うたことば歳時記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

『平家物語』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2020-09-12 14:42:08 | 私の授業
平家物語


原文
 薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)(忠度(ただのり))は、いづくよりや帰られたりけん。侍(さぶらい)五騎、童(わらわ)一人、わが身共に七騎取って返し、五条の三位(さんみ)俊成(しゆんぜい)卿(きよう)の宿所におはして見給へば、門戸(もんこ)を閉ぢて開かず。「忠教」と名乗り給へば、「落人(おちうど)帰り来たり」とて、その内騒ぎあへり。薩摩守馬より降り、自ら高らかに宣(のたま)ひけるは、「別(べち)の子細候はず。三位殿(さんみどの)に申べき事あって、忠教が帰り参って候。門(かど)を開かれずとも、此の際(きわ)まで立ち寄らせ給へ」と宣(のたま)へば、俊成卿、「さる事あるらん。其人ならば苦しかるまじ。入れ申せ」とて、門を開けて対面あり。事の体(てい)、何となう哀(あわれ)なり。
 薩摩守宣(のたま)ひけるは、「年来(としごろ)申(もうし)承って後、愚(おろか)ならぬ御事に思ひ参らせ候へ共(ども)、この二三年は京都の騒(さわぎ)、国々の乱(みだれ)、併(しかし)ながら当家の身の上の事に候ふ間(あいだ)、疎略(そらく)を存ぜずといへども、常に参り寄る事も候はず。君既に都を出(いで)させ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。撰集(せんじゆう)のあるべき由(よし)承り候ひしかば、生涯の面目に一首なり共、御恩を蒙(こうぶ)らうと存じて候ひしに、やがて世の乱(みだれ)出(い)できて、其沙汰(さた)なく候条、たゞ一身の歎(なげき)と存ずる候。世しづまり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらむ。是に候巻物のうちに、さりぬべきもの候はゞ、一首なりとも御恩を蒙(こうぶ)って、草の陰にても嬉しと存じ候はゞ、遠き御守(おんまもり)でこそ候はんずれ」とて、日比(ひごろ)詠みおかれたる歌共(ども)の中に、秀歌とおぼしきを百余首書集められたる巻物を、今はとて打立(うつた)たれける時、是を取って持たれたりしが、鎧(よろい)の引合せより取出(い)でゝ、俊成卿に奉る。
 三位是を開けて見て、「かゝる忘形見(わすれがたみ)を給りおき候ひぬる上は、努々(ゆめゆめ)疎略(そらく)を存ずまじう候。御疑あるべからず。さても唯今(ただいま)の御渡(おんわたり)こそ、情(なさけ)もすぐれて深う、哀(あわれ)も殊(こと)に思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ」と宣(のたま)へば、薩摩守悦(よろこ)んで、「今は西海(さいかい)の浪の底に沈まばしづめ、山野に尸(かばね)をさら曝(さら)さばさらせ。浮世に思ひおく事候はず。さらば暇(いとま)申して」とて、馬にうち乗り、甲(かぶと)の緒(お)を締め、西を指(さ)いてぞ歩ませ給ふ。三位、後(うしろ)を遙(はるか)に見送って立たれたれば、忠教の声とおぼしくて、「前途(せんど)程(ほど)遠し、思(おもい)を雁山(がんざん)の夕(ゆうべ)の雲に馳(は)す」と、高らかに口ずさみ給へば、俊成卿いとゞ名残(なごり)惜しうおぼえて、涙を抑(おさ)へてぞ入り給ふ。
 其後(のち)、世しづまって千載集を撰ぜられけるに、忠教のありし有様、言ひ置きし言の葉、今更思ひ出でゝ哀なりければ、彼(か)の巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれ共、勅勘(ちよくかん)の人なれば、名字(みようじ)をば顕(あらわ)されず、故郷の花といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「詠人(よみびと)知らず」と入られける。
  さゞなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな

