貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

忍者になるのも・・・!?

2019-04-29 10:04:47 | 日記

忍者になるのも・・・!?

平成31年4月29日(月)

 今朝は、園芸センターに直行。

野菜の苗を購入。家内の要望でも

あるタケノコも仕入れる。

 8時半開店。10分前に着いたが、

既に10人ぐらいの方が並んで

待っておられた。

 レジで、2年半ぶりかな?

知り合いにばったり!

 「うわー、良いゴールデンウイーク

になりそう!!!」

と歓迎され、私も幸せ感一杯となる。

 伊賀忍者!

 ここは、伊賀流の忍者博物館前。

 忍者の格好した家族やアベック、

外人さんの忍者姿も多く見られ、

なりきっている人もまた妙味で

あった。

 伊賀忍者の里に来ている己も

忍者という錯覚に陥るようである。

 公園の受付の処で、衣装替えが

できる仕組みになっており、

訪れる人が皆楽しめる工夫。

 400円の別料金を払い、

忍者博物館前での忍者ショーの

最終を見ることができる。

 伊賀忍者特殊軍団「阿修羅」という

5人程度の演技。

 手裏剣も本物で迫力もあり、

子どもたちが怖がらないように、

また英語でも話し、笑いを

大いに呼び、楽しいひとときを

過ごすこともできる。

 


白鳳城天守閣に私財投入

2019-04-28 08:50:13 | 日記

白鳳城天守閣に私財投入

平成31年4月28日(日)

 ひと日ひと日が時代の移り

変わりを運んでくれる。

 今朝は、暖房恋しく、暖房の中

に身をおく。

 お日様がやっと顔を出し、

これから少し暖かくなりそう。

 うれしいなあ!

 さあ、伊賀上野城へ。

 1585年(天正13年)築城。

 天守閣が倒壊。

 白亜三層の城は、「白鳳城」という

雅名もある。

 天守閣は1935年に、地元の名士

川崎克氏が私財を投じて、純木造の

天守閣を再建した。


 また、大阪城と並ぶ高石垣でも

有名である。

 色紙で格天井の装飾。

青梅に居を構え、玉堂美術館もある、

河合玉堂の色紙もある。

 椰子の樹木の絵である。

 天守閣からの伊賀市の町並みも

きれいに見え、周囲もまたきちん

と整備され、どこから見ても

優美と優雅さを醸し出す城で

ある。

 赤松の花が咲く時期なのか、

 かわいい花を初めて見ることも

でき、また、倒れてもなお生き

続ける松も初めて見ることもできた。


古郷や 臍の緒に 泣としのくれ

2019-04-27 09:12:27 | 日記

古郷や 臍の緒に 泣としのくれ

平成31年4月27日(土)

 あっという間に大型連休突入!

毎日サンデーの私には縁の無い話。

 事故や事件のない楽しい休みに

なることを祈るのみ!

古郷や 臍の緒に 泣としのくれ

 芭蕉の句。

 さて、芭蕉翁記念館。

 昭和34(1959)年、神部滿之助

氏の篤志寄付により俳聖芭蕉翁を

顕彰する事業のひとつとして建立。

 館内の芭蕉文庫には翁の真蹟を

はじめ近世から現代に至る連歌俳諧

に関する資料等が数多く保存され

ている。

 

