うたことば歳時記

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「都忘れ」考

2020-07-13 18:48:43 | 植物
授業の教材研究の必要から承久の乱についていろいろ調べていて、少々気になることがありましたので、思い付くままに書き散らしてみます。それは都忘れというキク科の花に関することです。ネット情報にはおよそ以下のようなことが記されていました。

 1221年(承久3年)後鳥羽上皇を中心とした朝廷方が討幕の兵をあげ,鎌倉幕府軍に鎮圧された承久の乱、敗戦により後鳥羽上皇は隠岐に配流、順徳上皇は佐渡に配流、仲恭天皇は廃位となった。討幕挙兵に反対していた土御門上皇は、幕府は責任を不問としていたが自ら土佐へ行った。佐渡に配流された順徳上皇の御所の庭には、野菊が咲いていた。菊の花は元来皇室のシンボルで、特に後鳥羽上皇はは白菊を好んでいた。順徳上皇は、父が愛した白菊に似た花に「都忘れ」と名付けて、「いかにして契りおきけむ白菊を都忘れと名づくるも憂し」と詠んだ。

 なかなか面白い話なのですが、どのネット情報にもその話の出典が明記されていないので、信じられないのです。まず菊が皇室の紋章になることについて、後鳥羽上皇が大きくかかわっていることは事実です。御所で鍛えた刀に菊紋を刻んだことから、れが皇室の文様になっていきました。ですから順徳上皇は、父である後鳥羽上皇が菊を殊更に好んでいたことはよく知っていたはずです。菊の花を見るたびに父帝や都を懐かしく思いだしたことでしょう。

 そのような順徳上皇が、都や父帝を思い出すよすがとして野菊を愛でたことは十分に有り得る話です。著者はわからないのですが、文明十四年(1482)に書かれた『真野山陵記』という書物があります。(国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます)「真野山陵」とは佐渡にある順徳上皇の陵のことなのですが、そこには次の様に記されています。(拙文を投稿した時は間違いなく閲覧できたのですが、その後なぜか閲覧できなくなっています。)

 ・・・・今は堂の平といふ所に皇居を占めさせ給ひしと見へまいらせて、その御跡の物かなしくふりたるに、いづこも秋の比(ころ)、御友となし給ひしか、都わすれとなんいへる白菊の草むらに今も稀に咲けるとぞ、後の世までの御しるしと語りつたへ侍る・・・・

これによって順徳上皇が御所の庭に咲く白菊を「都忘れ」と呼んで愛でていたという話が、室町時代には存在したことがわかります。ただし「秋に咲く白菊」であることを確認しておきましょう。

 また室町時代末期の権大納言山科言継の日記である『言継卿記』の元亀2年(1571)10月9日の記事には、某親王へ「菊二本 都忘 うす紫」を持参進上したことが記されています。なおこの記事の前後にはしばしば菊を持参する記事があり、自慢の菊だったようです。この記事では、室町末期に、秋に咲く都忘れという名前の薄紫の菊があったことを確認しておきましょう。(これも国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます)

 以上の二つの文献史料から、室町時代には順徳上皇が好んだ都忘れという白か薄紫の秋に咲く野菊があったことがわかります。ところが「いかにして契りおきけむ白菊を都忘れと名づくるも憂し」という歌の出典がどうしてもわかりません。まず目を付けたのは『順徳院御百首』という歌集です。これは順徳上皇が佐渡で詠まれた歌を編纂したものですから、もし本当に詠まれているならば、この中に収められている可能性があるからです。しかし丁寧に読んでみましたが見当たりません。『新古今集』以後の主な歌集にもありません。

 ところが昭和17年に出版された近藤勘治郎著『越後佐渡に於ける順徳天皇聖蹟誌』という書物には、御製として紹介されています。同書は史料の考証についてはあまり厳密ではなさそうなのですが、きっと何か根拠がなければ、「御製」とまでは書かないと思いました。 

 するとこれをどのように理解したらよいのでしょうか。その歌を順徳上皇の御製とする理解があったことは事実のようです。ただし確かな文献的根拠は不明です。すると考えられるのは、室町時代の『真野山陵記』の記述に基づいて歌心のある人が詠み、順徳上皇御製として伝えられていると宣伝したのではないかということなのです。ただし私の知らない出典がどこかにあるのかもしれません。もしあったとしたら私の力が及ばなかった点について、お詫びをいたします。

 ただ明らかに秋の野菊ですから、現在一般に知られているミヤコワスレでないことは確かでしょう。ミヤコワスレは初夏の花なのですから。また色は白か薄紫ですから、ミヤコワスレの紫は、少し濃すぎると思います。秋に咲く野菊の仲間は何種類もあり、順徳上皇がそれらを識別していたとも思えませんから、都忘れが現在の何という品種なのかと詮索することはあまり意味がなさそうです。それより「都忘れ」はノコンギクやヨメナやユウガギクなどのような秋に咲く野菊のことと理解した方がよいのではないかと思います。

 順徳上皇が見るごとに都を偲ばれていたという花が秋の野菊であったことから、大胆な連想が湧いてきます。薄紫色のいわゆる野菊は、植物分類学的にはどれもシオン属なのです。要するにみなシオンの仲間なのですが、平安時代以来、紫苑(しおん・しをに)という花は、親の恩を忘れないという意味を持っていました。これは『今昔物語集』に載せられています。その話については、「うたことば歳時記 高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 今昔物語集」と検索してみて下さい。詳しく私が解説した文を御覧になれます。

 この逸話はよく知られていましたから、順徳上皇もおそらく御存知だったと思います。父君である後鳥羽上皇は菊の花を殊更にお好きであったのですから、野菊を見ては都や父君を懐かしく思い出されたことでしょう。ですから順徳上皇が愛でられたという都忘れは、シオンの仲間だったのではないかと推理しています。もちろん根拠はありませんから断定はしませんが、そのように理解すると、話がうまくつながるのです。

 もし「御製」の確かな出典を御存知の方がいらっしゃいましたら、是非とも教えて下さい。

追記
都忘れについてさらに、順徳上皇の壮絶な臨終の様子を付け加えましたから、「都忘れ再考」と検索して御覧下さい。


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