gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

デニス・ベリー監督『アンナ・カリーナ 君はおぼえているかい』

2020-11-25 00:03:00 | ノンジャンル
 デニス・ベリー監督の2017年作品『アンナ・カリーナ 君はおぼえているかい』を神奈川県厚木市のアミューあつぎの9階にある映画館「kiki」で昨日観てきました。映画撮影当時アンナ・カリーナの夫であったデニス・ベリーがアンナのこれまでの半生を描いたドキュメンタリー映画です。
 シングルマザーから育児放棄を受けた不幸な少女時代、17歳での家出、パリでのモデルデビューとココ・シャネルによる命名、多くのCM出演、それを見て彼女の瞳に一目惚れしたゴダールとの出会い、ジャック・リヴェット監督の『修道女』の上映禁止措置と措置以降の映画の大ヒット、ヴィスコンティ映画への出演、セルジュ・ゲンスブール・プロデュースによるアルバムの成功、彼女が少女時代に憧れていたミュージカル映画の本拠地・ハリウッドへの進出、歌手としての世界ツアーの成功までを描いたドキュメンタリーを、映画館で見る現在のアンナ・カリーナの映像を交えてできた作品で、あっという間の55分でした。
 見ていた感じだと、映画時代とゲンスブールとの出会い以降の歌手としてのキヤリアの時間が半々ぐらいの長さで描写されていたように思います。
 彼女は1940年9月22日に生まれ(私と同じおとめ座!)、2019年12月14日に亡くなっているので(享年79歳)、私の大好きな作曲家ミシェル・ルグラン(1932年2月24日生まれ、2019年1月26日)とほとんど同じ期間を生きてきたことになります。アンナはガンで亡くなり、ミシェルは亡くなる前の年の秋に来日し、青山のブルーノートで行った元気なライブを私は実際に見ているので、彼の方の死因はガンではないような気がしています。
 アンナ・カリーナはヌーヴェル・ヴァーグのミューズ的な存在で、今まで彼女の映画を観ている映画ファンの人はもちろん楽しめる映画ですが、彼女の存在をこの映画を観て初めて知った人も、今後彼女の映画を観てみたいと思わせる魅力に満ちた映画になっていました。
 厚木の映画館「kiki」では、今週の金曜日までで上映が終わってしまいますが(ちなみに時間帯は午後6時40分から午後7時40分です)、今後各地で今年中なら(大人の事情でそういう風になっているそうです)上映される機会があるかもしれません。上でも述べましたが、映画ファンの人なら必見の映画です。最大限のおススメマークを送りたいと思います!!

 →「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~moto

 →FACEBOOK(https://www.facebook.com/profile.php?id=100005952271135

田中登監督『江戸川乱歩猟奇館 屋根裏の散歩者』

2020-11-24 00:25:00 | ノンジャンル
 DVDで、田中登監督の1976年作品『江戸川乱歩猟奇館 屋根裏の散歩者』を観ました。

 下宿、東栄館。その屋根裏をゆっくりと這う男の影…郷田三郎(石橋蓮司)である。屋根裏の散歩にこよなき孤独の愉しみを見出した郷田の眼下では、下宿館の住人たちの秘め事がくりひろげられていた。「神」を信仰しながら、女中にいたずらしている宗教家・遠藤。女のモデルにシュールな意匠を施し、ボディペインティングする画家・美幸。そのなかでも郷田が特に見入ったのは、貴婦人・清宮美那子(宮下順子)の隠し部屋だった。そこへ彼女が入って来るや、頬に紅をつけた道化師が現われ、美那子を愛撫した。彼女は、天井の「眼」の存在に気づきながら、悶えるのだった。
 清宮邸の美那子の部屋には、「人間椅子」があった。椅子の中には、運転手・蛭田が入っていた。蛭田は美那子を愛していた。彼女は下半身をさらけ出すと、それに座るのだった。肌を感じる蛭田は喜びにあふれ、美那子は欲情した。そこへ、夫が帰ってくる。夫は椅子の上で彼女を愛撫するのだった。
 ある日、美那子は、東栄館の部屋で道化師に下腹部をゆだねていた。それを郷田は見ていた。美那子は、両股に力を込めた。道化師は、窒息死した。後日、郷田の部屋を蛭田が訪れる。車に乗せられると、清宮邸に連れて行かれるのだった。郷田と対面した美那子は、事件の一部始終を見ていた彼を「共犯者だ」といいはなった。そして、彼女は郷田の眼の前で自慰をはじめた。彼女は「眼」の虜になっていた。郷田は悶える美那子の姿を見ながら、ある「完全犯罪」を想起するのだった。
 郷田はまず寝ている遠藤の口の中に毒を垂らし、遠藤を殺す。美那子の夫は美那子によって毒殺された。美幸に郷田は自分と美那子にボディペインティングを施してもらい、その後、2人で美那子を犯し、最後には美那子が両股で美幸を窒息死させる。
 そして屋根裏で体を合わせた2人だったが、そこに関東大震災が襲いかかる。屋根に押しつぶされて死ぬ2人。女中の娘は井戸の水で体をふこうとするが、井戸からはやがて真っ赤な血が注ぎだすのだった。

