貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

ついの世界へ 推敲の極み ⑤

2021-01-31 16:06:48 | 日記

ついの世界へ 推敲の極み ⑤

  令和3年1月29日(金)

 『野ざらし紀行』では、

「馬上吟」として、

 道のべの 

     木槿は馬に 

              くはれけり

  「廿日餘の月かすかに見えて、

山の根際いとくらきに、

馬上に鞭をたれて、数里

いまだ鶏鳴ならず。

 杜牧が早行の残夢、小夜の中山に

至りて忽ち驚く。」と本文。

そして、

馬に寝て

   残夢月遠し

      茶のけぶり

という句が続く。

 今日は、この馬の句の推敲をみる。

「馬上で寝てしまい、その夢から

醒めると、有り明けの月が遠く

の空に残り、里では朝茶を煮る

煙が立ち上っている、の意。

 貞享元年の句である。

 晩唐の詩人杜牧の「早行」にある

「鞭を垂れて馬に任せて行く。

数里いまだ鶏鳴ならず。(中略)

月が暁に明らむ遠い山に浮いて

いる。」

という詩と似ており、杜牧の詩から

想を得たものというのが定説らしい。

 初句は、

馬上落ンとして残夢残月

     茶の烟

  カタカナの「ン」を使ったところが

芭蕉らしく面白い。

 平仮名は形の描写、片仮名は動きの感覚

があると、師匠(?)は云う。

 落ちそうになり、吃驚して目覚める

様子が如実。

 カタカナ使用の効用である。

 そして、推敲。

馬上眠からんとして残夢残月

     茶の烟

  「眠からんとして」に推敲。

状況が正確に言い表している。

 眠くて、ちょっと眠ったときに

短い夢を見た。

 夢が消えて現実の月が見える。

茶の烟りも見える。

 馬から落ちずに風雅な景色を見る

ことができた良かった。

  しかし、「残夢」と「残月」の並列が

気になる。

 夢と月は別世界の光景だ。

 夢という非現実、

「月」や「烟り」は現実のこと。

 そこで、「残月」は「月遠し」に、

「烟り」を平仮名に。

馬に寝て 

  残夢月遠し 

    茶のけぶり

  お見事な推敲である。

 尊んだ西行の短歌、

「年たけて

   また越ゆべしと

     思ひきや

      命なりけり

       さやの中山」

の小夜の中山に至るときに、

遠い昔の夢と現実の遠い小夜の

中山の月とが繋がっている

素晴らしさ!!

 すごいとしか言い様がない。


ついの世界へ 推敲の極み ④

2021-01-28 14:36:28 | 日記

ついの世界へ 推敲の極み ④

  令和3年1月27日(水)

  擬音には、動作の表現だけで、内面の

描写がないから文章の品が落ちると、

主張したのは志賀直哉さん。

 逆に、うまく使ったのが、

宮沢賢治さん。

 俳句の世界で巧妙に擬音を使った

のが、芭蕉さんかも。

馬ぼくぼく 

  我をゑに見る 

        夏野哉

   この句は、芭蕉が親しい人の絵画に

画賛した句である。

 当時、江戸に大火が起こり、深川の

芭蕉庵も類焼する。

 甲斐のの門人の家に一時避難。 

 そこで、親しい人の絵画に画賛した

という句という。

 初句は、

夏馬の 

   遅行我を絵に 

      見る心かな

   夏の日射しの中を馬は暑さに

だらけた様子。

 ゆっくり歩いている。

それを「遅行」と漢字表現するが

何となく堅苦しい趣。

 ちょっと気に入らず手直しとする。

夏馬ぼくぼく 

   我を絵に見る 

      こゝろ哉

  「ぼくぼく」という平仮名の

重ね言葉を活用。

 馬の様子、馬上のゆったりした

気分をうまく表現する。

 「ぼくぼく」に合わせて

「心」を「こゝろ」と平仮名に。

ぴったし!の感。

  しかし、いまひとつ。

夏馬ぼくぼく 

  我を絵に見る 

      茂り哉

   のんびりと馬で行くのは、田舎道。

緑の茂みがある。

馬の赤い色と緑が映え合って

美しさを増す。

 しかし、今度は緑の茂みの風景が

強くなり、ぼくぼく感が弱くなった

感じ。

馬ぼくぼく 

  我を絵に見む 

      夏野かな

   熱い日射しと広い野原を

組み合わせて「夏野」にする。

 「我を絵に見む」とするが、漢字が

並列。重苦しさが漂ってしまう。

 しかも「見む」と文語調にするが、

堅苦しい。

馬ぼくぼく 

  我を絵にみん 

     夏野哉

  「見む」を平仮名にして「みん」。

涼しくなり、風通しもいい。

「絵」を「ゑ」に変え、

「みん」を「見る」にした方がと。

馬ぼくぼく 

   我をゑに見る 

       夏野哉

 推敲への執念が、やはり秀句を生む。

 芭蕉もやれやれか。

 私も漢字と平仮名、漢語と和語など

随分使い分けすることも日常。

 長年子どもたちと一緒にすごして

きたこともあり、

「子供」という漢字をみ嫌い、

「子ども」。

「子供たち」も「子どもたち」。

 漢語よりも和語を使うことが50代頃から

増えてきたのは、柔らかさ、しなやかさが

自分のこころを占めるようになって

きたことによるかも。

 だから、芭蕉の推敲の執念は

理解できる。

 しかし、この執念と見事な推敲感覚

には、脱帽の域かな。

 惚れちゃうねえ!!!!