 芭蕉のふるさと伊賀への思い

は、強い。

 特に、母を亡くしてからは・・・。

 これは、たぶん芭蕉だけでなく、

故郷から離れて老いを迎えんと

する人が抱く故郷感なんだろう。

 芭蕉は、『千鳥掛』に、

「代々の賢き人々も、古郷はわす

れがたきものにおもほへ侍るよし。

我今は、はじめの老も四とせ過て、

何事につけても昔のなつかしき

まゝに・・・。

 古郷や 臍の緒に 泣としのくれ 」

という句も添えていることから

よく分かる。

 芭蕉が江戸へ下ってからも、各旅

ごとに伊賀の実家へ度々帰郷してい

る。

 大別すれば、

1回目 延宝4(1676)年

2回目 貞享元(1684)年から同2年

「野ざらし紀行」の旅中

3回目 貞享4(1687)年から同5年

「笈の小文」の旅中

4回目 元禄2(1689)年から同4年

「奥の細道」の旅を終え、

 近畿巡遊の旅

5回目 元禄7(1694)年 最後の旅 。 

 芭蕉は旅の途中、伊賀の実家を拠点に

京都・奈良・大津等へ赴き、門人たち

と交流を重ねている。

 保守的な貞門俳諧が主流の伊賀俳壇に

新風を吹き込み、伊賀蕉門の形成に

至るのは『笈の小文』の旅の帰郷時。

 友田良品・梢風夫妻の招待、岡本苔蘇

の瓢竹庵での止宿、旧主藤堂良忠公の息・

良長(探丸)公の別邸における花見の

宴での句の唱和をはじめ、各所で

盛んに俳席が催され歓迎されている。

 ここに、芭蕉の故郷伊賀に伊賀蕉門

の存在がクローズアップされる理由も

潜む。

 伊賀蕉門の存在を世に示したのが

『猿蓑』(元禄4年刊)で、一句のみ

の作者が大半を占めるとはいえ、

入集者は半残・土芳・風麦はじめ

全国一の29名を誇る。

 その俳風は、小児のような無心な

態度から生まれた無邪気でユーモラ

スな詩趣で、去来は『去来抄』において

「あだなる風」と評し、伊賀蕉門の

特色としているとともに、

「軽み」の到達とみている。 

 芭蕉は晩年、伊賀の俳人たちに「

軽み」の指導を行っているが、

芭蕉の意を正しく理解し、作品に

具現した門人は土芳・猿雖ら一部

の人たちである。

 元禄7(1694)年8月15日、

伊賀の門人達の合材により一棟の

草庵が芭蕉に贈られる。

 芭蕉は転居祝を兼ね、仲秋の名月

に句会を催す。

 心から門人たちをもてなしている。  

 その折に芭蕉自ら筆をとった

「八月十五夜月見の献立懐紙」は、

今日に伝わっている。

 それから2か月後の10月12日、

芭蕉は大坂で病没する。

 芭蕉没後、伊賀蕉門の中心となった

のが服部土芳で、土芳は蓑虫庵を拠点に

芭蕉の俳諧を後世へと継承。

 土芳の最大の功績は、芭蕉晩年の

俳論を『三冊子』にまとめ完成した

ほか、芭蕉生涯の全作品を集大成。

 『蕉翁句集』『蕉翁文集』『奥の細道』

の三部書等を完成し、亡師の霊前に供え

ている。

 芭蕉はすぐれた俳諧師であるが、

師芭蕉の教えを忠実に守り、後世へと

「蕉風俳諧」を伝えた土芳の存在を

忘れてはならない。

等々と、「芭蕉翁顕彰会」はまとめて

いる。

 伊賀上野城みたさも募り、先を急ぐ

ことにする。


 


藤と躑躅と木香薔薇

2019-04-26 09:23:41 | 日記

藤と躑躅と木香薔薇

平成31年4月26日(金)

 「春ばて」気味の朝、

こんな時は咲き誇りつつ・・・の

花で一息つこう。

 藤棚はないが、多摩川橋のたもとに

咲き始める藤の花。

 そして、近所の畑に今年も見事に

咲き始める。

 品のある薄紫の藤の花。

 そして、ピンクの藤の花もその近くで

仲良く咲き誇る。

 垣根代わりの木香薔薇も咲き始める。

 そして、一番の盛りは、躑躅。

存在感あり。

 皆近くで楽しめるのもいい!!!


