また昨日の続きです。
(中略)よく考えてまたメールしますとだけ返事すると、恩田は指の爪で歯のすきまを掻きながら笑ってこう言った━━なしならなしでいいですよ。(中略)それから、声を出さずに下、下と言って顎で股間を示すと、にやにや笑った。(中略)
(中略)成瀬くんもわたしもどこにもいないのだということを思うと、痛いくらいに胸がつまった。(中略)
会計を済まして外に出ると、雨の匂いがした。(中略)顔をあげると、ちょうどむこうから歩いてきた女の人と目があった。わたしは女の人を凝視した。相手も立ち止まってわたしの顔をじっと見た。(中略)善百合子だった。
かすかに会釈をすると、善百合子はわたしの横を通りすぎて駅のほうにむかって歩いていった。わたしはふりかえって後ろ姿を見た。そしてそのままあとを追いかけた。(中略)
「どうしてついてくるんですか」
善百合子が口をひらいた。(中略)
「逢沢の話ですか」(中略)
「逢沢と、仲がいいんでしょう」
わたしはあいまいに首を動かしてみせた。(中略)
「なんであとをついてきたのか、自分でもわからない」わたしは言った。「でも逢沢さんの話をしたかったからではないと思う」(中略)
「逢沢は、わたしのことを話しますか」
しばらく沈黙がつづいたあとで善百合子が言った。
「つらいときに、助けてもらったと」わたしは言った。(中略)
「わたしは助けたというつもりはないけれど、逢沢はそれしか言わないものね。それが、逢沢がわたしといるただひとつの理由だから」善百合子は言った。。(中略)
「逢沢は一度、自殺未遂のようなことを起こしているんです」(中略)
「結婚まで話が決まっていて順調だったのに、ある日とつぜん、自分の本当の父親が誰かわからないってことになって、そしてそれを、彼女に伝えたのね。(中略)それでぜんぶ“なし”になったの。(中略)」
「その二年後くらいに新聞でわたしの記事を読んで、会にも来るようになって」善百合子は言った。(中略)
「さっきわたしは、逢沢がわたしと会う理由はひとつだって言ったけど、もうひとつ、同情がある」
「同情?」(中略)
「そう」善百合子は言った。「逢沢は、わたしに同情してるの。じつの親が誰かわからないことだけじゃなくて、わたしの身に起きたことに、逢沢は同情してるの。あなたも、読んだと思うけど」(中略)
「でもね、わたしは逢沢に何も言ってないんだよ」(中略)
「ただ、父と思っていた男に“レイプされたことがあるとしか”、話してないの。(中略)一度や二度のことではなかったことも言わなかった。慣れてくるとべつの男たちを何人も呼んでおなじことをされたことも言わなかったし、脅されたことも言わなかったなあ。家だけじゃなくて車に乗せられて、いつも人の気配のない河川敷の土手に連れていかれて、べつの車からいろんな男たちがやってきたことも言わなかった。(中略)」(中略)
「すごく不自然な方法で」わたしは言った。「自分がやろうとしてることは、わかってる」
「方法なんて」(中略)「本当は、たいした問題じゃないよ」
(中略)
「きっとわたしが何を言ってるのか、わからないだろうと思う」(中略)
「でも、わたしはすごく単純なことを考えているだけなの。(中略)どうしてみんな、子どもを生むことができるんだろうって考えているだけなの。(中略)」
(中略)
「(中略)ねえ、子どもを生む人はさ、みんなほんとに自分のことしか考えないの。(中略)」
(中略)
「みんな、賭けをしてるようにみえる」善百合子は言った。「自分が登場させた子どもも自分とおなじかそれ以上に恵まれて、幸せを感じて、そして生まれてきてよかったって思える人間になるだろうってことに、賭けているようにみえる。(中略)」
(中略)
六月の終わりから七月にかけて、高熱を出した。(中略)
当たりまえのことだけれど、わたしが高熱を出すまえとあとで、世界はなにひとつ変わっていないんだなと、そんなことを思った。(中略)
熱にうかされているあいだ、善百合子は何度もわたしのなかに現われた。(中略)電話がなっていることに気がついた。反射的に手につかむと同時に逢沢潤の名前が見えた。(中略)
「もしあれだったら、必要なもの買って駅とか、住所を教えてもらえればドアノブにでもかけておけるから━━」(中略)善百合子の名前は一度も出なかったし、わたしも訊かなかった。
それからわたしの本を何度か読みかえしてくれたと言った。読みかえすたびに自分なりに発見があって、面白いと感じる部分が増えてくる。(中略)
「緑子さんの誕生日はいつなんですか?」(中略)
「三十一日」
「ほんとに? 僕もおなじだ」(中略)
「すごいね」わたしは笑った。(中略)
(また明日へ続きます……)
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
