折々 人を休める つきみかな」 。
 
 ここは、桜の名所としても有名。

 小野寺鳳谷(1810~1866)による

『仙臺石巻湊眺望之全圖』にも石巻の

繁栄ぶりが、パノラマ風に描かれてい

る。

 大正初期に公園整備され、桜の他

つつじで彩られる憩の場として今日

に至る。

吉田松陰・志賀直哉、井伏鱒二、

廣津和郎、宇野浩二等も眺望を楽しみ、

芭蕉、保原花好、石川啄木、宮澤賢治、

斎藤茂吉、種田山頭火、釈迢空、

新田次郎、山形敞一等、多数の文学碑や、

川村孫兵衛、芭蕉曽良像等の像が建て

られているというが・・今はなき・・・。

地震の被害?

 なお、石巻という地名は、天足別命

と阿佐比古命の乗った船が現在の石巻

の沿岸へ到着し停泊した時、錨が石を

巻き上げたという伝承からだそう。

 これは?





マネキンならぬマネキ

2018-06-26 08:35:02 | 日記
マネキンならぬマネキ

平成30年6月26日(火)

 夏が大好きな私は、昨日の猛暑も

午後から体も慣れ、暑さへの意欲も

湧出。

 運動中に「水を飲んではいけない。」

とか、「体を水の中につけるのは肩に

良くない」と信じ,野球の練習に

ひたすらの中学時代に、培われたよう。

 今度は,芭蕉が徘徊していない鳥取、

島根へ句碑探索に行く計画,その下調

べに拍車がかかる。

 マネキンならぬマネキ?



 さあ、松島の三景展望台から石巻へ、

石巻市島市: 鹿島御子神社

2017(平成29)年 7月14日 13:20~



全部青い空。




またの名を「日和山神社」という。



参拝



 御祭神として軍神・武神・剣神・

雷神・地震鎮めの神とされ、鹿嶋市

の鹿島神宮の祭神である武甕槌命

(たけみかづちのみこと)と、武甕

槌命の御子神である鹿島天足別命

(かしま あまたりわけのみこと)を

祀っている。

 日和山は全国に約80カ所あると

いわれる。 




 江戸時代千石船の出入航の日和を

見る場所や航路目標の重要な山。

 日和山東南の中腹に「マネキ」と

いう航路を指示する場所があったと

いう。 

高さ56mの北上川河口に位置する

孤立丘に建立。



絶景でもある。

つづく。