貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

難所!小夜の中山

2019-08-31 09:55:00 | 日記

難所!小夜の中山

令和元年8月31日

 久し振りにまた佳き書と

巡り遭う。

 吉田篤弘さんの、

『うかんむりのこども』。

ちょっと寄り道。

「三人寄れば」。

「あら、春ちゃん」

「厭ですよ、春恵さん。

春恵さんに、春ちゃんって

呼ばれると、何だかくすぐっ

たくて」

「あら、どうして?」

「春恵さんだって、昔は、

春ちゃんと呼ばれてたんで

しょう?」

「ちょっと春菜さん、昔って事

はないでしょう。今だって、時々

春ちゃんって呼んでくれる人が

いるんですから。」

ということで二人は「春ちゃん」

呼び合うことに。

 そこへ、もう一人春香さん。

三人とも、

「春ちゃん」。

 春ちゃんトリオの誕生!

 女三人寄ると、姦しい。

 その字が話題となる。

 そして、三人口をそろえて、

「品」へ。

 三回くらい言わないと商品と

しては認めてもらえない事を悟る。

 「耳が三つで・・?」

そう「囁く」

 三つの耳で聞くのが「囁き」

他に?

 日が三つ。

 「水晶」の「晶」。

 お日様が三つ。

「きらきら輝いてるってことね。」

という話へ発展。

 さあ、夏の大晦日。

 太陽は隠れているが、今日も

きらきら輝くぞ!

 

 急勾配の多い小夜の中山は、

東海道の中でも箱根と並ぶ難所。

 小夜の中山峠の中腹に位置

する古刹が久遠寺。

 「くおんじ」ではなく、

「きゅうおんじ」。

 山内一豊が関ヶ原合戦のきっ

かけとなる会津上杉征伐の軍を

大坂より進めてきた家康を

もてなした茶亭の跡や、

その礼に家康が植えたとされる

五葉松が残っている。

 境内は市の文化財。

 「夜泣き石伝」説ゆかりのお寺

としても有名。

「その昔、久延寺に安産祈願にきた

妊婦が中山峠を越える途中、山賊に

襲われて殺される。  

 お腹の切り口から生まれた赤ん坊

を助けるため、母の魂は傍らの石に

のり移って泣く。

 泣き声に気づいたお寺のお坊さん

に拾われた赤ん坊は、お乳の代わり

に水飴を与えられ、大事に育てられ、

その子供は立派に成長。

 母の仇を討った。」

という話。

 屋根付きでしっかり守られている。

小夜の夜泣石。

 ここも、心を込め参拝!


気色調う小川のお地蔵さん

2019-08-30 09:02:39 | 日記

気色調う小川のお地蔵さん

令和元年8月30日

 久し振りに焼津市へ。

 海蔵寺参拝!

 山門は、幼稚園併設で、封鎖

されている。

 丁度休憩時間で園児達が元気

よく遊んでいる。

 見守っておられる先生に、

「参拝したいのですが・・・」

と声をかけると、

「どうぞ!」と

開けてくださる。

 園児達とも挨拶を交わしながら、

参拝。

 本堂左の松2本とドウダン

ツツジの処に芭蕉句碑がある。

 

句は、

「春もやゝ 気色とゝのふ

     月と梅」 はせを 。

 安政6年(1859)、焼津港から

讃岐へ向かう途中遭難した福寿丸

で、ただ一人一枚の板子にすがっ

て2日2晩泳ぎ続け、助かった

のが天野甚助さん。

 甚助さんはその板子をいつも

お助けを祈っている小川のお地蔵

さま(海蔵寺)に奉納。

 八雲は焼津で天野甚助老人から

この体験談を聞き、「漂流」

(『日本雑記』に所収)という作品を

書き残す。

 この板子は、長い間海蔵寺に保存

されていたが、現在は焼津小泉八雲

記念館に展示。

 室町時代のお話が

「小川(こかわ)の地蔵」。

 沖の海で毎晩なにか光るもの。

ある日、吉平という漁師が鰯を

とるために網をしかけ、引き揚

げる。

 ずっしりと重たいものが

網にかかったのが、1メートル

程の木のお地蔵さん。

 急いで引き揚げ、合掌。

 小さな仮のお堂を建て祀る。

 お地蔵さんの頼みで海蔵寺に

祀られる。

 村人の願いを叶え、後に

川除地蔵とも呼ばれる。


川止めに遭う盲目の娘深雪(朝顔)さん

2019-08-29 09:36:01 | 日記

川止めに遭う盲目の娘深雪(朝顔)さん

令和元年8月29日

 寝過ごす朝、やっぱりすっきり

するのに時間がかかる。

 川留めの心境に近い?