 若き頃の石橋蓮司さんの怪演ぶりが印象に残る映画でした。

 →「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~moto

 →FACEBOOK(https://www.facebook.com/profile.php?id=100005952271135

斎藤美奈子さんのコラム・その69&前川喜平さんのコラム・その30

2020-11-23 05:34:00 | ノンジャンル
 恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。

 まず9月23日に掲載された「避難所改革」と題された斎藤さんのコラムを全文転載させていただくと、
「明日から明後日にかけて台風12号が接近すると報じられている。場合によっては避難が必要な地域も出てくるだろう。
 コロナ禍のいま、感染対策を施しながらの避難所の開設はいつも以上に難しい。六、七日に台風10号が四国・中国・九州・沖縄地方をおそった際も、定員を減らした結果、避難所に入れない住民が相当数出たことが問題視された。
 災害の際の日本の避難所はもともと問題が多いと思っている。冷暖房のない体育館や公民館に「密」に近い状態で人が集まり、原則として雑魚寝。仕切りをつくるなどの工夫も最近ではされているものの、まだまだ完全とはいえない。
 そこで提案。コロナ禍を機に避難所の根本的な見直しを行ってはどうだろう。その際、参照すべきなのは国際赤十字などがまとめた「スフィア基準」だ。国際赤十字が発行するスフィア・ハンドブック(ネットからもダウンロードできる)は人道的な見地から、給水、衛生、食糧、栄養、シェルター、居住地などの分野別に最低基準を示している。トイレは二十人に一つ。シェルターは世帯ごとに覆いのある生活空間を確保し、一人あたりのフロア面積は最低3.5平方メートル(畳2枚分)。
 日本にこれを適用するには災害救助法の改正か避難所設置基準の見直しが必要? だとしたら新政権はそれを早くやって。」

 また9月20日に掲載された「当たり前でないこと」と題された前川さんのコラム。
「18日に事務次官連絡会議に菅義偉首相が出席した際、「国民の感覚から大きくかけ離れている当たり前でないことが残っている」と言った。確かに「当たり前でないこと」が残っている。森友問題、加計問題、桜を見る会など、明らかな行政の私物化について、調査も責任追及もしないのは、当たり前ではない。
 同じ18日、ジャパンライフ元会長山口隆祥容疑者ら14人が詐欺の疑いで逮捕された。オーナー商法で約7千人の契約者に約2千億円の被害を与えたという。被害者を信用させるために使われたのが、桜を見る会への招待状だ。60の番号が入っていたことから、安倍晋三首相の推薦で招待されたと推認される。桜を見る会は安倍氏により私物化されただけでなく、犯罪に利用されたのだ。
 こんなことが起きたら事実を調査し、責任を糾明し、再発を防止するのが当たり前だ。しかし、加藤勝信官房長官は前任者同様、調査拒否の姿勢を崩さない。加藤氏は自身のジャパンライフとの癒着(ゆちゃく)疑惑を晴らすためにも調査すべきだろう。「名簿が保存されていない」と言うが、調査の方法はいくらでもある。安倍氏からも事情聴取をしたらいい。安倍氏は山口容疑者と「一対一のような形で会ったことはない」と答弁したが、「一対二」や「二対二」だったら何度も会ったことがあるのかもしれないから。」