ついの世界へ 推敲の極み ③

2021-01-26 15:29:46 | 日記

ついの世界へ 推敲の極み ③

令和3年1月26日(火)

深川冬夜ノ感

櫓の声波ヲうって 

    腸氷ル 

      夜やなみだ

   十・七・五の字余り句。

上句/中七・下五の二段構造により

漢詩句的表現を追求した句。

 腸も凍るような寒夜、櫓に波の

当たる音を聞くにつけ、なぜだか

涙が催して仕方がないの意。

初句は、

櫓の声に 

   はらはた氷る 

       よやなみだ

  「櫓の声」と「はらはた」、

漢字と平仮名が表現を相殺し弱い。

均衡をもたらして……

と改作。

櫓の声や 

    腸氷る 

     夜はなみだ

均衡はとれたが、真意が伝わら

ない。平凡かな。

櫓声波をうって 

   腸氷る 

         夜は涙

  漢詩調。

 漢字と漢字が喧嘩している。

 喧嘩の分表現が弱くなる。

櫓声波を打て 

   はらわた氷る 

         夜は涙

  「はらわた」にする。

「櫓声」が弱い。

  擬人化して、「櫓の声」と変える。

櫓の聲波を打て 

       腸氷る 

          夜や涙

 淋しく、貧しい暮らしの芭蕉庵。

冬の夜寒、慢性の空腹、腸が櫓に

波が当たる音を聞くにつれ、

孤独感も増幅。

自然と涙がほとばしるという光景を

更に……と。

 平仮名と漢字をカタカナという日本語

のよさを俳句の世界にまで果敢に採り

入れる。

 芭蕉の皮膚が感じた寒さと

聴覚で捉えた音が、船頭の活発な櫓こぎ、

冷温感、聴覚をも一体化させる感じ

もしないでもない。

櫓の声波ヲうって 

      腸氷ル 

       夜やなみだ

   推敲の末の秀句である。


ついの世界へ 推敲の極み ②

2021-01-25 17:22:00 | 日記

ついの世界へ 推敲の極み ②
  令和3年1月25日(月)
  山寺や 

  石にしみつく 

         蟬の声

  これが山形の立石寺の曽良にメモらせた

最初の句。

 蟬の声が石にまとわりついている感じ。

 長年風雨に晒され、孤独な石は、

喧噪とした蟬の声を聞いている

のだろうか。

  余命いくばくもない蟬は、迫り来る

死をさびしく思い鳴いている。

   蟬と石とが表出する淋しさだ。

 そこで、推敲の句。

   淋しさの 

    岩にしみ込 

        せみの聲

 しかし、さびしいのは蟬と石だけ

ではないと芭蕉は思い返す。

さびしさや 

    岩にしみ込  

        蟬のこゑ

  山寺も、石も蟬も、 森羅万象

全てに淋しさ浸透しているもの。

  「淋しい」、「寂しい」という人の

感情表現では何か物足りない。

  そこで、「さびしさや」と平仮名を

充てるが、やはり違う。

   鳴き止んで死んでいく儚い小さな

蟬の命に思いを馳せる。

  石も同じ。浸食されていつかは滅し

ていく。

  生者必滅!自然の消滅はさびしいが

静かなものなのだ。

 この静かさは、「閑」というものだと

気づいたのだろう。

  「 閑さや」   と切字抑え、自然の持つ

悠久の静かさを示す。

 山寺の堅固な石は岩とし、今最期の

鳴き声で岩に吸い込まれていく

蟬のドラマ、その死を弔う。

 荘子を学び、仏教をに沈潜する

芭蕉の自然観、死生観はたゆまない推敲で、

最高傑作の句になったと、

我が師(?)が説いているのだ。

 ほんに納得。


ついの世界へ 推敲の極み

2021-01-24 14:09:08 | 日記

ついの世界へ 推敲の極み

令和3年1月24日(日)

 弟子の曽良が書きとどめた最初の一句。

 山寺や 

   石にしみつく 

       蟬の声

最初の推敲句。

 淋しさの

   岩にしみ込

      せみの聲

 更なる推敲句

さびしさや

  岩にしみ込

     蟬のこゑ

そして、奥の細道では、

閑さや 

  岩にしみ入 

     蟬の聲

となる。

 明日,その推敲経緯、芭蕉の自然観、死生観を

ちょっとまとめてみることに!

 本日はここまで!