今年は夏が殊更暑かったせいか、彼岸花の生育が遅れ、秋分の日が過ぎてようやく花を見ることができました。ネットで彼岸花情報を見ていると、彼岸花は不吉であるとか縁起が悪いなどという情報でいっぱいです。その理由は多くの場合、墓地によく生えていることに拠るとされているのですが、これでは余りにも彼岸花がかわいそうです。
そもそも彼岸花は遺伝的な理由で、絶対に結実しません。つまり人為的か偶然かはともかくとして、球根が移動しない限りは、離れた所に繁殖して広がることは絶対にありません。ですから深山のような人手の入らない所には今でも生育していません。墓地によく生えているといいますが、花が自分の意志で墓地を好むはずはありませんから、もとはと言えば、それは人が植えたからなのです。
彼岸花は曼珠沙華とも呼ばれ、釈迦が悟りに至った時に極楽浄土から降ってきた花と理解されていました。ですから墓の側らに「極楽の花」として供養のために植えていたものを、本来の意味は忘れられて、「死人花」「幽霊花」「地獄花」などと呼ばれて忌み嫌われるようになったのです。田の畔に直線に咲いているのもよく見かけますが、直線に花が増えてゆくわけはありません。球根に毒があることから、土竜(もぐら)や鼠などの侵入を防ぐために、意図して植えられていたのでしょう。
有毒であるために嫌われたという説もあるのですが、それなら鈴蘭も水仙も福寿草も有毒ではありませんか。他にも有毒な園芸植物はたくさんありますから、彼岸花だけが有毒を理由に忌避される理由にはなりません。
16世紀前半に立花を大成した池坊専応が著した『専応口伝』には、「高くたてざる物の事」という項に、曼珠沙華が挙げられています。またその反対に「祝儀嫌うべき草木」の項には挙げられていません。これは「国会図書館デジタルコレクション 華道古書集成」とネットで検索し、その第一期第一巻の40・41コマ目に載っていますから、ご確認下さい。
ところが元禄8年(1695)年の『花壇地錦抄』という書物には、「曼珠沙華 花色朱のごとく、花の時分葉ハなく、此花何成ゆへにや世俗うるさき名をつけて、花壇などにハ大方うへず」と記されています。これは「国会図書館デジタルコレクション 花壇地錦抄」とネットで検索し、その65コマ目の左下部に載っていますから、ご確認下さい。
以上のことから、室町時代までは忌避すべき花という理解はなかったのですが、江戸時代の初期には花にとっては芳しくない呼び名が付けられていたと推定できるのです。
自分では移動できない花を、人が故人供養のために墓地に植えておいて、後から「墓地に生える不吉な花」と決めつけるなど、勝手なものだと思います。それでついつい彼岸花がかわいそうになり、代わりに弁護もしたくなるというものです。
そこで一首詠みました
よし人に 厭はるるとも 天地の 時こそ知りて 花は咲きけれ
たとえ人に嫌われようとも、彼岸花は自分の咲くべき時を知っていて、天に向かって咲いているのです。極楽に往生したいと思っているなら、その前味を教えてくれる彼岸花は、何と嬉しい花ではありませんか。
そもそも彼岸花は遺伝的な理由で、絶対に結実しません。つまり人為的か偶然かはともかくとして、球根が移動しない限りは、離れた所に繁殖して広がることは絶対にありません。ですから深山のような人手の入らない所には今でも生育していません。墓地によく生えているといいますが、花が自分の意志で墓地を好むはずはありませんから、もとはと言えば、それは人が植えたからなのです。
彼岸花は曼珠沙華とも呼ばれ、釈迦が悟りに至った時に極楽浄土から降ってきた花と理解されていました。ですから墓の側らに「極楽の花」として供養のために植えていたものを、本来の意味は忘れられて、「死人花」「幽霊花」「地獄花」などと呼ばれて忌み嫌われるようになったのです。田の畔に直線に咲いているのもよく見かけますが、直線に花が増えてゆくわけはありません。球根に毒があることから、土竜(もぐら)や鼠などの侵入を防ぐために、意図して植えられていたのでしょう。
有毒であるために嫌われたという説もあるのですが、それなら鈴蘭も水仙も福寿草も有毒ではありませんか。他にも有毒な園芸植物はたくさんありますから、彼岸花だけが有毒を理由に忌避される理由にはなりません。
16世紀前半に立花を大成した池坊専応が著した『専応口伝』には、「高くたてざる物の事」という項に、曼珠沙華が挙げられています。またその反対に「祝儀嫌うべき草木」の項には挙げられていません。これは「国会図書館デジタルコレクション 華道古書集成」とネットで検索し、その第一期第一巻の40・41コマ目に載っていますから、ご確認下さい。
ところが元禄8年(1695)年の『花壇地錦抄』という書物には、「曼珠沙華 花色朱のごとく、花の時分葉ハなく、此花何成ゆへにや世俗うるさき名をつけて、花壇などにハ大方うへず」と記されています。これは「国会図書館デジタルコレクション 花壇地錦抄」とネットで検索し、その65コマ目の左下部に載っていますから、ご確認下さい。
以上のことから、室町時代までは忌避すべき花という理解はなかったのですが、江戸時代の初期には花にとっては芳しくない呼び名が付けられていたと推定できるのです。
自分では移動できない花を、人が故人供養のために墓地に植えておいて、後から「墓地に生える不吉な花」と決めつけるなど、勝手なものだと思います。それでついつい彼岸花がかわいそうになり、代わりに弁護もしたくなるというものです。
そこで一首詠みました
よし人に 厭はるるとも 天地の 時こそ知りて 花は咲きけれ
たとえ人に嫌われようとも、彼岸花は自分の咲くべき時を知っていて、天に向かって咲いているのです。極楽に往生したいと思っているなら、その前味を教えてくれる彼岸花は、何と嬉しい花ではありませんか。