芭蕉の履歴概略そして俳句

2019-04-25 08:53:38 | 日記

芭蕉の履歴概略そして俳句

平成31年4月25日(木)

 伊賀上野公園内。

 芭蕉翁記念館に入館。

 芭蕉の生育歴・履歴を垣間見る

ことにしよう。

~ 芭蕉の生い立ち ~

1644(正保元)年  伊賀国阿拝郡

の松尾与左衛門の次男として生まれる。

1656(明暦2)年 13歳 父逝去

1662(寛文2)年  19歳 

藤堂新七郎家の若殿良忠(俳号 蝉吟)

に台所用人として仕える。

 2歳年上の良忠は、蝉吟と俳号を

つけていたが、どう も城址に住め

ない若殿で、城址の麓にある屋敷で

過ごしたようである。

 若くして俳諧をたしなみ、城下の

遊俳たちを集め、席を設 けるのを

唯一の愉しみにしていたようでる。

 蝉吟と芭蕉は親友以上の仲で

あったともいわれている。

 その蝉吟も25歳の若さで他界

する。

 芭蕉は23歳。武士になる道も

閉ざされる。奉公先を辞した芭蕉は

京都の季吟を頼ってしばらく住み

込みの奉公をしていたようである。

 芭蕉は京都と伊賀を往来しながら

京都五山文学の禅寺で学問に打ち

込んだらしい。

 俳号は宗房と名乗り、次の句を

詠む。

「春やこし 年や行きけん

           小晦日」

1672(寛文12)年 29歳 

『貝おほひ』を上野天満宮に奉納

する。 そして、江戸へ。

1677(延宝5)年 34歳 

俳諧の宗匠となる。その2年前、

俳号を「桃青」と改める。

1680(延宝8)年 37歳 

俳諧の宗匠をやめ、日本橋から

深川の庵に移る。

「櫓の声波ヲうって腸(はらわた)

    氷ル 夜やなみだ」

 失意のどん底に落ちる。

 同郷の内弟子桃印の失踪。

 出国後5年以内に一度藩に戻るという

藩の掟を破った桃印は、芭蕉の内縁の

妻寿貞と不倫関係にあり、失踪。

桃印の死ということで、取り沙汰され

ないですんだようだ・・・。

1682(天和2)年 39歳 

江戸の大火で、庵も焼ける。

 翌年新たな庵も造られ、甲斐より

移り住む。

1683(天和3)年 40歳 

母が故郷で亡くなる。  

1684(貞享元)年 41歳 

『野ざらし紀行』の旅に出る。

母の墓参りも兼ね伊賀に帰る。

「野ざらしを 心に風の 

       しむ身かな」
             
年末伊賀  

「古里や 臍のをに泣 

        としのくれ」

翌年の初め 新大仏寺に詣で、

「丈六に 陽炎高し 

         石の上」

1685(貞享2)年 42歳

伊賀から奈良・京都、大津・

名古屋・木曾路を通って

江戸へ帰る。

1686(貞享3)年 43歳    

「古池や 蛙飛び込む 

          水の音」

の句ができる。

1687(貞享4)年44歳 

曾良・宗波と鹿島神宮へ詣でる。

(「鹿島紀行」の旅)

「笈の小文」の旅へ出立し、

名古屋を経て伊賀へ到着。

「古里や 臍のをに泣 

        としのくれ」

1688(元禄元)45歳 

八景亭(様々園)藤堂良忠の子

良長に招かれる。

「さまざまの事 おもひ出す

          桜かな」

 伊勢神宮へ参詣、万菊丸(杜国)

と吉野へ向かう。

 越人と一緒に名古屋から信州更科へ

「更科紀行」の旅に出る。

1689(元禄2)年 46歳 

 曾良を伴い「おくのほそ道」の旅

へ出て、大垣に到着。

1690(元禄3)年 47歳 

 大津の幻住庵に入る。

1691(元禄4)年 48歳 

伊賀での句、

「山里は 万歳おそし 

         梅の花」

が詠まれる。

『猿蓑』刊行。

「初しぐれ 猿も小蓑を 

       ほしげなり」

1692(元禄5)年 49歳  

 三度目の芭蕉庵へ入る。

1694(元禄7)年 51歳 

『おくのほそ道』清書本が完成。

 伊賀に帰郷、奈良を経て大阪

の地で病気になり、亡くなる。

  以上が彼の履歴概略である。

 40代の10年間は凄まじい生き方

ともいえる。

 母親との別れが、ふるさと伊賀を

江戸と往来。まさに俳聖!