 そして11月22日に掲載された「野党合同ヒアリング」と題された前川さんのコラム。
「森友・加計問題、桜を見る会、学術会議の会員任命拒否など、さまざまな問題については、野党は合同で、関係府省庁の官僚からのヒアリングを繰り返してきた。
 これに対し、与党がけん制する動きを見せた。先月21日には、与党の幹事長、国対委員長がヒアリングの見直しの必要性を確認。自民党の森山裕国対委員長は「役所によっては精神的に非常に負担を感じている。立法府として考えなければならない」と述べた。
 野党合同ヒアリングはメディアが報道し、動画も公開されている。詰問され答弁に窮する官僚の姿を見ると、情けないと思うと同時に、かわいそうだとも思う。
 しかし、自民党の部会も似たようなものだ。良く言えば厳しい叱責、悪く言えば罵詈雑言が頻繁に降りかかる。ただ、野党ヒアリングで官僚がかわいそうなのは、本当のことが言えない状態で矢面に立たされていることだ。政府・与党が本当に心配しているのは、官僚の負担ではない。官僚がつい本当のことを言ってしまうことだろう。
 政府・与党が臨時国会の召集や予算委員会の開催に応じないとき、野党に残されたわずかな責任追及の手段がヒアリングなのだ。与党がこれを「官僚いじめ」というなら、代わりに副大臣や大臣政務官を出席させるよう、政府に申し入れたらいい。」

 どれも一読に値する文章だと思いました。

 →「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~moto

 →FACEBOOK(https://www.facebook.com/profile.php?id=100005952271135

神代辰巳監督『四畳半襖の裏張り・しのび肌』

2020-11-22 00:32:00 | ノンジャンル
 DVDで、神代辰巳監督の1974年作品『四畳半襖の裏張り・しのび肌』を観ました。

 大正12年9月1日。関東大震災が起こったその日、芸者の花清(宮下順子)は、旦那をめぐって張り合っていた染八(絵沢萌子)が産んだ赤ん坊・正太郎を盗み去った。
 月日は流れ、昭和のはじめ、花清の営む芸者置屋で育った正太郎は、幼い面影を残しながらも青年の体躯に成長。性に早熟な彼は、まだ精通が見られないものの同じ家で暮らす半玉の小ふく(芹明香)、小八重と床で戯れる夜を過ごす。小ふくは大人でも子供でもない彼の体に堪らない魅力を感じていた。
 ある日、花清の旦那である映画館主の小宮山(江角英明)は、正太郎を子供のいない映写技師夫婦・島村俊介と美也子(丘奈保美)に預けた。やがて島村夫婦も正太郎の虜となり、3人で組んずほぐれず、快楽に耽った。
 そんな中、小ふくが妊娠してしまった。まだ子供だと思っていた正太郎は一人前の男のように精子が出ていたのだ。小ふくは正太郎の子供を産む決心をし、小宮山の世話になることになった。花清と小ふくは血のつながりのないものの母と娘の関係。芸者の世界で母娘が同じ旦那を持つという屈辱に打ちひしがれる花清だったが、旦那と別れる勇気はなかった。そして美也子も妊娠した。父親はやはり正太郎らしい。そして正太郎の生みの親である染八が、正太郎が太鼓持ちにされると知って、花清の元へ押しかけてくるが、花清に追い返される。
 その夜、正太郎は花清に身を寄せ、花清は自分の体を自由にしていいと言う。抱き合う正太郎と花清。
 正太郎は満州に太鼓持ちがいないと聞き、満州行きを決める。「男と女の間に何もない、万歳」と叫ぶ女の姿を映して、映画は終わる。

