北槎聞略
原文
予(かね)て療病院より庄蔵を磯吉が旅宿へ呼び寄せおきしが、わざと発足(ほつそく)の事をば隠しおき、立(たち)ぎはに俄(にわか)に暇乞(いとまごい)をなしければ、庄蔵は只呆(あきれ)て物をも言はず、茫然としたる体也(ていなり)しが、光太夫(こうだゆう)立寄り手をとりて、「今別れて、再び会べきともおぼへず。死して別るゝも同じ道なれば、よく〳〵互(たがい)の面(おもて)をも見おくべし」と、懇(ねんごろ)に離情をのべ、いつまでも惜むとも尽きせぬ名残なれば、心弱くては叶(かな)はじと、彼邦(かのくに)のならひなれば、つと寄りて口を吸ひ、思ひきりて駆け出(いだ)せば、庄蔵は叶(かな)はぬ足にて、立あがりこけまろび、大声をあげ、小児の如く泣叫び、悶(もだ)へこがれける。
道のほど、暫(しばし)のうちは、その声耳に残りて、腸(はらわた)を断計(たつばか)りにおぼえける。同じ国土のうちにて、しばしの別れだにも生き別離(わかれ)ほど悲しきはなきならひなるに、まして此(この)年月の辛苦をしのぎ、生死(しようじ)を共にとたのみしものゝ、しかも不具の身となりて、同行の者に別れ、異邦に残り留(とどま)る事なれば、さばかりの悲しみも理(ことわり)なり。
現代語訳
(一七九二年五月、イルクーツクを出発する日) 前もって、磯吉が病院から庄蔵を宿舎に連れて来ていたが、(日本に向けて)出発することはわざと隠しておき、間際になって急に別れの挨拶をしたので、庄蔵はただ呆れるばかりで物も言わず、茫然とした様子であった。光太夫が近寄って手をとり、「今ここで別れたら、再び会えるとも思えない。死んで別れるのと同じことだから、よくよくお互いの顔を見ておかなければ」と、心を込めて別れを惜しむ気持ちを話した。しかしいつまで惜しんでも名残は尽きないので、弱気になってはいけないと(心を鬼にして別れようと)、ロシアの習慣に従い、つと近寄って接吻してから、思い切って走り出すと、庄蔵は不自由な足で立ち上がり、転んで倒れ、大声を上げて子供のように泣き叫んで悶えた。
道中暫くは、その声が耳に残り、断腸の思いであった。同じ国の中のしばしの別れでさえ、生き別れるように悲しいのが世の常であるのに、ましてこの長い年月の辛苦を耐え忍び、生死を共にして助け合って来たのに、しかも不自由な身体となって仲間と別れ、異国に残り留まるのであるから、その悲しみはいかばかりか、無理のないことである。
解説
『北槎聞略(ほくさぶんりやく)』は、漂流してアリューシャン列島まで流れ着き、シベリアを横断してロシアの都まで行き、約十年後に帰国した、伊勢の船頭である大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)(1751~1828)の体験を、幕府の侍医であった桂川甫周(かつらがわほしゆう)が、将軍徳川家斉の命により聞き取って叙述した、ロシア帰還漂流民の記録です。「北槎」の「槎」とは筏(いかだ)のことですから、ここでは北方に漂流したことを意味しています。
本書は十一巻と付録一巻、地図十枚他から成り、とうてい漂流民からの聞き書きとは思えない程の、充実した内容です。巻一には、遭難船の大きさ、全ての乗員の名前・出身・年齢、及び途中で死亡した者については、その日付と場所。また送還船の大きさ、全ての乗員の名前、年齢、役職や階級が、詳細に記されています。巻二・三は、遭難や送還の経緯について記されていますが、地名、人名、距離、謁見の様子、下賜品、餞別の品々まで、まるで日記の如く詳細を極めています。巻四から巻十までは、ロシア滞在中の見聞情報で、ロシア博物誌とも言える詳しさです。巻十一には、一二六二のロシア語を片仮名で表記し、日本語訳をつけた辞書となっています。また地図には地球・ヨーロッパ・アジア・アメリカ・アフリカ・ロシア・日本の各全図などがあります。光太夫は毎日詳細な記録をとっていたのでしょう。これだけ詳細な情報を持ち帰った、光太夫の並外れた学力と強い意志の力を見ると、運も健康も必須ですが、生還できたのも納得できます。