 浄瑠璃でおなじみの

「朝顔日記」。

 恋する人を慕って流浪する

盲目の娘深雪(朝顔)が大井川

のほとりで川留の悲運に泣く

が、その時、奇跡的に目が治る

というくだりがある。

 その時初めて目に映ったのが

大きな一本の松。

 このことから地元では、

大井川畔の巨松を「朝顔の松」と

名づける。

 公園の中にある。

 傍に、巌谷小波の句碑もある。

「瓜音は 松に聞けとや 

      春の風」

 あの瞽女「深雪」の爪弾く三味の

調べは、この老松に聞いてくれ、

と云うように松は春風に吹かれ

ていることよの意。


川越制度の誕生から廃止

2019-08-28 08:40:20 | 日記

川越制度の誕生から廃止

 令和元年8月28日

 今週は曇天で過ごやすい。

 残暑は9月にかな?

「箱根八里は馬でも越すが 

 越すに越されぬ大井川」

 大井川 川越(かわごし)遺跡は、

4度目かな?

 江戸時代、旅人が大井川を渡るため

には、人足に肩車をしてもらうか、

輦(れん)台(だい)という御輿のような

乗り物に乗り、担いでもらうかだった。

 その「川越し」の料金所(川会所)

や、人足の待合所(番宿)などの

風景を再現したのが、この遺跡。

 昭和41年8月1日に国指定史跡に

指定される。

 慶長6年(1601)、徳川家康は

東海道に宿駅伝馬の制を定め、

街道整備を実施。

 しかし、大きな河川には橋が

ほとんどかけられず、旅人は船か

徒歩で渡るしか方法はない。

 特に大井川は渡船も禁止され、

流れも急なので不慣れな旅人が

渡るには危険なため、両岸では

川越しの手助けを生業とする人々

が現れる。

 そして、街道の通行量の増加と

ともに渡渉の方法や料金などを

統一する必要が生じる。

 元禄9年(1696)に川越制度が

できる。

 その管理のために川庄屋の役職と、

業務の拠点となる川会所を設置。

 最初の川庄屋は、島田代官の野田

三郎左衛門から任命された橋爪

助左衛門と塚本孫兵衛(如舟)の

二人。

川合所には、丁度説明を受けている

観光客の集団が見える。

 川会所には、川庄屋のもとに年行事、

待川越、川越小頭などの役が置かれ、

その日その日の水深を計り川越賃銭

を定め、大名から庶民まですべての

通行人に対する渡渉の割り振りや、

諸荷物の配分など日々の運営を

はかる仕事が行われたそう。

 川越しは明治3年(1870)に、

大井川の通船が許可されたことに

伴い廃止される。

 現在の川会所の建物は安政3年

(1856)に建てられたもので、

川越し制度廃止後は大井川通船の

事務所や学校の校舎など様々に利用

されその位置も転々とする。

 昭和41年(1966)8月に島田宿

大井川川越遺跡が国の指定を受けたの

に伴い、昭和45年(1970)8月、

現在地に移築されるという経緯。

 私の住んでいる青梅でも多摩川橋

の処に、舟場があり、友田と小作の

行き交いは舟だったそう。

 今も 舟場という名称は残っている。

 橋があることによって、明治までは

いろいろなデメリットもあったと

いうこと。

 政体の絡みだが・・・。

 


川止め3日間の比喩

2019-08-27 08:43:03 | 日記

川止め3日間の比喩

令和元年8月27日

 大井川で川止めになる。

 川止めの宿。

 今は、お琴など習い事の

練習場などでも活用されて

いる。

何日も川止めになると、

何か娯楽的なことも催されて

いたのかな?

 風雨も強いので、先ず無理

かな?

 いろんな処からの旅人の

交流などは等色々思いを巡らす

事もできる場所。

 今は、休憩や食事などできる

風流の店芭蕉庵もある。

 信楽焼も展示されている。

 さて、博物館のもう一つの

芭蕉の句碑。

「たわみては 雪まつ竹の 

     けしきかな」 

        はせを

 頭を垂れしなった竹をみて、

まるで間もなくやってくる

雪の重みを、感じ取っている

ようだという意。

 元禄7年5月中旬、島田宿で

風雨となり3日間川止めと

なった時に読んだ句の中の

一句。

 頭を垂れしなった竹を見て、

やがて雪の季節を、雪の重みを

感じとっていると、喩えている。

 川止めに合う芭蕉の心境が

見事に比喩されているのに

ただただ舌を巻く朝。