 濡れ場は皆ワンシーン・ワンカットで、字幕や歌も多用されていました。

 →「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~moto

 →FACEBOOK(https://www.facebook.com/profile.php?id=100005952271135

デヴィッド・グレーバー『民主主義の非西洋起源について 「あいだ」の空間の民主主義』その2

2020-11-21 04:59:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

 クローバーによる、「【付録】惜しみなく与えよ━━新しいモース派の台頭」の冒頭部分も書き写しておきたいと思います。

 新しいフランス知識人が一向に現れないという事実に、気づいているだろうか?
1970年代末から80年代初頭にかけては、あふれかえるほどの有様だった。デリダ、フーコー、ボードリヤール、クリステヴァ、リオタール、ド・セルトー……(クローバーさん、ロラン・バルトを忘れてますよ!)。それなのに、以来ほとんど誰も現れていない。仕方がないので、流行を追う大学人と知的ヒップスターたちは、もう二、三十年前の諸理論を延々とリサイクルしたり、魅惑のメタ理論を求めてイタリアやさらにはスロヴェニアのような国にまで目を向けたりしている。
 こうなった理由はたくさんある。ひとつはフランス国内の政治事情と関わっている。この国では、メディア・エリート層が共同歩調をとって、まともな知識人を頭のからっぽな米国式の有識者に置き換えてしまおうと努めてきたのだ。ただしこの努力は、完全に実ったわけではない。もっと重要な理由は、フランスの知的生活がかつてにもまして政治化したことにある。1995年の巨大なストライキ以来、米国のメディアはフランスの文化ニュースをほとんど取り上げなくなった。フランスは1995年冬のこの出来事とともに、経済の「アメリカ・モデル」を退け福祉国家解体を拒んだ最初の国となったわけだけれど、米国メディアでは直ちに、歴史の波から逃れようともがく愚かな国扱いされ始めたのだ。
 もちろんドゥルーズとガタリを読むような米国人を困惑させることになったのは、米国メディアの姿勢それ自体ではない。米国の大学人がフランスに期待するのは知的にハイであること、自分は今、ワイルドでラディカルな思想に取り組んでいるのだと感じさせてくれる力だ。(中略)つまり、米国のメディアがフランスを馬鹿げた国として描き出しているその一方で、米国の大学人はといえば、自分たちのお眼鏡に適うフランス思想家はいないものか、と探求に乗り出したのだ。
 結果として、今日のフランスの最も興味深い学者たちの一部は、米国ではまるで話題にならない。(中略)頭文字を取ってMAUSSと称する知識人集団がその一例だ。経済理論の哲学的諸前提に対する体系的な攻撃に取り組むこの集団は、20世紀初頭のフランスの偉大な社会学者マルセル・モースを発想源としている。モースの最も有名な著作『贈与論』(1925年)は、おそらく経済理論を背後で支える諸前提に向けられた最も見事な反論である。(中略)モースの著作は━━それが示すのは、非西洋社会のほとんどのみならず、西洋人のほとんどもまた、市場原理のようなものに従ってはいないということなのだが━━かつてなく有意義なものとなっている。グローバル新自由主義の台頭を前にして、フランス好きの米国学者らが何も言うべきことを見いだせずにいるというのに、MAUSSはそれを支える思想そのものに攻撃を加えているのである。(中略)
 モースはまた、革命的社会主義者だった。(中略)
 ロシアの経験から彼が理解したのは、近代社会において(中略)売り買いをきれいさっぱり廃止してしまうことはできないということ、しかも市場倫理の廃絶ならできる、ということだ。労働を協同のかたちで行い、実効的な社会保障を確立し、そうして徐々に、新しい倫理を生み出していくことができるだろう。新しい倫理とはすなわち、冨の蓄積は、ただそれをそっくり他の人びとに分かち与えることができる場合にのみ、弁明可能になるというものだ。結果として生まれる社会で最高の価値となるのは、「公の場で物を与える楽しみであり、美的なものへ気前よく出費する喜びであり、客人を歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び」である。(後略)

 私の大学時代はちょうどポスト構造主義の全盛期で、フーコーやデリダ、ドゥルーズらが特に名をはせていた時代でした。どの文章も原文は難解でしたが、フーコーの監獄論と、ドゥルーズのリゾーム論、それにバルトの遺作となった写真論は理解することができて、今でもドゥルーズの本とバルトの本は家に置いてあります。
ドゥルーズのリゾーム論は、中央集権型ではなく、ネットワーク型の社会を提言したもので、今のインターネット社会をはるか前に予言していた素晴らしい理論です。
 グローバーさんに関しては遺作(?)の『ブルシット・ジョブ━━クソどうでもいい仕事の理論』をアマゾンに注文しておいたので、もうすぐ家に届くはずです。今から読むのが楽しみです!!

 →「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~moto

 →FACEBOOK(https://www.facebook.com/profile.php?id=100005952271135