大黒屋光太夫の船は、天明二年(1782)十二月十三日、乗員十七名で伊勢の白子(しろこ)浦を出帆しましたが、駿河灘で遭難しました。転覆を恐れた船頭の光太夫は、帆柱を切り倒し、流されるまま翌年七月二十日にアリューシャン列島西端のアムチトカ島に漂着しました。実に七カ月も漂流したのですが、積荷の米などがあり、水には苦労しましたが、食料はなんとかなりました。彼等はここで、先住民や毛皮商のロシア人に助けられながら四年間生活し、難破船の材木を寄せ集め、一年がかりで作った船でカムチャッカに渡ります。そして寛政元年(1789)、バイカル湖に近いイルクーツクに到着します。しかしその間に仲間が何人も病死し、六名になっていました。
何としても帰国したい光太夫は、イルクーツクにあるシベリア総督府に帰国嘆願書を三回も提出しますが、何の音沙汰もありません。それで一七九一年、ついに皇帝に直訴するため、光太夫と磯吉と小市の三人は、首都ペテルブルグまで行きます。すると女帝エカテリーナ二世は喜んで、手ずから慰労の品々を下賜し、帰国を許可し援助を約束しました。そして翌一七九二年五月に、三人がイルクーツクを出立することになります。帰国が許可されたのは、日本人漂流民を教師とした日本語学校が、すでに開校されていたことでもわかるように、漂流民送還を口実に、皇帝の親書を持った使節を派遣し、日本との交易を始めたいという目的があったからです。
ここに載せたのは、凍傷で片足の膝下を切断し、また改宗して帰国を断念した庄蔵との離別の場面です。キリスト教徒になったからには、帰国できません。その後光太夫達はロシア使節のラックスマンと共に、寛政四年(1792)九月五日、蝦夷地の根室に到着しました。しかし小市は根室滞在中に亡くなり、残る二人が役人に預けられたのは、日露会談後の翌年のことでした。その後光太夫は江戸に屋敷を与えられ、桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与しました。
寛政六年閏十一月十一日は、西暦一七九五年元日に当たり、蘭学者の大槻玄沢邸では太陽暦の新年会が催されました。その様子は「芝蘭堂(しらんどう)新元会図」に描かれているのですが、そこには二八人の蘭学者に交じり、洋装で一人椅子に坐る光太夫が描かれています。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『北槎聞略』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文
予(かね)て療病院より庄蔵を磯吉が旅宿へ呼び寄せおきしが、わざと発足(ほつそく)の事をば隠しおき、立(たち)ぎはに俄(にわか)に暇乞(いとまごい)をなしければ、庄蔵は只呆(あきれ)て物をも言はず、茫然としたる体也(ていなり)しが、光太夫(こうだゆう)立寄り手をとりて、「今別れて、再び会べきともおぼへず。死して別るゝも同じ道なれば、よく〳〵互(たがい)の面(おもて)をも見おくべし」と、懇(ねんごろ)に離情をのべ、いつまでも惜むとも尽きせぬ名残なれば、心弱くては叶(かな)はじと、彼邦(かのくに)のならひなれば、つと寄りて口を吸ひ、思ひきりて駆け出(いだ)せば、庄蔵は叶(かな)はぬ足にて、立あがりこけまろび、大声をあげ、小児の如く泣叫び、悶(もだ)へこがれける。
道のほど、暫(しばし)のうちは、その声耳に残りて、腸(はらわた)を断計(たつばか)りにおぼえける。同じ国土のうちにて、しばしの別れだにも生き別離(わかれ)ほど悲しきはなきならひなるに、まして此(この)年月の辛苦をしのぎ、生死(しようじ)を共にとたのみしものゝ、しかも不具の身となりて、同行の者に別れ、異邦に残り留(とどま)る事なれば、さばかりの悲しみも理(ことわり)なり。
現代語訳
(一七九二年五月、イルクーツクを出発する日) 前もって、磯吉が病院から庄蔵を宿舎に連れて来ていたが、(日本に向けて)出発することはわざと隠しておき、間際になって急に別れの挨拶をしたので、庄蔵はただ呆れるばかりで物も言わず、茫然とした様子であった。光太夫が近寄って手をとり、「今ここで別れたら、再び会えるとも思えない。死んで別れるのと同じことだから、よくよくお互いの顔を見ておかなければ」と、心を込めて別れを惜しむ気持ちを話した。しかしいつまで惜しんでも名残は尽きないので、弱気になってはいけないと(心を鬼にして別れようと)、ロシアの習慣に従い、つと近寄って接吻してから、思い切って走り出すと、庄蔵は不自由な足で立ち上がり、転んで倒れ、大声を上げて子供のように泣き叫んで悶えた。
