川上未映子『夏物語』その16

　また昨日の続きです。

「（中略）でも具体的な失敗はなくても、もしかしたら僕と会ったり話したりすることが、面倒になったりとか、いやになったりとか、そういう気持ちの変化があったのかもしれないと……だとしたら僕からはもう連絡することはできないし、もしそうでなければ、夏目さんから連絡が来るのではないかと思ったり、そういうことを考えていました。（中略）それで四月の会を最後に、しばらく参加できないことを伝えたんです」
「善さんにも」
「はい」と逢沢さんは言った。（中略）
「彼女に会わないでいることが、話さないでいることが、つらくなかったんです。それどころか━━どこかほっとしている自分に気がついたんです。僕がつらかったのは」（中略）「もうずっと夏目さんに会えないでいることが━━僕にはそれが、苦しかったんです」（中略）
　逢沢さんの言ったことは、夢みたいだった。（中略）わたしがいまよりもっと若く、もっと早くにこの人に、もっとずっと昔に会えていたら。
　そう思うと胸が激しく痛んだ。（中略）
「わたしは━━逢沢さんの、あの文章を読んだときから、逢沢さんのことが、好きだったんだと思います」
「文章？」（中略）
「『背が高くて、一重まぶたで、長距離走が得意で、どなたか心当たりのあるかたはいらっしゃいませんか』━━逢沢さんがお父さんを探すときに、言っていた言葉です」（中略）
「わたしには、できないから」（中略）
「子どものことも━━そう、子どもが欲しいとか、会いたいとか、そういうことはぜんぶ、自分にできるわけがないって、わかってたのかもしれない。（中略）それで、ぜんぶをちゃんとあきらめるために━━もしかしたら、わたしは逢沢さんに会いに行ったのかもしれなかった」
「夏目さん」
「もう」とわたしは胸の奥から絞るように声を出した。
「もう、会いません」

　わたしは（中略）ひきだしをあけてみた。（中略）ずいぶんまえ━━ほんとうにもうずいぶんまえに、酒に酔って書いた、手書きの短い文章があった。わたしはしばらくのあいだその文章を眺めていた。それからページを破って切り離すと、それをふたつに折った。それから四つに折り、八つに折り、もうそれ以上は畳めなくなるまで小さくしてから、ゴミ箱の底に置いた。

16　夏の扉
　仙川さんが亡くなったことを知ったのは、八月三日だった。
　遊佐から電話がかかってきたのは午後二時を少し過ぎたあたりで、わたしは部屋で本を読んでいるところだった。（中略）
「詳しいことはこれから訊くんだけれど」遊佐が言った。「五月の末に検査で癌がわかって、すぐに入院して」
「五月末って、遊佐の家で会ったすぐあとの？」
「そう」（中略）「その時点でもう、転移があったと」（中略）
　遊佐からふたたび電話がかかってきたのは、夕方の六時半だった。
「葬儀は」わたしは尋ねた。
「親族の意向で、家族葬になったみたい」（中略）
「それは」とわたしは訊いた。「仙川さんの意向ということではないよね」
「違うよね」遊佐は言った。「ぜんぶ急なことだったんだって。（中略）」
（中略）
「ありがとう、遊佐」（中略）
「ありがとうじゃなくて、タクシーで来てよ」
「うん」
「いまから」
「遊佐、ありがとね」わたしは言った。「でも今日は、家におったほうがいいような気がする」

（中略）
　青い闇のなかで電話を手にもって、これまで仙川さんとやりとりしたメールを読み返してみようと思った。そしてわたしは静かに驚いた。たくさんやりとりした記憶があるのに、仙川さんから届いたメールで読めるものは、たった七通しかないのだった。（中略）わたしの数少ない━━本当に数少ない友人といえるかもしれない大事な人だったのに、わたしは彼女のことを、何も知らないままだったのだ。（中略）
　すると突然━━わたしは本当に逢沢さんとセックスができないのだろうか、という疑問が湧きあがってきた。（中略）

「もしもし夏ちゃん、ひさしぶり」
　久しぶりに聴いた緑子の声は明るく、わたしは思わず目を細めた。（中略）
「何日に来る？　予定通り三十一日に来て、うちに泊まるんやんな？」
「うん」（中略）

　電話を切ると、わたしは台所へ行って立ったまま冷たい水を飲んだ。（中略）
　仙川さんが亡くなってから二十日がたっていた。その数日後に、無事に葬儀が終わったらしいことを聞いた遊佐が電話で教えてくれた。（中略）
「葬儀とかお別れの会とかって、生きてる人間のためにあるってよく言うけど」
「うん」
「なんでわたし、行きたくないなって思っちゃうんだろうな」（中略）

（また明日へ続きます……）

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