→FACEBOOK(https://www.facebook.com/profile.php?id=100005952271135)
(中略)よく考えてまたメールしますとだけ返事すると、恩田は指の爪で歯のすきまを掻きながら笑ってこう言った━━なしならなしでいいですよ。(中略)それから、声を出さずに下、下と言って顎で股間を示すと、にやにや笑った。(中略)
(中略)成瀬くんもわたしもどこにもいないのだということを思うと、痛いくらいに胸がつまった。(中略)
会計を済まして外に出ると、雨の匂いがした。(中略)顔をあげると、ちょうどむこうから歩いてきた女の人と目があった。わたしは女の人を凝視した。相手も立ち止まってわたしの顔をじっと見た。(中略)善百合子だった。
かすかに会釈をすると、善百合子はわたしの横を通りすぎて駅のほうにむかって歩いていった。わたしはふりかえって後ろ姿を見た。そしてそのままあとを追いかけた。(中略)
「どうしてついてくるんですか」
善百合子が口をひらいた。(中略)
「逢沢の話ですか」(中略)
「逢沢と、仲がいいんでしょう」
わたしはあいまいに首を動かしてみせた。(中略)
「なんであとをついてきたのか、自分でもわからない」わたしは言った。「でも逢沢さんの話をしたかったからではないと思う」(中略)
「逢沢は、わたしのことを話しますか」
しばらく沈黙がつづいたあとで善百合子が言った。
「つらいときに、助けてもらったと」わたしは言った。(中略)
「わたしは助けたというつもりはないけれど、逢沢はそれしか言わないものね。それが、逢沢がわたしといるただひとつの理由だから」善百合子は言った。。(中略)
「逢沢は一度、自殺未遂のようなことを起こしているんです」(中略)
「結婚まで話が決まっていて順調だったのに、ある日とつぜん、自分の本当の父親が誰かわからないってことになって、そしてそれを、彼女に伝えたのね。(中略)それでぜんぶ“なし”になったの。(中略)」
「その二年後くらいに新聞でわたしの記事を読んで、会にも来るようになって」善百合子は言った。(中略)
「さっきわたしは、逢沢がわたしと会う理由はひとつだって言ったけど、もうひとつ、同情がある」
「同情?」(中略)
「そう」善百合子は言った。「逢沢は、わたしに同情してるの。じつの親が誰かわからないことだけじゃなくて、わたしの身に起きたことに、逢沢は同情してるの。あなたも、読んだと思うけど」(中略)
「でもね、わたしは逢沢に何も言ってないんだよ」(中略)
「ただ、父と思っていた男に“レイプされたことがあるとしか”、話してないの。(中略)一度や二度のことではなかったことも言わなかった。慣れてくるとべつの男たちを何人も呼んでおなじことをされたことも言わなかったし、脅されたことも言わなかったなあ。家だけじゃなくて車に乗せられて、いつも人の気配のない河川敷の土手に連れていかれて、べつの車からいろんな男たちがやってきたことも言わなかった。(中略)」(中略)
「すごく不自然な方法で」わたしは言った。「自分がやろうとしてることは、わかってる」
「方法なんて」(中略)「本当は、たいした問題じゃないよ」
(中略)
「きっとわたしが何を言ってるのか、わからないだろうと思う」(中略)
「でも、わたしはすごく単純なことを考えているだけなの。(中略)どうしてみんな、子どもを生むことができるんだろうって考えているだけなの。(中略)」
(中略)
「(中略)ねえ、子どもを生む人はさ、みんなほんとに自分のことしか考えないの。(中略)」
(中略)
「みんな、賭けをしてるようにみえる」善百合子は言った。「自分が登場させた子どもも自分とおなじかそれ以上に恵まれて、幸せを感じて、そして生まれてきてよかったって思える人間になるだろうってことに、賭けているようにみえる。(中略)」
(中略)
六月の終わりから七月にかけて、高熱を出した。(中略)
当たりまえのことだけれど、わたしが高熱を出すまえとあとで、世界はなにひとつ変わっていないんだなと、そんなことを思った。(中略)
熱にうかされているあいだ、善百合子は何度もわたしのなかに現われた。(中略)電話がなっていることに気がついた。反射的に手につかむと同時に逢沢潤の名前が見えた。(中略)
「もしあれだったら、必要なもの買って駅とか、住所を教えてもらえればドアノブにでもかけておけるから━━」(中略)善百合子の名前は一度も出なかったし、わたしも訊かなかった。
それからわたしの本を何度か読みかえしてくれたと言った。読みかえすたびに自分なりに発見があって、面白いと感じる部分が増えてくる。(中略)
「緑子さんの誕生日はいつなんですか?」(中略)
「三十一日」
「ほんとに? 僕もおなじだ」(中略)
「すごいね」わたしは笑った。(中略)
(また明日へ続きます……)
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