現代語訳
 薩摩守忠教は、(都落ちした後)どこからお帰りになられたのか。侍五騎、近侍(きんじ)の童一人、御自身と合わせて七騎で引き返して来られ、五条にある藤原俊成卿の屋敷においでになって御覧になると、門が閉じられて開かない。「忠教が参りました」と名乗られると、「落人が帰ってきた」と、屋敷の中では騒ぎ合っている。薩摩守は馬から下り、「特別の事でございませぬ。三位殿(藤原俊成)に申しあげたいことがあり、忠教が戻って参りました。門をお開けにならなくとも、このそばまでお寄り下さいませ」と、自ら大声でおっしゃったので、俊成卿は、「そういうこともあるかと思っておりました。その御方ならば差し支えないので、お入れ申しなさい」と言って、門を開けてお会いになられる。その様子は、何とも言いようがなく感慨深いものであった。
 薩摩守がおっしゃるには、「ここ数年、(和歌を)教えていただいて以来、三位殿をなおざりに思ったことはございません。ただこの二三年の都の騒ぎや国々の争乱は、全て平家の身の上のことでございますので、三位殿を疎略に存じていたわけではございませぬが、いつもお伺いすることもかないませんでした。帝(みかど)(安徳天皇)はすでに都をお出になられました。平家一門の運命はもはや尽きてしまいました。勅撰和歌集が編纂されるとのお話を承りましたので、生涯の面目のために、たとえ一首なりとも御恩により撰に入れて頂きたく思っておりましたが、そのうち世の乱れ(源平の争乱)が始まり、編纂の御指図がないことは、我が身の嘆きとするところでございます。いずれ世が静まりますならば、和歌集編纂の勅命もございましょう。ここにございます巻物の中に、勅撰集にふさわしい歌がございますならば、一首なりとも御恩により入れていただければ、草葉の陰(あの世)からも嬉しく存じ、遠くから三位殿をお守り申し上げましょう」と言って、日頃から詠まれた歌の中から、秀歌と思われる歌を百余首書き集められた巻物で、今はもうこれまでと思い都を出る時にお持ちになられたものを、鎧の引き合わせから取り出して、俊成卿に差し上げられた。
 俊成卿はこれを御覧になり、「このような忘れ形見を頂きましたからには、決して疎略にはいたしませぬ。御安心下さいませ。それにしてもただ今のお越しは、風流な心も格別に深く、しみじみと心にしみて、涙を抑えることができませぬ」とおっしゃると、薩摩守は喜び、「今はもう西海の波の底に沈むのならそれもよし、山野に屍(しかばね)をさらすのならそれもまたよし。この憂き世に思い残すことはございませぬ。それではお暇(いとま)申し上げます」と、馬に跨(また)がり甲の緒を締め、西に向かって馬を歩ませなさる。
 俊成卿が薩摩守の後姿を遠くまで見送ってお立ちになっていると、薩摩守とおぼしき声で、「前途程遠し、思いを雁山の夕べの雲に馳す」(これからの旅路は遠いが、途中あの雁山を越える夕べの雲に思いを馳せる)と高らかに口ずさまれるので、俊成卿もますます名残惜しく思われて、涙を抑えて門の中にお入りになられる。
 その後、世が静まり、俊成卿が『千載和歌集』を編纂される時に、薩摩守忠教のその時の様子や、言い遺(のこ)された言葉を思い出し、改めてしみじみと思われたので、例の巻物の中には勅撰集にふさわしい歌は幾らでもあるものを、天皇のお咎(とが)めを受けられた人であるため、名前を明らかにはなさらず、「故郷の花」という題でお詠みになられた歌一首を、「よみ人しらず」として入れられた。
 志賀の古い都は今はもう荒れ果てているが、長等山(ながらやま)の山桜は、昔ながらに美しく咲いていることよ

解説
 『平家物語(へいけものがたり)』は、平家の繁栄と没落を、「諸行無常」「盛者必衰」の理念により叙述した軍記物語です。『徒然草』二二六段には、信濃(しなのの)前司(ぜんじ)(信濃前国司)行長が作者であると記されていますが、成立した十三世紀よりかなり後の記述であり、確証はありません。
 ここに載せたのは、「忠教(忠度)都落ち」の場面で、平忠教は平清盛の異母末弟です。忠教の和歌の師である藤原俊成は、寿永二年(1183)に後白河上皇から勅撰和歌集撰進の命を受けたのですが、源平の争乱により編纂はなかなかはかどらず、ようやく文治四年(1188)に『千載和歌集』となって撰進されます。俊成は約束に違(たが)わず、忠教の歌を「詠み人知らず」として一首だけ採りました。もっとも忠教の歌は、勅撰和歌集全体では、合計十一首も入集しています。
 収録された歌の「さざなみの」は「志賀」に掛かる枕詞で、「ながら」は地名の「長等」に「昔ながら」を掛けています。「志賀の都」とは天智天皇の近江国大津宮のことで、天武天皇の頃には、既に荒れ果てていました。忠教が参考にしたと思われる歌があります。「右衛門督(うえもんのかみ)家成歌合」(1149年)における藤原隆長(清輔)の「さゞ波や志賀の都は荒れにしをまたすむものは秋の夜の月」という歌なのですが、上句は一致しますから、下句で秋の歌から春の歌に仕立て直したわけです。
 忠教は後に一の谷の戦いで、武蔵国の岡部忠澄(ただすみ)に四一歳で討たれます。『平家物語』には、忠澄が忠教を討ち取ったと叫ぶ名乗りを聞いて、敵も味方も「あないとほしや、武芸にも歌道にもすぐれて、よき大将軍にておはしつる人をとて、皆鎧の袖をぞぬらしける」と惜しんだと記されていますから、文武に優れていたことが、東国にも知れ渡っていました。
 岡部忠澄が忠教を討ち取った時、箙(えびら)(矢を入れて背中に負う武具)に「旅宿花」と題した「行き暮れて木の下かげを宿とせば花や今宵のあるじならまし」という歌が結び付けられていました。もはや生き延びるつもりはなかったでしょうから、辞世の歌のつもりです。しかしそれにしても、死を覚悟した悲壮感は微塵もありません。死を見ること故郷に帰るが如き、憂き世の迷いを超越した境地だったのでしょう。
 なお「前途(せんど)程(ほど)遠し、思(おもい)を雁山(がんざん)の夕(ゆうべ)の雲に馳(は)す」の詩は、延喜八年(908)、渤海からの使者が帰国する時に、大江朝綱が別れを惜しんで詠んだ漢詩の一部で、それを忠教が知っていたというのですから、文武両道の器量人だったのです。また現在では、「忠教」より「忠度」の方がよく知られています。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『平家物語』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。