道中暫くは、その声が耳に残り、断腸の思いであった。同じ国の中のしばしの別れでさえ、生き別れるように悲しいのが世の常であるのに、ましてこの長い年月の辛苦を耐え忍び、生死を共にして助け合って来たのに、しかも不自由な身体となって仲間と別れ、異国に残り留まるのであるから、その悲しみはいかばかりか、無理のないことである。
解説
『北槎聞略(ほくさぶんりやく)』は、漂流してアリューシャン列島まで流れ着き、シベリアを横断してロシアの都まで行き、約十年後に帰国した、伊勢の船頭である大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)(1751~1828)の体験を、幕府の侍医であった桂川甫周(かつらがわほしゆう)が、将軍徳川家斉の命により聞き取って叙述した、ロシア帰還漂流民の記録です。「北槎」の「槎」とは筏(いかだ)のことですから、ここでは北方に漂流したことを意味しています。
本書は十一巻と付録一巻、地図十枚他から成り、とうてい漂流民からの聞き書きとは思えない程の、充実した内容です。巻一には、遭難船の大きさ、全ての乗員の名前・出身・年齢、及び途中で死亡した者については、その日付と場所。また送還船の大きさ、全ての乗員の名前、年齢、役職や階級が、詳細に記されています。巻二・三は、遭難や送還の経緯について記されていますが、地名、人名、距離、謁見の様子、下賜品、餞別の品々まで、まるで日記の如く詳細を極めています。巻四から巻十までは、ロシア滞在中の見聞情報で、ロシア博物誌とも言える詳しさです。巻十一には、一二六二のロシア語を片仮名で表記し、日本語訳をつけた辞書となっています。また地図には地球・ヨーロッパ・アジア・アメリカ・アフリカ・ロシア・日本の各全図などがあります。光太夫は毎日詳細な記録をとっていたのでしょう。これだけ詳細な情報を持ち帰った、光太夫の並外れた学力と強い意志の力を見ると、運も健康も必須ですが、生還できたのも納得できます。
大黒屋光太夫の船は、天明二年(1782)十二月十三日、乗員十七名で伊勢の白子(しろこ)浦を出帆しましたが、駿河灘で遭難しました。転覆を恐れた船頭の光太夫は、帆柱を切り倒し、流されるまま翌年七月二十日にアリューシャン列島西端のアムチトカ島に漂着しました。実に七カ月も漂流したのですが、積荷の米などがあり、水には苦労しましたが、食料はなんとかなりました。彼等はここで、先住民や毛皮商のロシア人に助けられながら四年間生活し、難破船の材木を寄せ集め、一年がかりで作った船でカムチャッカに渡ります。そして寛政元年(1789)、バイカル湖に近いイルクーツクに到着します。しかしその間に仲間が何人も病死し、六名になっていました。
何としても帰国したい光太夫は、イルクーツクにあるシベリア総督府に帰国嘆願書を三回も提出しますが、何の音沙汰もありません。それで一七九一年、ついに皇帝に直訴するため、光太夫と磯吉と小市の三人は、首都ペテルブルグまで行きます。すると女帝エカテリーナ二世は喜んで、手ずから慰労の品々を下賜し、帰国を許可し援助を約束しました。そして翌一七九二年五月に、三人がイルクーツクを出立することになります。帰国が許可されたのは、日本人漂流民を教師とした日本語学校が、すでに開校されていたことでもわかるように、漂流民送還を口実に、皇帝の親書を持った使節を派遣し、日本との交易を始めたいという目的があったからです。
ここに載せたのは、凍傷で片足の膝下を切断し、また改宗して帰国を断念した庄蔵との離別の場面です。キリスト教徒になったからには、帰国できません。その後光太夫達はロシア使節のラックスマンと共に、寛政四年(1792)九月五日、蝦夷地の根室に到着しました。しかし小市は根室滞在中に亡くなり、残る二人が役人に預けられたのは、日露会談後の翌年のことでした。その後光太夫は江戸に屋敷を与えられ、桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与しました。
寛政六年閏十一月十一日は、西暦一七九五年元日に当たり、蘭学者の大槻玄沢邸では太陽暦の新年会が催されました。その様子は「芝蘭堂(しらんどう)新元会図」に描かれているのですが、そこには二八人の蘭学者に交じり、洋装で一人椅子に坐る光太夫が描かれています。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『北槎聞略』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。